長文 3.1週
1.【二番目の長文が課題の長文です。】
2. 【1】情報処理能力。
3. これはまず、コンピューターのことを考えてください。コンピューターはいま、日進月歩しています。たとえばA、B、C、Dというふうにたくさんの情報があったとします。
4. 【2】古いコンピューターは、Bの情報は処理できるけれども、AやCやDの情報は処理できないとします。時間もかかる。でも新しいコンピューターで情報処理能力が高まれば、メモリーも大きいし、クリックすることもできる。AもBもCもDも、処理してしまいます。
5. 【3】病気というのも、結局、一つの情報にしか過ぎません。そうすると、古くて情報処理能力の低いコンピューターは、病気があってもその病気を情報処理することができないので、病気を解決することができません。
6. 【4】ところが、新しいコンピューター、情報処理能力の高いコンピューターは、AもBもCもDも、山積みする問題を一瞬いっしゅんのうちに情報処理してしまいます。病気という情報が処理されて、病気がなくなってくるわけです。
7. 【5】この情報処理能力が高い低いというのは、その人の病気に対する態度だけを見るのではなくて、その人がほかの人に対してどういう態度をとっているのかということが非常に大事になってきます。
8. 【6】つまり、自分のことだけを大事にするとか、好き嫌いす きら が非常にはっきりしているとか、この人だったら好きだけど、この人だったら嫌いきら ……。これも結局、情報処理能力が非常に限られているということになります。
9. 【7】この情報処理能力がうまくいかない一つの原因は、生まれたときの「三つ子のたましい」という、小さいときの育て方によって変わってきます。小さいころに、お父さんとお母さんの一〇〇%の愛情と、自分が愛されているという気持ちを持って育っていない人は、このコンピューターの情報処理能力が低いまま、大人になってくるわけです。
10. 【8】お父さんが非常に怖いこわ 人で、いつもその顔色をうかがいながら大きくなってきたというケースでは、その人の心は、そこで傷ついたまま、大きくなってこないのです。体は大きくなってくるけれども、心が大きくなってきません。∵
11. 【9】情報処理能力が大きくなってこないので、こういう人たちが病気になったときに、それを自然に情報処理する能力がなくなってきます。病気という情報体を処理できなくなってくるのです。【0】これは病気だけではなくて、たとえばその人の家庭が非常に不幸ばかりであるとか、あるいは事故を起こしやすいとか、あるいは何をやってもうまくいかないとか、そういうものにも通じてくるわけです。
12. 病気とは、簡単にいえば、その人の情報処理能力の低さがそこで浮き彫りう ぼ にされてくるということです。だから、その情報処理能力を高めてあげるという治療ちりょうをすると、病気だけではなくて、ほかのことも処理できるようになってきます。
13. 心の歪みゆが を治すということは、これによって引き起こされる肉体的病気を治すことになりますが、あまりにも肉体的症状しょうじょうにこだわる方にはこうお話しします。
14.「私は、肉体的な病気というものにはあまり興味がありません。私が興味があるのは、その病気を通して、あなた自身の生活や人生をもっと楽しくする、幸せにすることです。それが私の治療ちりょうなので、ここが痛い、あっちが悪い、という話は興味がないのです。だつてあなたは、あなた自身の肉体的病気だけを治したとしても、それだけで本当に幸せになれますか?」と。
15. 私は、病気を通して、その人の人生がより豊かになるという形の治療ちりょうを心がけています。病気を通して、患者かんじゃさんとそのほかの人々の人生を豊かにするというチャンスを差し上げる、そういう治療ちりょうを目指しているのです。
16. 肉体的な病気治しは本当に通過点にすぎないのです。∵
17. 【1】しつけは心の面で実に複雑な仕事をする。外から見てしつけで一番目立つのは母親やそれに代わるはたらきをする重要な人物が子どもの行動を制限してひとつのわくや型にはめ込む  こ ということである。子どもの思いというより、親の思いに従わせることである。
18. 【2】赤ん坊あか ぼう時代のように、子どもは自分の好きに行動したり、欲求を充たしみ  たりすることができなくなる。おっぱいが欲しくても与えあた られなくなる。オシッコやウンチを垂れ流しにすると、叱らしか れたり、きまった時間やきまった場所にするように促さうなが れる。【3】また、食事もきまった時間や場所でしなければならない。よごれたらいやでも手や顔を洗ったり、服やシャツなどを着替えきが て身ぎれいにせねばならない。
19. これまで好きなようにやれていたのに、この変化は大変なことである。【4】これまでやったこともないことを強制される。逆らうと時にはばつを受け痛い目にあう。逆らってもよいことはない。従うほかない。
20. このような外からの心理的な圧力を受けいれることは大変なことである。【5】このためには、親は自分のためにやってくれているという信頼しんらいや信用を心のどこかでもっていることが必要である。言い換えるい か  と、母親の世界を信頼しんらいするからこそ、はじめてしつけという苦痛な制限を受けいれることが可能となるのである。これによって苦痛で不快な制限を受けいれるのである。
21. 【6】しかし、母親を含めふく て自分の周囲、つまり世界が自分にばっ与えあた 行動を制限する力をもつものだという不信感もどこかに残る。これがアンビヴァレンスである。また、苦痛の向こう側には親や同胞どうほうや自分を受容する世界が開かれていること、自分がより一層自由に表現ができる世界があることも体験する。
22. 【7】このようにして、しつけは外からの制限を内在化して、その内的な規範きはんわくによって今度は自分を統制し、社会的に受けいれられるようになる人とのかかわりのプロセスのことである。このことが自律性の形成という重要なプロセスであり、これはとても複雑な心のプロセスということができる。
23. 【8】このプロセスを苦痛や不安が妨害ぼうがいする。苦痛、不安、不快に∵対抗たいこうしてプロセスを進めるのが親への信頼しんらいである。信頼しんらいがないと外の力に一時的に屈服くっぷくさせられて命令に従うが、その命令は内在化されない。【9】外的命令が内在化されないままの場合、外的な力が遠ざかると再び自分の内的な衝動しょうどうに従った行動が出てしまうことになる。
24. 内在化が少ないことは、自分の行動を自己統制する力が生まれないことを意味している。【0】だから外的に適応した行動が必要なときには、その場に外的な力を代表する人がいなければならないことになる。普通ふつうはこの役割を母親に任せ、自分の身代わりの代理自我として行動している。そして、受け身的に与えあた られるものを受け取るという心の体制をつくりあげてしまう。
25. 内的な規範きはんをつくりあげて、構造ができるためには、内発的な規制を思案しなければならない。しかしわが国の場合、外的なもので行動を規制したり、また支援しえんしたりすることが多い。例として、日ごろ私たちの目にとまるのは、次のようなことではないだろうか。
26. 私は勤務地への通勤にJRを利用している。車両は四人けでたまに親子が同席して座ることがある。行儀ぎょうぎが悪く、席の上で騒いさわ だり、くつのままで席を汚しよご たりすることがある。しかし、母親は平気で子どものために他人が迷惑めいわくをしていることなど、関心がないかのように振る舞うふ ま 。こんなときに、思いきって注意をすると、子どもはおとなしくなるが、母親は怒っおこ たような顔をする。悪かったと謝る人は多くない。しばらくして、また子どもがごそごそすると、今度は次のように言う。「ほら、となり恐いこわ おじさんがいるから、静かにしなさい」「となりのおじさんがまた、怒るおこ よ」子どもは私の方をじろりと見て静かになる。子どもが他人に迷惑めいわくをかけているのは、子どもや親の問題ではなく、となりのうるさいジジイのせいなのである。行動の規制は内的というより、私という外側の人間のせいなのである。私がいなければ、同じ行動も平気で許されるらしい。
27. 私たちはこのような外的な規制をいつもやっていないだろうか。「近所の人が見ているよ」「先生からしかられるよ」「友達が笑うよ」といった外的な規制は、内発的に善悪の基準をつくりあげるは∵たらきかけではない。「周囲が見ているか」「権威けんいの目」といったことによって、自分の行動を規制し、価値判断をしようとする姿勢である。
28. これらの姿勢は自分が価値判断をするのではなく、周囲に判断を任せ、それに従う姿勢を要請ようせいしていることになる。そのためには、いつも周囲の反応はどうか、周囲の判断はどうかに敏感びんかんでなければならない。
29. ある行動をして悪かったのは、他人が注意をしたからであり、他人が悪いと判断したからである。だから、同じ行動でも、他人が悪いと判断しなかったり、判断を逃れのが たりすると、それは許される行動となってしまう。場面によって、同じことが駄目だめになったり、よいということになったりする。
30. 先ほどの列車のなかでの子どもの行動も、私が駄目だめと言ったから駄目だめなのであり、前の日には同じ行動も許されていたのである。また、私がいなければ許されるのである。 (中略)
31. これが人格の受け身性ということであり、自律性の形成不全である。受け身性は与えあた られた遂行すいこうすべき課題に対して無力となることが多い。母親のような代理自我が存在する場合は適応的な行動をすることができるが、代理自我的な人物がいないと、無力な自分が人前にさらされてしまうことになる。隠すかく べき自分を隠すかく 術もなく、自分がむき出しのまま人にさらされる可能性が高くなる。
32. 
33.(たたら八郎はちろうはじと意地――日本人の行動原理」による)