1. 【1】
渓流に糸をたれた
釣人のすがたを見ると、変な連想だけれども、ぼくはいつもじぶんの張った
網でじっと
獲物のかかるのを待っている
蜘蛛のすがたを思い出してしまう。たんに、
獲物を待っているすがたが似ている、というのではないのである。【2】
釣りをしている人間が自然とのあいだにつくりあげようとしている一つの「関係」のようなものが、
蜘蛛が
網をとおして
蝿とのあいだにつくりあげようとしている「関係」と、とてもよく似ているとぼくは思うのだ。
2. 【3】
蜘蛛は
蝿とはちがったやりかたでまわりの世界を見、知覚し、その世界のなかを動きまわり食べながら、生きている。
蜘蛛と
蝿は生物としての構造が
違う。【4】だからそれぞれは、それぞれのちがったやりかたで自然の世界を生きている。ちょっと気どって記号論風に言えば、ふたつの生物は異質なコードをとおして、まわりの自然と交流しあっているのだ。【5】だから、もしも
蜘蛛が空中に張りわたしたあの
網さえなければ、
蜘蛛と
蝿とはおたがいのあいだになんの関係もつくりあげることのないまま、おなじ空間のなかの
違う世界を
棲みわけつづけることもできただろう(なにしろ、ふたつの生物は別種のコードをとおして、おなじ空間を別のもののように知覚しているのだから)。【6】ところが、ここに
網がある。
蜘蛛が長い生物進化のなかでつむぎだしてくるのに成功した
網がある。この
網が異質なコードのあいだの接続を実現してしまうのだ。
蝿は
網にかかる。この
瞬間に
蝿はいやおうなく、別種の生物である
蜘蛛のコードをうけいれざるをえなくなるのである。【7】またそれと同時に、
蜘蛛のほうも
蝿のコードをうけいれる準備をととのえておかなければならなかったはずだ。もし
蜘蛛が
蝿の生物学的なコードをまったく無視していたりすれば、
蜘蛛の張った
網はいつまでもむなしく風のそよぎばかりをうけとめていなければならないだろうから。
3. 【8】
捕食という生物の現象のなかには、いつもこういう「コード横断(transcodage)」がおこっている。つまり、ひとつ∵の生物が別の生物に出会い、異質なコードどうしが
接触する場所に、生物界のもっとも感動的な
瞬間が発生するのである。【9】「自然はひとつの音楽だ」と言われるときの「音楽」は、じつはこの
瞬間のことをとらえた言い方なのである。たがいに異質なコードどうしが
接触しあい、おたがいのあいだに横断がおこったとき、そこにはリズムが、メロディーが発生する。【0】雨が植物の葉っぱをうつ。そこに音楽が生まれる。だがこのとき葉は雨のコードを受け入れてしなり、雨は植物を受けとめて落下の方向を変化させていく。ここでも同じ現象がおこっている。生物が別の生物を待ちうけておたがいのあいだに決定的な
接触の状態をつくりだそうとするときと、おなじ「コード横断」の現象がおきている。
4.
釣人が
渓流に
釣糸をたれているとき、そこにおこっているのも、まったくおなじ「コード横断」の現象だ、とぼくは思うのだ。人間はこのとき
釣竿をとおして水のなかの生物界と関係をつくろうとしている。(中略)
5.
釣りのもっとも感動的で
魅力的な
瞬間は、この「コード横断」のおこるカタストロフィの
瞬間なのだろう、とぼくは思う。その
瞬間に「人間─
釣竿─糸─
餌(針)─魚」という、それをひとまとめにしてみると、まったく
奇妙な混合生物ができあがっている。このとき、人間もふつうの生活のときとは
微妙にちがう生物に
変貌している。
彼は細心の注意をはらって、からだの動きや感情や知覚をコントロールして、じぶんの生物的コードの一部分を、魚のそれとの
接触と横断が可能になるような状態に変化させておかなくてはならないからである。
釣人はこのとき魚の生物コードの一部分をじぶんのなかにとりいれている。人間が水中に入りこんで乱暴に魚を手づかみにするときにはこういう
微妙な変化はおこっていない。
6.(
中沢 新一『
蜜の流れる博士』)