1作曲に集中しているとき、不意に、音楽というものが、自分の知力や感覚では、捉えようもない(神秘的な)ものに思われることがある。自分なりに、音楽が解ったような気がしていただけに、そんな時、私は、戸惑いや焦りの後の無力感に挫けそうになってしまう。2だがその無力感は、深刻な絶望とは異質な、むしろ居心地良さと温もりさえ感じられる「たぶんそれはなにか途方もなく大きな」諦めのようなものだ。こんな感情は、言葉ではとても伝え難い。私は待つしかない。3期待ということではなく、己を空白にして音が私に語りかけてくるまで待つ。音を弄って私の考えで縛ることから離れて、耳と心を全開にする。
4作曲という仕事は、どうしても音を弄り過ぎて、その音が本来どこから来たかというような痕跡までも消し去ってしまう。方法論だけに厳格になると、ともすると音楽は紙の上だけの構築物になり空気の通わないものになる。5例えば、ひとつの和音は、物理的波長の複雑な集束として、音響学的には、殆ど不変のものとして存在し、また規定し得るだろう。6だが音楽という有機的な流れの中では、その(ひとつの和音の)響きは千変万化するもので、その表情の豊かさは、まるで、生きたもののようである。7一般に言われる、長和音は明るく、短和音は暗いというようなことがかならずしも正確でないのは、注意深く音楽(作品)を聴けば、容易に、理解されることである。
8ではなぜ、音は、恰も生きたもののようにその表情を変えるのだろう? 答えは、至極単純に違いない。即ち、音は、間違いなく、生きものなのだ。そしてそれは、個体を有さない自然のようなものだ。9風や水が、豊かで複雑な変化の様態を示すように、音は私たちの感性の受容度に応じて、豊かにも貧しくもなる。私は音をつかって作曲をするのではない。私は音と協同(コーオペレイト)するのだ。0だが、私が、時に「作曲家として」無力感に捉えられるのは、私がまだ協同者「音」の言葉をうまく話せないからだ。
先日、ある紙上に、高見順賞を授賞された吉田加南子さんの受賞
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