ビワ3 の山 8 月 1 週
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○自由な題名
○結果と過程、ライバルはよいか
○■ 英文のみのページ(翻訳用)
○あの荒地へ
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あの荒地へ水を引く法があるのかと、城へ帰ってから昌治(まさはる)がきいた。およそ三十年ほど前に、その案を申請した者がおります、と小三郎(しょうざぶろう)は答えた。井関川の上流から特殊な方法で堰を掘ると、荒地へ水を引くことができる。その方法を図面にして申請した書類が、いまでもわが家の蔵書の中に残っている、と小三郎(しょうざぶろう)は熱心に付け加えた。
「いまの老臣どもはそれを知っているのか」
「わかりません」と小三郎(しょうざぶろう)は口ごもった、「滝沢御城代(じょうだい)は知っておいでだと存じますが、どうやら御内福と評判の藩としては、このうえ物成りを殖やして、幕府ににらまれることをおそれているのではないか、というような評を聞いたことがあります」
「一度その図面を見よう」昌治(まさはる)はそういって小三郎(しょうざぶろう)の眼を見つめた、
「――明日は剣術の相手を申し付けるぞ」
「こんなことを申し上げてはお怒りを受けるかもしれませんが」小三郎(しょうざぶろう)はよく思案しながらいった、「あまり一人の人間をごひいきあそばしては、家中(かちゅう)へのしめしがつかなくなるのではございませんか」
「おまえは滝沢の伜のことをいっているのか」
「誰とは限りません、わたくしはもう三十余日も、お忍びのお供をしております、これでは家中(かちゅう)の噂にならずにはいません」
「噂になっては悪いか」
「お側小姓は五人、ほかの者にもお目をかけていただきたいのです」
「よし、聞いておこう」昌治(まさはる)はいった、「だがおれは、おれの好きなようにする、ということも覚えておけ」
小三郎(しょうざぶろう)は低頭してさがった。
昌治(まさはる)は四月に初入国をしてからまもなく、忍び姿で城の搦手をぬけだし、小三郎(しょうざぶろう)だけを供に領内を見てまわった。それ以来三十余∵日、雨風にかかわらず、その見回りは休まずに続けられた。初めのころ、小三郎(しょうざぶろう)は自分のしらべた領内踏査の帳面を見せた。昌治(まさはる)はあまり興味をそそられたようすはなかった。小三郎(しょうざぶろう)だけを供にするようになったのはそのあとのことだが、踏査帳を見せろとは二度といわなかった。この忍びの巡視は厳重な秘密にされていたが、藩主がこのように出あるけば噂にならずにはいない、まして供はまだ十五歳の小三郎(しょうざぶろう)ひとりである。口に出してこそなにもいわないが、自分を見る人たちの白い眼がしだいに露骨になってきたことを、小三郎(しょうざぶろう)は敏感に気づいていた。
そして梅雨にはいったある日、彼が勤めを終わって下城してくると、材木倉のところで十人ばかりの少年たちに取り囲まれた。としは十五、六から十七、八どまり、みな従士組(かちぐみ)の子たちで、ほとんど知っている顔だった。
「ちょっと聞きたいことがある」と今原修平という少年がいった。「裏の原まで来てもらおうか」
小三郎(しょうざぶろう)は彼らが、みな木剣を持っていることを見てとり、なんの用かときき返しながら、いつかのときと同じだな、と思った。「原へいってからわけは話す」と今原は怒ったような声でいった。「ここでは邪魔がはいる、あるけよ」
彼らは四方をかためた。小三郎(しょうざぶろう)はおとなしくあるきだした。まえには尚功館(しょうこうかん)、目見え以上の子弟だったが、こんどは父の組下の徒士の子たちだ、上からも嫌われ、下からもそねまれている。父のいったことは事実だったんだなと、あるきながら小三郎(しょうざぶろう)は思った。けれど、おれはへこたれもしない、力以上の無理押しもしないぞと。――雨はやんでいたが、原の雑草は濡れているので、小三郎(しょうざぶろう)はじめ彼らの袴も、裾のほうはずっくり濡れてしまった。
(山本周五郎「長い坂」)