1. 【1】
我が家のリビングには、
僕の
赤ん坊の
頃の写真が
飾られている。よく「小さいころの写真を見るのは
恥ずかしい」という人がいるが、この写真に限って言うなら、
僕はそうは感じない。物心ついたときからそこにあり、毎日見ているため、もはや慣れてしまって、今さら照れくさい気持ちにはならないのである。
2. 【2】むしろ、写真の中の赤ちゃんは、
我ながらとてもかわいらしいと思うほどだ。何がそんなに
嬉しいのか、というほど目を細め、口を上げて
微笑んでいる。それがピントもばっちりのアップで写された、良い写真である。【3】
僕はときどき「こんなに可愛い赤ちゃんが、今ではすっかりかわいくない少年になってしまったね」と
冗談を言う。母はそれを聞くたびに、そうねえと大笑いをするのだ。
3. ある日、
僕はひとりで留守番をしていて
暇だったので、その写真をしげしげと
眺めてみた。【4】本当に自分なのか
疑った、というわけではないが、成長した現在の顔と、どれくらい変わったか見比べてみようと思ったのだ。
4. 色々と見回してみて、一つ、昔と今でまったく変わっていない部分を発見した。それは、鼻の頭にある小さな
傷だ。【5】今では
痛くもかゆくもない
傷あとであるが、写真ではついたばかりのようで、よく見ると結構
痛々しい感じだった。こんな
傷があるのににこにこしているとは、やはり
赤ん坊は
無邪気なのだなと、
僕は他人事のように思った。
5. 【6】やがて母が帰ってきて、
僕は気付いたことを報告した。すると母は、やけに重々しい口調で、「実は今まで
隠していたことがある」と切り出した。それは、
僕にとって
衝撃の事実であった。
6. なんと、
僕の鼻の
傷は、まさにこの写真を
撮った時についたものなのだという。【7】カメラを構えた父に向かって、
赤ん坊の
僕はすごい勢いで
這っていったらしい。母が止める
暇もなかったという。そして
僕はそのままカメラのレンズに
激突し、火がついたように泣きわめいたのだそうだ。∵
7. 【8】そう、
微笑ましい一
枚だとばかり思っていたこの写真は、笑っているのではなく、
痛みと
驚きで泣き出す
寸前の
歪んだ表情をとらえたものだったのである。
8. 人間の先入観とは
恐ろしいものだ。ただ、それが分かった上で見てみても、写真の中の赤ちゃんはやはり幸せそうに見える。【9】
痛みや失敗も
含めて、
愉快な家族の思い出になっているからだろうか。
9. 今まで注目してこなかった写真にも、さまざまな
隠された物語があるのかもしれない。
僕は今度の留守番のとき、改めて古いアルバムを開いてみようかと考えた。【0】
10.(言葉の森
長文作成委員会 ι)