長文集  1月2週  ★真意を伝えるのは(感)  nnze-01-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】真意を伝えるのはむつかしいが、誤
解をうけることはやさしい。私はけっして文
学至上主義者ではないが、同様、視聴覚文化
の主謀者でもないつもりだ。【2】私が言い
たいのは、要するに、言語芸術と視聴覚芸術
とは、機械的に対立させられるべきものでは
なく、そこに共通の課題を見出すことによっ
て、はじめて両者の独自性も発揮できるのだ
という、ごく単純なことにすぎないのであ 
る。
 【3】サルトルは、「嘔吐」(正しくは、
むかつきとでも訳すべきものだろう)という
小説の中で、まだ、名づけられないもの(=
実存)が人間にあたえる衝撃と苦悩をえがい
た。名づけ、言語の秩序の中にくりいれるこ
とで、人間は外部の存在を服従させ、安全な
ものにし、家畜化することができたのである
。【4】たとえば、棒に棒という名前をあた
え、棒として認識することで、個々の棒では
ない、抽象的な棒一般(無限個数の棒)を手
に入れることが出来 た。すなわち、道具の
使用が可能になったわけである。猿も棒をつ
かう。しかし猿のつかう棒は、棒一般ではな
い。【5】したがっ て、猿は道具をつかう
ことができないのである。人間はほとんどす
べての存在に名をあたえてしまった。単に名
前をあたえただけでなく、物と物の関係を言
葉の組立てによって言いあらわした。文法の
進化とは、つまり人間の自然認識の進化にほ
かならないわけだ。【6】この関係は赤ん坊
から大人への言語習得の過程をみてもよく分
る。また失語症の患者が文法構造を次第に小
児型から幼児型へと退行させていくのに並行
して、空間関係の認知までが対応的に崩壊し
ていくという事実もある。【7】重症の失語
症患者になると、角度の概念までが無くなり
、板を直角にきるために定規をつかうという
操作さえできなくなるということだ。現実へ
の言語の浸透には、想像以上のものがあるの
である。
 こうしてわれわれの堅固な日常世界が構築
される。【8】パヴロフはこれをステロタイ
プ、安定化した条件反射と呼んだ。もっとも
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パヴロフはべつにロマンチストではなかった
から、ステロタイプという言い方を、かなら
ずしも否定的な意味だけにつかっているわけ
ではない。【9】むしろ、個体保存のための
、きわめて効果的な能力として評価している
くらいだ。たしかに言語のヨロイをはぎとら
れた∵失語症の患者は、あたかも幼児のごと
く、無防備になってしまうのだから。言いか
えれば言語を媒介にしないむき出しの事物と
は、一種の魔境にほかならない。【0】むき
出しの事物は、意味をもたない。そこには因
果関係も、脈絡も、観念の誘発も連想もあり
えない。ただ口唇感覚の延長上にとらえられ
た切れぎれな印象の断片だけが現実である嬰
児の世界、もしくは寸断され変形され事物相
互の脈絡を見失った精神分裂の世界だけが、
かろうじてその裸の事物の不気味な姿を類推
させるくらいのものだろう。おそらくそれ 
は、メドゥサの頭のように、見たものを石に
する。言葉は、メドゥサの呪術から身を守る
、鏡の楯なのである。
 ところが、いわゆる映像論者は、犬だろう
と、猿だろうと、赤ん坊だろうと、眼があり
さえすればなんでも同じように物が見えると
いう、きわめて素朴な反映論に立っているら
しく、平然と次のような主張をする。「映像
は、言語とちがった、独自の方法で、さまざ
まな抽象的内容を表現し、伝達し得る、云々
……。」しかし残念ながら私には、言葉をも
たない動物――犬や、猿や、豚――等が、な
んらかの抽象的思考に到達しえただろうなど
とは、想像することもできない。そんなこと
はただ、童話の中でしか起こりえないことで
はあるまいか。どうやら映像論者の諸君は、
言語の機能を過小評価しているのみならず、
彼らの旗印であるはずの映像についても、言
語の類比でしかみないという、不当な誤ちを
おかしているように思われてならないのだ。
 (中略)
 かと言って、べつに映像のもつ意義を無視
しようとしているのではない。それどころか
、実は映像論者などより以上に、映像の今日
的意義を高く評価しているつもりである。い
わゆる、映像論者というのは、一見映像と言
語を対立的にとらえているようにみえながら
その実、映像を言語と対等の場所にもち上げ
ようとしてやっきになっている、その言語コ
ンプレックス患者にすぎないのだ。映像価値
は、なにも言語と対等であることで保証され
るものではない。むしろ、一切の言語的要素
――抽象による安定や普遍化、意味づけ、伝
達、解釈、連想、その他――と拮抗して、破
壊的に作用すると∵ころにこそ、その存在理
由を見出すべきではなかろうか。
 映像の価値は、映像自体にあるのではない
。既成の言語体系に挑戦し、言語に強い刺激
をあたえて、それを活性化するところにある
のだ。 (中略)
 こう考えてくると、文学と視聴覚芸術とは
もはや単なる対立物などではありえない。ジ
ャンルの如何(いかん)をとわず、もともと
芸術的創造とは、言語と現実との癒着状態―
―言語という壁にとりまかれた、ステロタイ
プの安全地帯――にメスをいれ、異質な言語
体系をつくり出す(それはむろん同時に新し
い現実の発見でもあ る)ものであるはずだ
。このことは、当然のことながら、散文芸術
についてもそのまま当てはまる。小説が、言
語(=意識)に衝撃をあたえ、それを活性化
するだけのエネルギーを回復するためには、
一度まず小説という枠をはなれ、芸術の共通
課題に立ってみる必要があるだろう……とい
う意味では、私はやはり映像主義者以上の超
映像主義者に違いないし、またそれをもって
任じてもいる。だが同時に、視聴覚文化の現
状は、映像の破壊力を利用するどころか、小
説同様に言語の壁にがんじがらめになってい
るわけで、この停滞をうち破るためには、さ
らに強く方法意識が自覚されなければなるま
い……。という意味では、むしろ文学(たと
えばこの私の文章などをもふくめたごく広義
の)主義者になるわけだ。
 映像で方法は語れない。そして、言語の壁
は、想像以上に堅固なものである。小説家も
また、言語破壊のダイナマイト造りに参加す
る義務があるだろう。

(安部公房「砂漠の思想」による)