長文集  3月2週  ★人間科学における根本問題は(感)  nnze-03-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】人間科学における根本問題は、研究
の対象が人間であり、それを行う主体の方も
人間である、ということである。このこと 
は、人間科学を考える上で忘れてはならない
ことである。しかし、「科学」という場合、
われわれは、まず自然科学のことを考え、わ
けても物理学をその中心として考えるのでは
なかろうか。【2】村上陽一郎は「科学」と
いうことについて、常に深い思索を展開して
きているが、一般に、科学的ということに対
して、「分析的であ る」という暗黙の前提
があり、このことをもう少し詳しく言えば、
「現象を、ただ現象としてとらえるのではな
く、【3】その現象 を、それを成立させて
いる何らかの要素群に分解し、その要素群 
が、時間―空間のなかでどのように振る舞う
か、その有様を記述することによって、もと
の現象を説明する」ということになろう、と
述べている。【4】そして、このような考え
に立つ限り、物理学が科学のなかの模範とな
ってくるのも当然であろう、としている。
 村上の言うとおり、この方法によって近代
科学はその方法論を確立し、これによって得
た事象の因果関係の法則を知ることにより、
人間は自然を支配するようになってきたので
ある。【5】近代科学の成果は取り立ててこ
こに述べる必要がないほど、われわれは日毎
にその恩恵を受けて生きている。このように
近代科学の成果があまりにも見事であるので
、近代科学による現実認識が唯一の正しいも
のである、という考えが一般に強くなってき
たのも当然である。【6】しかし、ここでわ
れわれは近代科学が正しいというのと、近代
科学による世界観が正しいというのを区別し
て考えねばならない。
 近代科学のはじまりにおいて、その方法論
の根本にいわゆるデカルト―ニュートンのパ
ラダイムがあることを忘れてはならない。【
7】このことは、必ずしもデカルトやニュー
トンという人間がそのような世界観をもって
いたことを意味するものではないが、近代科
学のよって立つパラダイムを通常このように
呼び習わしているのである。
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 【8】デカルト―ニュートン・パラダイム
において最も大切なことは、明確な「切断」
の機能である。自と他を切り離すこと、精神
と物質を切り離すことが第一の前提である。
他から切り離された「自」が自と無関係に、
「他」を観察する。【9】その結果わかって
きたことは、「自」と無関係である故に、誰
にでも通用する普遍性を∵もつ。このことは
実に偉大なことである。ニュートンの見出し
た法則は、ニュートンという人間、イギリス
という国などを超えて普遍的な真理としても
提出できる。【0】もちろん、これに対して
疑問を呈することは誰でも可能であり、その
際は、ニュートンの行ったのと同じ実験を、
彼の「自」を事象から切り離す方法を踏襲し
て行い、検証することができる。論理実証主
義という方法論によって、ある法則の正しさ
が、誰にでも何時でも、確かめることができ
るようになったのは、実に強力なことである
。それのもつ普遍性というものが実に広いの
である。 (中略)
 自然科学の方法および、そこから得られる
結果が普遍性をもち、その法則があまりに有
効であるので、その方法を社会科学や人文科
学が借りようとするのも無理からぬことであ
る。そして、そのような方法によってそれな
りの成果を得ている。そこで、自然科学の方
法を人間に対しても適用することによって、
「人間科学」が発展するわけで、生命科学な
どはこの部類に属するであろう。このような
「人間科学」は今後ますます発展してゆくで
あろう。しかし、これだけによって、人間の
研究のすべてをつくしているとは言い難いの
である。
 ここで筆者の専門とする臨床心理学におけ
る例について考えてみよう。たとえば、ある
非行少年に対してわれわれが「自」と「他」
の区別を明らかにして、極めて客観的な研究
を行った結果、その少年の非行の在り方、両
親の生き方、友人の有無などから判断して、
「再教育不能」と断定する。その後も客観的
観察を続けたところ、確かに非行はますます
悪化し、先の科学的判断は正しいことが立証
される。このようなことをしても、まったく
のナンセンスであることは誰しもわかるであ
ろう。
 このようなとき、臨床家のこころみること
は、前述した自然科学的態度とは異なって、
その非行少年の行為を「それを成り立たせて
いる何らかの要素群に分解し」たりするので
はなく、まず、その少年を一個の全体的な人
間として、むしろ、「自」と「他」との区別
をできるだけなくするようにして、彼とのか
かわりを求めてゆくことである。われわれが
そのような態度で接してゆくと、その少年は
あんがいに本音で話をしてくれたり、誰にも
話をしたことのない∵大切な秘密を打明けた
りして、そこから、彼が立ち直ってゆくきっ
かけが開かれたりする。もちろん、一度や二
度の面接で事が解決することはなくて、われ
われが前述のような態度で接し続けている 
と、彼もだんだんと変化して立ち直ってくる
。ここは、そのことについて論じる場ではな
いので省略するが、このような過程を記述す
ることも、「人間の科学」であると言えない
であろうか。
 キュブラー・ロスは死にゆく人を看とって
、その過程として一般的に言って、1死の否
認、2怒り、3(神との)取り引き、4抑(
よく)うつ、5死の受容、の五段階を経るこ
とを明らかにした。彼女のこのような発見は
、現在においてターミナルケアをする人たち
に対する重要なひとつの指針となっている。
このことにしても、もしキュブラー・ロスが
死んでゆく人を「客観的観察の対象」とする
態度で接していたのでは、決して明らかにな
らなかったであろう。つまり、研究の対象で
ある人間に対して、研究者がどのような態度
をとるかによって、そこに生じる現象が異な
ってくるし、また、そのことこそが人間の研
究にとって極めて大切なことなのである。

(河合隼雄「人間科学の可能性」による)