1. 【1】テレビの教養番組で、アメリカのロボット研究の現状を見た。映像による報告はさすがになまなましく、あらためて文明の行方について考えさせられた。科学者たちはじつに
無邪気に技術の夢を楽しみ、限りなくロボットを人間に近づけようとしているのである。
2. 【2】研究の一つの方向は、ロボットの精神的な能力を拡張し、判断力や感情さえ持った機械を造ろうという試みである。外形も二足歩行の人体に似せ、顔の表情まで再現する技術が
磨かれている。脳の働きをするコンピューターがさらに発達すれば、ロボットが人間と手をとって街を歩く日も遠くないという。
3. 【3】もう一つの方向は、人間の身体の一部を機械で
置き換え、脳と機械を直結するサイボーグ造りの動きである。これはすでに身体障害者の補助器具として実現していて、
肩の筋肉の指令を受けて動く
精妙な義手が発明されている。【4】光を感受するチップで失われた視力を回復させたり、
衰えた脳のなかに
記憶装置を
埋め込む研究も行われている。この努力の究極の姿は、やがて人体から脳だけを残し、
四肢や内蔵のすべてを機械で補強する、人間改造計画に行きつくことになるらしい。
4. 【5】見ていてふしぎだったのは、現場の研究者も評論家も
含めて、アメリカの知識人がこうした研究にきわめて楽天的だということである。クローン人間の研究にはあれほどの
嫌悪を示し、大統領の禁止
勧告まで生んだこの国の反応とは対照的だというほかはない。【6】クローン人間を
忌避させているのは、人間を神の
被造物と見るキリスト教の思想だろうが、その
禁忌が機械的な人間の製造、あるいは改造には
及ばないことが、印象深いのである。(中略)
5. まぎれもなく、サイボーグ
肯定の思想の背後にあるのは、近代の脳中心の人間観である。【7】もっといえば、心と身体を二つに分け、心は脳に宿っていると考える先入観である。じつは二〇世紀後半の
哲学はこれに疑問を投げかけ、心と身体の一体性、
相互作用を重視するようになった。しかし、科学者を
含めて大多数の現代人はまだこの二元論を信じていて、身体をとりかえても心の同一性は守れると感じている。【8】加えて心は脳の専有物だという、古い常識から
逃れられないでいるのである。∵
6. そのうえに大きいのは、現代人が個人の
福祉を絶対視し、現に生きている人の幸福を至上命令と考えていることである。障害者や
高齢者に補助器具を提供し、身体能力を回復することは正義だという世論を、現代人は疑うことはできない。【9】現にサイボーグはそういう善意から研究され始めているのであって、その限りこの研究を現代文明は非難することができない。まだ生まれていない生命、現に生きていない個人を生もうというクローン技術にはこの世論の追い風がないのである。【0】
7. だが困ったことに、身体能力の回復から改善までの道はほんの一歩しかない。
誰しも自分の身体を十分だとは思っておらず、十分にしたいと願っているものの、何が十分であるかは
誰も知らない。ただ人なみに生きたいというつつましい願いが、とかく人なみを
超える競争を招くのであって、そのことは今日の消費生活を見れば明らかだろう。たぶんサイボーグは二十一世紀の「
超人」を生むのだろうが、それはニーチェの反
俗思想ではなく、平均的生活を求める
庶民のいじらしい願望がもたらすことになりそうなのである。
8. こんなことを考えながら、私はべつに警世の論を張っているつもりはない。いつの時代にも文明は変わるものであるし、それも合理的な「進歩」とは無関係に変化するものだろう。ただ面白いと思うのは、文明を変えるものが必ずしも
冒険的な
好奇心ではなく、ある時代にもっとも常識的な社会の通念でありうるという逆説である。人びとが「危険」な
好奇心を
警戒しているうちに、ひそかに安全な良識がそれ自体の足もとをくつがえしてしまう。それが人間の悲しさというべきか、それこそが
尽きない
魅力の源泉だというべきだろうか。
9. (
山崎正和の文章による)