1. 【1】物にはことごとく名前がある。「何か」として命名できないものはない。たまに命名できないものがあると、その不気味さにだれもがおののくが、それでもそれはすぐに「何か」として
了解されなおし(物のばあいなら「何か」として、人間のばあいなら個人名はわからなくても「ひと」として)、やがていつもの世界のなかに収容される。
2. 【2】「何か」であるそれらの物は、同時にしかし、ことごとく「だれかのもの」でもある。身のまわりを
眺めて、だれのものでもないものを見つけるのはむずかしい。【3】物だけではない。他人も(たとえばだれの子か)、そして自分自身についても(このからだ、この
記憶はわたしのものである)、だれのものかが問題になる。
3. 【4】わたしたちのまわりはいつのまにこのような光景になってしまったのだろう。あらゆるものが同時に、だれかある個人もしくは団体のものとしてある光景。
4. 【5】所有されてきたのは、土地・家屋・調度品・著作・作品や情報という知的財産だけではない。家族関係にも、さらには臓器移植から安楽死・
妊娠中絶、さらには売春まで「ひとの身体」の
処遇にも、「所有」の問題は複雑に
絡んでいる。
5. 【6】それは、「所有」の問題が、社会の
秩序のあり方、個人のアイデンティティーのあり方に基本的なところで結びついているからである。
6. 【7】考えてみれば、わたしたちの喜びも
哀しみもほとんどここから発生する。何かを失う、だれかを失う……もはやそれらはわたし(たち)のものではない、と。【8】またこれを
取り違えたり、無視したりすると、とたんに「社会」の事件となる。不動産や遺産、これをめぐる
抗争はもう果てしがない。トイレで
尿とともに自分が流れ出てゆくと感じれば、それは病気とされる。
7. 【9】「わたし」は、わたしが所有するところのものである。身体、能力、業績、財産、そして家族。わたしたちの社会では、わたしはだれかという問いは、わたしは何を自分のものとして所有しているかという問いにほとんど重なる。
8. 【0】近代社会は、そういう所有の境界を示し、その権利をたがいに
契約によって承認し、かつ保全しあうという理念の下になりたってきた。しかもその権利は、基本的には個人もしくは法人を単位とし∵た「私的」所有のそれだとされてきた。その
擁護とその制限とが、自由主義体制と社会主義体制の対立の基本的なかたちをなしてきた。所有の配分ということが社会のさまざまなかたちを決めてきた。
9. その所有の制度が、しばらく前から、いろんな場面できしみだしている。災害後のマンションの
建て替え、銀行の救済、知的所有権の権益調整などにもその問題が顔をのぞかしている。公共性をめぐる議論やボランティア活動の活発化、私的所有権の無際限な承認によるさまざまな
葛藤と、それにともなう個人生活の
閉塞ヘの強い意識から発しているようにみえる。
10. 所有の意識と制度は、その対象を
交換や
譲渡が可能なものとみなす。そういう視線が物の世界の細部にまで
浸透してゆくなかで、リアルな物のもつ独特の
抵抗感を
蝕んでしまい、さらにその反照として身体のみならず「わたし」という存在すら
取り替え不能な決定的なものとは感じられなくなってゆく。自分にしかないものとは何かというふうに、所有の
根拠ヘの問いを自分のうちに向ければ向けるほど、内部の
空虚も
膨らんでゆくことを、ひとは日々思い知らされてきたはずだ。
11. 私的所有の制度が個人の存在を保護するものとしてあるのは言うまでもない。が同時に身体ひとつとっても、個人の存在は、誕生から病や老いをへて死にいたるまで、その過程でだれかの
庇護・
介護を得てはじめて可能である。「わたしが事物を意のままにすることを可能にしてくれるその当のものが、現実にはわたしの意のままにならない」とは、
哲学者G・マルセルが身体をネントウにおいて述べた言葉である。そのとき、従来の所有権の思想が考えてきたように、何かが自分のものであるということは、その何かを意のままにできるということとはたして同じか、そのことがいま、あらためて問われているように思う。
12. 自分のものでありながら自分の意のままにならないもの……そういう地平で「所有」というものを設定しなおす必要がある。これは家族や学校、
企業や国家と個人のかかわりという、社会関係の基本的なありようを考えなおす長い行程でもあるだろう。
13.(
鷲田清一「キーワードで読む21世紀」より)