1子どものころ、わたしは「ノーの一語」という見出しの文を読んだことがある。それは、あるイギリス人の書いた本から訳したものだということで、「ノー」ということばは、ときとしてたいへん言いにくいことばであるが、言いにくいからといって、言うべきときに、言わないでいると、相手に思いもよらない迷惑をかけることがある、というものであった。2これは、おそらく、人間という人間が、生きていくあいだにいくどとなくぶつかる問題であると思う。わたしもこの問題について考えてきたことを書いてみたい。
ことばの生活には、ときどき、言いにくいことばがあらわれて、わたしたちのことばを、にごらせたり、くもらせたり、ゆがませたりする。
3「忘れました。」もそのひとつである。このことばを言うとき、知らないあいだに、わたしたちの声は小さくなったり、不明確になったりしやすい。ことに、忘れてはならないだいじな用事を忘れたときなど、「忘れました。」は、いっそう言いにくいことばになって、なぜ忘れたかという言いわけのほうが、それよりもさきに口をついて出てくる。4しかし、そういう言いわけは、じっさいには責任転嫁にきこえるだけで、なんのききめもない。「忘れました。すみません。」という、責任感から出たことばだけが、相手の心をほぐす力がある。それを言ったあとで、忘れるようになった事情をのべれば、それは責任のがれではなく誠意のこもったことばとして、相手の心に通じるものである。
5一般に、「ください。」とか「おねがいいたします。」とかいう依頼のことばや、「すみません。」とか「ゆるしてください。」とかいうようなわびのことばも、言いにくいものである。6ことに、まだことばの生活にじゅうぶんなれていない少年や青年のころには言いにくい。そのために、つい、言うのをためらったり、ことばをあいまいにしたりして、卑屈な態度になりやすい。7あるいはまた、まともに「申しわけありません。」と言うかわりに、「おわびに来ました。」というような言い方になりやすい。それではおわびの真実はあらわれない。言いにくさを押しきって言う声やすがたこそ、おわびの真実があらわれて、相手の心を動かすのである。
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