長文集  1月3週  ★(感)「寄物」という言葉を  wape2-01-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】「寄物(よせもの)」という言葉を
覚えたのは柳田国男の『海上の道』を読むこ
とによってであった。はるか沖から吹ききた
る風に名前を与える身振りから始まるあの美
しい幻想小説。【2】「アユは後世のアイノ
カゼも同様に、海岸に向かってまともに吹い
てくる風、すなわち数々の渡海の船を安らか
に港入りさせ、また は、くさぐさの珍(め
ず)らかなる物を、渚に向かって吹き寄せる
風のことであった」。【3】そうした風に乗
ってわれわれの国に訪れる「くさぐさの珍(
めず)らかなる物」、それが「寄物」だ。そ
して、その代表として柳田がまず第一に挙げ
たものは、周知の通 り、三河の伊良湖崎の
浜に打ち寄せられていたのを彼が目撃したと
いうあの神話的な椰子の実であった。
 【4】島崎藤村はこの柳田の見聞を材に採
り、ただちに人口に膾炙することになったあ
の俗謡の歌詞を作ったわけだが、『海上の道
』の著者は島崎藤村の「椰子の実」に対して
やや不満げな感想を洩らしている。【5】「
そを取りて胸に当つれば/新たなり流離の愁
い/という章句などは、もとより私の挙動で
も感嘆でもなかったうえに、海の日の沈むを
見れば云々の句をみても、或いは、詩人は今
すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行き
たいとおもわれたのかもしれないが……(後
略)」。【6】晴れやかな朝陽の中で珍しい
「寄物」を発見するのは柳田にとって喜ばし
い出会い以外のものではなく、「流離の愁い
」も寂しい日没も「詩人」の汚(けが)れた
筆が捏造した受け狙いの感傷にすぎない。【
7】「千曲川旅情の 歌」にしてもそうだが
、既成の欲情に媚びることを恬として恥じな
い自称「詩人」の輩は今も昔も尽きることが
ない。
 「海上の道」において、柳田の想像力が透
視しているのは、「日本人」もまたこうした
幸運のアイノカゼに吹き寄せられてきた「寄
物」そのものだという独創的な命題である。
【8】「もしも漂着をもって最初の交通と見
ることが許されるならば、日本人の故郷はそ
う∵遠方ではなかったことが先ずわかる。人
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は、際限もなく椰子の実のように、海上にた
だようては居られないのみならず、【9】幸
いに命活きて、この島住むに足るという印象
を得たとすれば、一度は引き返して必要なる
物種をととのえ、ことに妻娘を伴のうて、永
続の計を立てねばならぬ」。【0】この「そ
う遠方でもない」場所とはいったいどこなの
か、それを柳田は、厳密な文化人類学の学術
論文の装いからははるかに隔たったこの文章
の中で、具体的に明言しているわけではない
(中略)。だが、そう遠方でもないというこ
の奇妙に生々しい限定が、柳田の詩的な直観
に異様な迫真性と説得力を賦与していること
は否定できない。
 漂着をもって最初の交通と見る――しかし
それにしても、これは何と美しい言葉ではな
いか。この端的な断言を受けて、わたしはも
う一歩進んでこう言ってみたい、漂着こそ唯
一の交通ではないのかと。実際、漂着する以
外のどんなやりかたでわたしたちは世界と結
びつくことができるだろう。なるほど、あて
どない「漂流」の時間の快楽というものはあ
る。だが、単にそこにとどまるかぎり、たと
えいかほどロマンティックな孤独の抒情がそ
そられはしても、そこで人はあの「流離の愁
い」の場合と同じく結局は単にひとりよがり
の詩情の内部に閉ざされてあるほかない。「
漂流」が意味を持つのは、それがどこかに、
逢着するかぎりにおいてのことだろう。
 詩は「投壜通信」でしかない、あるいはそ
うあるべきだといった言いかたがされること
がときたまあるが、そうした命題がもし何ら
かの意味を持つとしたら、海上に放たれた壜
がどこかの浜辺に漂着し、それが拾い上げら
れる現場に想像力を働かせたうえのことでは
ないか。良き風に吹き寄せられ、未知の浜に
打ち上げられた言葉 を、拾い上げてくれる
手があるということ。それこそ、ありうべき
真のコミュニケーションの唯一の形態である
はずだ。
(松浦寿輝「漂着について」)