長文集  3月3週  ★ある人物についての物語が(感)  nnge-03-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】ある人物についての物語が、何より
も、当人自身を満足させるものでなければな
らない場合を考えよう。それは、当人が、不
確実な未来や危機的状況を前にして、何らか
の選択あるいは決断を下さねばならないよう
な場合である。【2】このような場合、ひと
は、そうした選択や決断が、果して自身の望
むような帰結をもたらすのかを思案し、過去
において自分が出合った相似た事例を探り、
自身の能力や資質を確認しようとするであろ
う。【3】そして、そのことと重なり合う形
で、そもそも、そのような選択や決断が自分
にふさわしいものであるのかを確認しようと
するのではないだろうか。
 高校野球で活躍した生徒がプロ野球入りを
勧められた場合を考えよう。【4】プロの世
界での成功は必ずしも百パーセントの成功を
保障されたものではない。当人は、こうした
事態を前にして、まず自己の実力について過
去の実績を勘案しながら、それと並行して、
プロ野球の選手生活が、真に自分の願望する
ものであるかを確認しようとするであろう。
【5】このとき、過去の自分にまつわる様々
な出来事や思い出が、プロ生活に入る決断に
向けて、まさしく自分自身で納得しうるよう
な「筋」の中に位置づけられていくのであ 
る。この場合、「筋」は、既に成功している
野球選手が語る物語を適宜借用するというわ
けにはいかない。【6】あくまで、本人自身
にとって、プロ生活への決断が自然であるよ
うに思われるような「筋」でなければならな
い。すなわち、物語が語られることで、それ
は、おのずから決断の理由を構成する。その
際、プロに入るという決断が、そうした物語
を要請したといった言い方も可能であろう。
【7】ということは、逆に、プロに入ること
を断念する決断が下されたなら、また別様の
物語が語られたであろうということを意味す
る。すなわち、「来歴」は固定したものでは
なく、一定の範囲で、現在の決断との関連で
、様々に語られうる可能性を持つのである。
 【8】かくして、ひとは如何なる決断を下
すか考慮しつつ、自らの属性や過去の出来事
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を適宜選択し解釈したうえで、自らの物語の
「筋」を求めるのであり、他方、様々にあり
うる「筋」を探索するなかで決断の内容が次
第に形を整えていくのである。【9】その 
際、過去の様々な事実が、その時点で実際に
感じられたり思考されたのとは異なった意味
づけが下される場合もあるであろう。また、
以前においてはさして意味を持っていないと
思われたり、半ば忘却して∵いたりした事実
がにわかに重要な意義を持つものとして浮か
び上がる場合もあろう。【0】このようにし
て、物語は、現在を通して過去と未来を媒介
する。すなわち、さまざまな「筋」の可能性
を秘めた物語のなかで、過去と現在が未来を
規定し、また、未来と現在が過去を規定する
のである。
 当人の「何者」をもっともよく明らかにす
るのは、上に見たように何よりも当人にとっ
て切実な自己理解の要求に基づいて語られた
物語であり、そして、そのような物語こそが
、他者に対しても、当人についてのより充実
した「理解」を与えるのである。もっとも、
このような「理解」を通して得られた「何者
」も、他の「何者」でもないという意味で真
に独自のものであるとは限らない。ハイデガ
ー(ドイツの哲学者)は、ひとが「世人」の
状態を脱して「本来的な自己存在」というこ
とに思い至るのは、他の誰のものでもない自
己の死を意識したときだと述べ、そのような
契機を「先駆的決意」という言葉で表現した
。「先駆的決意」は、不確実で危機的である
状況のいわば極限的なケースについて言われ
るものであると言ってよいが、おそらく、真
の「独自性」というものも、そのような極限
的状態において露(あらわ)になるのかもし
れない。しかし、ひとがもっぱらこうした特
別の状態に置かれている場合のみを念頭に置
くことが、当人への理解のうえで、果して妥
当であろうか。そもそも、ひとが自らについ
て語る物語にとって重要なことは、「独自 
性」というよりも、むしろ「真実性」ではな
いかと思われるからである。