長文集  7月3週  ★あとになって、水かけ論に(感)  nnzi2-07-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】あとになって水かけ論にならないよ
うに、契約によって権利義務をあらかじめき
ちんとするという慣行は、日本ではまだ確立
していないように思われる。【2】とくに身
近な人との間では、契約書をつくらず、口約
束ですましている。よくいえば、日本人は人
がよくて相手を信用しすぎるということかも
しれない。しかし悪くいえば、ものごとのけ
じめをはっきりつけないで、ルーズにしてお
くということでもある。
 【3】しかし、人はあらかじめ紛争が予見
できるくらいならば、もともと契約をむすば
ないものである。つまり、こういうことであ
る。契約をむすぶことは、それ自体つねに相
手方を信用することであり、「まさかそんな
ことはおこるまい」と思うことなのである。
【4】そしてまさに権利の行使が問題になる
ときは、つねに、そのまさかという信用がう
らぎられたときのことなのである。だから、
契約の内容をきちんとしたうえで契約書を交
わすことは、権利を大切にする社会ではしご
く当りまえのことである。
 【5】日本は、ウェットな社会で情緒を重
んじる。これはこれ で、すぐれた日本人の
資質である。しかし、それは反面、日本の甘
え社会を助長しているのではなかろうか。【
6】個人的人間関係では情緒が通用しても、
契約は通常、利害の対立する者の間のルール
であるから、いわばビジネスの問題である。
もちろんビジネスでも情緒が入り込むが、そ
れが中心となったのでは契約社会は崩壊す 
る。【7】友情は友情、ビジネスはビジネス
なのである。ウェットな関係とドライな関係
を使いわけることは、日本ではまだむずかし
い。人びとはこの両者を混同し、そのために
ものごとをあいまいにして生きている。これ
でよいのか、という根本の問いがここにはあ
る。
 【8】客観的ルールの定立が人間の信用や
メンツを傷つけるものであるかのように受け
とる日本人の心理は、人間をはじめから信用
のおける人間(善玉)と信用のおけない人間
(悪玉)とに区別し、状況に応じて変化する
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ものとしてはとらえないという、固定的思想
にもとづくものであろう。【9】しかし、契
約においては、相手方の人間の誠実さを疑う
かどうかが問題なのではなく、疑おうと思っ
ても疑うことのできない客観的状況のなかに
相手方をおく、という∵ことが問題なのであ
る。だから、ここで要求される誠実さとは、
ルールに拘束され、それにしたがって行動す
るという誠実さにほかならない。
 【0】この点で、「契約は拘束する」ある
いは「契約は守らなければならない」という
命題が、私たちの社会では今日なお一般常識
となっていないことが問題である。借金して
返済の日が来ても、一日ぐらいはよいだろう
」とか、「すこしくらい大目にみてくれるだ
ろう」など、ルーズな気持ちがはたらく。
 約束やルールを守らないことは恥ずべきこ
とであるという意識、約束した以上は責任を
もって守るという意識は、市民の間でも成熟
していない。これは日本社会の根底にふれる
問題を含んでいる。そういう社会的土壌の上
に、政治社会の公約違反がまかり通る。
 政党や立候補者の側にも国民の側にも、約
束を守る意思、守らせる意思は微弱である。
政党も国民も「どうせ選挙のための道具だ」
という程度にしか考えていない。国民に示し
た約束はかならず守るという責任感のきびし
さを、日本の政党はまだ身につけていない。
国民の側にも、公約を果たすことを政党・立
候補者にきびしく要求し、公約を守らない議
員は次の選挙で落とすというほどのきびしさ
を持っていない。やや大げさないい方になる
が、日本人のルーズな契約観は、この国の政
治腐敗をもたらす一つの要因となっている。
 さらに、情緒社会になれている日本人相互
の契約ならば、ルーズであっても、それなり
にうまく解決できる場合でも、契約の拘束力
について日本人よりもきびしい考えをもって
いる外国人との契約となると、そうはいかな
い。そこでは日本人的甘えは通用しないから
である。今後は、国際化の時代において、日
本人も異文化との接触がますます多くなるで
あろう。国際取引や世界市場に乗り出す企業
はもとより、私たち市民が外国旅行や留学す
る場合であっても、異文化摩擦を生じないよ
うにするためには、あらかじめ他民族やその
国家の文化についてなにがしかの知識を持っ
ていないと、誤解のもとになる。
(渡辺洋三『法とは何か』)