1. 【1】あとになって水かけ論にならないように、
契約によって権利義務をあらかじめきちんとするという慣行は、日本ではまだ確立していないように思われる。【2】とくに身近な人との間では、
契約書をつくらず、口約束ですましている。よくいえば、日本人は人がよくて相手を信用しすぎるということかもしれない。しかし悪くいえば、ものごとのけじめをはっきりつけないで、ルーズにしておくということでもある。
2. 【3】しかし、人はあらかじめ
紛争が予見できるくらいならば、もともと
契約をむすばないものである。つまり、こういうことである。
契約をむすぶことは、それ自体つねに相手方を信用することであり、「まさかそんなことはおこるまい」と思うことなのである。【4】そしてまさに権利の行使が問題になるときは、つねに、そのまさかという信用がうらぎられたときのことなのである。だから、
契約の内容をきちんとしたうえで
契約書を交わすことは、権利を大切にする社会ではしごく当りまえのことである。
3. 【5】日本は、ウェットな社会で
情緒を重んじる。これはこれで、すぐれた日本人の資質である。しかし、それは反面、日本の
甘え社会を助長しているのではなかろうか。【6】個人的人間関係では
情緒が通用しても、
契約は通常、利害の対立する者の間のルールであるから、いわばビジネスの問題である。もちろんビジネスでも
情緒が
入り込むが、それが中心となったのでは
契約社会は
崩壊する。【7】友情は友情、ビジネスはビジネスなのである。ウェットな関係とドライな関係を使いわけることは、日本ではまだむずかしい。人びとはこの両者を混同し、そのためにものごとをあいまいにして生きている。これでよいのか、という根本の問いがここにはある。
4. 【8】客観的ルールの定立が人間の信用やメンツを傷つけるものであるかのように受けとる日本人の心理は、人間をはじめから信用のおける人間(善玉)と信用のおけない人間(悪玉)とに区別し、
状況に応じて変化するものとしてはとらえないという、固定的思想にもとづくものであろう。【9】しかし、
契約においては、相手方の人間の誠実さを疑うかどうかが問題なのではなく、疑おうと思っても疑うことのできない客観的
状況のなかに相手方をおく、という∵ことが問題なのである。だから、ここで要求される誠実さとは、ルールに
拘束され、それにしたがって行動するという誠実さにほかならない。
5. 【0】この点で、「
契約は
拘束する」あるいは「
契約は守らなければならない」という命題が、私たちの社会では今日なお
一般常識となっていないことが問題である。借金して返済の日が来ても、一日ぐらいはよいだろう」とか、「すこしくらい大目にみてくれるだろう」など、ルーズな気持ちがはたらく。
6. 約束やルールを守らないことは
恥ずべきことであるという意識、約束した以上は責任をもって守るという意識は、市民の間でも成熟していない。これは日本社会の根底にふれる問題を
含んでいる。そういう社会的
土壌の上に、政治社会の公約
違反がまかり通る。
7. 政党や立候補者の側にも国民の側にも、約束を守る意思、守らせる意思は
微弱である。政党も国民も「どうせ選挙のための道具だ」という程度にしか考えていない。国民に示した約束はかならず守るという責任感のきびしさを、日本の政党はまだ身につけていない。国民の側にも、公約を果たすことを政党・立候補者にきびしく要求し、公約を守らない議員は次の選挙で落とすというほどのきびしさを持っていない。やや大げさないい方になるが、日本人のルーズな
契約観は、この国の政治
腐敗をもたらす一つの要因となっている。
8. さらに、
情緒社会になれている日本人
相互の
契約ならば、ルーズであっても、それなりにうまく解決できる場合でも、
契約の
拘束力について日本人よりもきびしい考えをもっている外国人との
契約となると、そうはいかない。そこでは日本人的
甘えは通用しないからである。今後は、国際化の時代において、日本人も異文化との
接触がますます多くなるであろう。国際取引や世界市場に乗り出す
企業はもとより、私たち市民が外国旅行や留学する場合であっても、異文化
摩擦を生じないようにするためには、あらかじめ他民族やその国家の文化についてなにがしかの知識を持っていないと、誤解のもとになる。
9.(
渡辺洋三『法とは何か』)