長文集  8月3週  ★個としてのアイデンティティと(感)  nnzi2-08-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】個としてのアイデンティティとクラ
ス──性的・文化的・社会的・国家的・民族
的、等々のクラス──という問題は、それこ
そ人間の生き死にに関わるテーマであったし
、いまなおそうであり続けている。【2】し
かも、クラス・アイデンティティはたんに個
人の選択の対象ではなく、しばしばマジョリ
ティ(多数派)からマイノリティ(少数派)
に押しつけられるものでもある。【3】実 
際、あのナチによる「ショアー」においては
、何百万人という人間が「ユダヤ人」という
クラス、「ジプシー」というクラス、「障害
者」というクラス、等々に分類され、最終的
には「生きるに値しない存在」というクラス
に一方的に「選別」されることによって、殺
戮されたのだった。【4】その意味で、ぼく
らは「ショアー」を、個体としてのアイデン
ティティヘのクラス・アイデンティティのも
っとも暴力的な付与(押しつけ)、と呼ぶこ
ともできるだろう。
 【5】だがそれでいて、個としてのアイデ
ンティティとクラスとしてのアイデンティテ
ィをきれいに選り分けることはおそらく困難
であると思われる。【6】クラスとしてのア
イデンティティ規定をどんどん削ぎ落として
ゆけば、その人間の個体としてのアイデンテ
ィティも次第に形式的なもの、空虚なものと
なってゆかざるをえないからだ(そして、こ
の空虚で形式的な「自己」こそを単位とし 
て、近代の国民国家はそこに自らの創出神話
を充填してきたとも言えるのだ)。【7】む
しろ、個体としてのアイデンティティは、大
枠としては、さまざまなクラス・アイデンテ
ィティのそれ自体個性的な布置、という形で
捉えなおさざるをえない側面があるのではな
いだろうか。
 【8】しかし、その場合のクラス・アイデ
ンティティはしばしばマジョリティ側からマ
イノリティ側に「押しつけられた」ものであ
る。【9】たとえば、プリーモ・レーヴィは
元来その生育環境のなかでは「ユダヤ人」で
あることをさほど意識していなかったし、当
時のルーマニア領チェルノヴィッツに生まれ
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たパウル・ツェラン も、父親が「ユダヤ的
」教育を施そうとするのをむしろ嫌っていた
と伝えられている。【0】逆説的にも、ナチ
によって一方的に「ユダヤ人」という規定を
付与されることによって、彼らは自らの「ユ
ダヤ人性」を∵深刻に想起させられたのだっ
た。その意味で彼らにとって、「ユダヤ人」
というアイデンティティには、最初からある
種の他者性が付着していたと言えるのだ。そ
んな彼らが「ユダヤ人である」という問題に
、どう向き合おうとしたか。彼らの表現を「
ユダヤ人性」一般に還元することができない
のと同様に、彼らはユダヤ人である以前にひ
とりの書き手であった、というだけで済ます
ことができないのも事実なのだ(むしろ、彼
らは「ユダヤ人」であることによって、「書
き手」であらざるをえなかった、と言うこと
も十分可能なのだ)。
 要するに、マイノリティの位置にある──
あらざるをえない──人々にとって、アイデ
ンティティをめぐる問題は、また、マジョリ
ティ側の土俵、圧倒的に「他者」の支配して
いる舞台でなされるほかない、という側面が
抜きがたく存在しているのである。自分が自
由な個としてアイデンティティを選び取る以
前に、マジョリティの無数の指先が自分に突
き立てられていて、自明のように帰属クラス
を指定しているという理不尽な事態。そこで
は敵の舞台で、敵の武器を逆手にとって、「
固有の自己」をもとめての暗闘が繰り広げら
れる、という局面が現出せざるをえないのだ


(細見和之『アイデンティティ/他者性』)