長文集  1月4週  ★一方、生き残る方言には  nnze-01-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/12/14 12:54:28
 一方、生き残る方言には、二種類のものが
ある。ひとつは、それが方言だと気づかれな
いで使われる方言である。例えば、東北地方
では「捨てる」ことをナゲルと言う。「テレ
ビをナゲル」は、テレビを放り投げるわけで
はなく、廃棄するという意味である。このよ
うに、意味はずれるものの形が同じことばは
、共通語と錯覚されるために残りやすい傾向
がある。しかし、それらは方言だと気づかれ
たが最後、共通語へ切り替えられていく運命
にある。
 生き残る方言のもうひとつは、方言だとわ
かってはいるが、使わないではいられないと
いったものである。それらは、文末詞や、感
情語彙、程度副詞、挨拶ことばなどの中に多
い。例えば、仙台の文末詞なら「行くっチャ
」の「チャ」がよく使われる。これは共通語
に直せば「行くさ、行くとも」であり、「当
然だろ、何でそんなこと聞くんだ」といった
ニュアンスを表す。また、「行くべ、行く 
べ」は、「行こう、行こう」という意味で、
相手を誘うときによく使う。こういった「チ
ャ」や「ベ」は今でも元気である。
 感情語彙では、「メンコイ」や「イズイ」
が生き残っている。「イズイ」は体表面のな
んとも言えぬ不快感を表すもので、襟元に毛
が入って「イズクてたまらない」とか、セー
ターを洗ったら縮んでしまって「イズクてし
ょうがない」、といったふうに使われる。こ
ういう方言は、今でも老若を問わず根強い人
気があって、かなり使われている。気づきに
くい方言と違い、これらこそ地元の人々の支
持を得た、正真正銘生き残る方言といえる。
 これらの「真正」生き残る方言に共通する
のは、いずれも相手の感情に訴えかける性質
を持つという点である。右で見た文末詞や感
情語彙はもちろん、程度副詞(関西のメチャ
、名古屋のデラなど)や挨拶ことば(東北の
オバンデス)も、同様に理解してよいだろ 
う。これらの感情的要素は相手の心に響くも
のだけに、会話の雰囲気を気取らない、打ち
解けたものにする効果が抜群である。すなわ
ち、こうした方言を使うことで、「私はあな
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たと心を割って、親しく話したいんだ」とか
、「肩肘張らないで、リラックスして話しま
しょうよ」といった意思表示を行うことがで
きる。共通語の使用が相手との間に壁を築く
のに対し、これらの方言は逆にそのよう∵な
垣根を取り払い、お互いの心的距離を縮める
役目を果たす。現代人は無意識のうちに、こ
うした方言の機能を会話のストラテジーとし
て利用しているように見える。
 「方言」と一口に言っても、もはやそれは
システムではなくスタイルに変質してしまっ
た。それならば、方言スタイルという確固と
した文体が存在するのかといえば、若者たち
の方言の実態は、共通語が主体でそこに右に
見たような要素をわずかに加えた程度のもの
にすぎない。会話の雰囲気作りのために共通
語に散りばめられる要素になってしまった方
言を、私は、服飾になぞらえて「アクセサリ
ーとしての方言」と呼ぶ。アクセサリーはあ
えて付ける必要のないもので、それを付ける
ことには積極的な意味がある。同じように、
若い人たちは共通語だけで十分コミュニケー
ションが成り立つの に、あえて方言を使お
うとしている。それは、親しい仲間同士の会
話を楽しむ潤滑油として、方言の価値を認め
ているからにほかならない。
 ところで、アクセサリー化したといっても
、仙台あたりの若者が使う方言はあくまでも
地元の方言である。ところが、最近では、東
京の若者たちが、全国各地の方言を取り込ん
で携帯メールを楽しんでいるという。正直、
方言がここまでくるとは思わなかった。考え
てみればこうした無国籍的な方言の使い方は
、アクセサリー化した方言の究極の姿である
と言えるだろう。だが、土地から遊離した方
言は果たして方言と言えるのか。「母なるこ
とば=方言」というイメージにとらわれてい
ると、蕎麦の薬味のような方言を方言と認め
るには抵抗がある。「方言」とは何であるの
か、自明のように思われたことが、今、あら
ためて問われているのである。

 (小林隆「現代方言の正体」による)