長文 1.4週
1. 一方、生き残る方言には、二種類のものがある。ひとつは、それが方言だと気づかれないで使われる方言である。例えば、東北地方では「捨てる」ことをナゲルと言う。「テレビをナゲル」は、テレビを放り投げるわけではなく、廃棄はいきするという意味である。このように、意味はずれるものの形が同じことばは、共通語と錯覚さっかくされるために残りやすい傾向けいこうがある。しかし、それらは方言だと気づかれたが最後、共通語へ切り替えき か られていく運命にある。
2. 生き残る方言のもうひとつは、方言だとわかってはいるが、使わないではいられないといったものである。それらは、文末詞や、感情語彙ごい、程度副詞、挨拶あいさつことばなどの中に多い。例えば、仙台せんだいの文末詞なら「行くっチャ」の「チャ」がよく使われる。これは共通語に直せば「行くさ、行くとも」であり、「当然だろ、何でそんなこと聞くんだ」といったニュアンスを表す。また、「行くべ、行くべ」は、「行こう、行こう」という意味で、相手を誘うさそ ときによく使う。こういった「チャ」や「ベ」は今でも元気である。
3. 感情語彙ごいでは、「メンコイ」や「イズイ」が生き残っている。「イズイ」は体表面のなんとも言えぬ不快感を表すもので、襟元えりもとに毛が入って「イズクてたまらない」とか、セーターを洗ったら縮んでしまって「イズクてしょうがない」、といったふうに使われる。こういう方言は、今でも老若を問わず根強い人気があって、かなり使われている。気づきにくい方言と違いちが 、これらこそ地元の人々の支持を得た、正真正銘しょうしんしょうめい生き残る方言といえる。
4. これらの「真正」生き残る方言に共通するのは、いずれも相手の感情に訴えうった かける性質を持つという点である。右で見た文末詞や感情語彙ごいはもちろん、程度副詞(関西のメチャ、名古屋のデラなど)や挨拶あいさつことば(東北のオバンデス)も、同様に理解してよいだろう。これらの感情的要素は相手の心に響くひび ものだけに、会話の雰囲気ふんいきを気取らない、打ち解けたものにする効果が抜群ばつぐんである。すなわち、こうした方言を使うことで、「私はあなたと心を割って、親しく話したいんだ」とか、「肩肘かたひじ張らないで、リラックスして話しましょうよ」といった意思表示を行うことができる。共通語の使用が相手との間にかべを築くのに対し、これらの方言は逆にそのよう∵な垣根かきね取り払いと はら お互い たが の心的距離きょりを縮める役目を果たす。現代人は無意識のうちに、こうした方言の機能を会話のストラテジーとして利用しているように見える。
5. 「方言」と一口に言っても、もはやそれはシステムではなくスタイルに変質してしまった。それならば、方言スタイルという確固とした文体が存在するのかといえば、若者たちの方言の実態は、共通語が主体でそこに右に見たような要素をわずかに加えた程度のものにすぎない。会話の雰囲気ふんいき作りのために共通語に散りばめられる要素になってしまった方言を、私は、服飾ふくしょくになぞらえて「アクセサリーとしての方言」と呼ぶ。アクセサリーはあえて付ける必要のないもので、それを付けることには積極的な意味がある。同じように、若い人たちは共通語だけで十分コミュニケーションが成り立つのに、あえて方言を使おうとしている。それは、親しい仲間同士の会話を楽しむ潤滑油じゅんかつゆとして、方言の価値を認めているからにほかならない。
6. ところで、アクセサリー化したといっても、仙台せんだいあたりの若者が使う方言はあくまでも地元の方言である。ところが、最近では、東京の若者たちが、全国各地の方言を取り込んと こ 携帯けいたいメールを楽しんでいるという。正直、方言がここまでくるとは思わなかった。考えてみればこうした無国籍こくせき的な方言の使い方は、アクセサリー化した方言の究極の姿であると言えるだろう。だが、土地から遊離ゆうりした方言は果たして方言と言えるのか。「母なることば=方言」というイメージにとらわれていると、蕎麦そばの薬味のような方言を方言と認めるには抵抗ていこうがある。「方言」とは何であるのか、自明のように思われたことが、今、あらためて問われているのである。

7. (小林たかし「現代方言の正体」による)