長文 4.4週
1. 【1】私は『牡丹ぼたん灯籠どうろう』の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三、四さいであったが、一編の眼目とする牡丹ぼたん灯籠どうろう怪談かいだんの件を読んでも、さのみに怖いこわ とも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。【2】それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町こうじまち区山元町)の万長ていという寄席へ出て、の『牡丹ぼたん灯籠どうろう』を口演するというので、私はその怪談かいだんの夜を選んで聴きき に行った。作り事のようであるが、あたかもその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて、怪談かいだん聴くき には全くお誂えあつら 向きのよいであった。
2.【3】「お前、怪談かいだん聴きき に行くのかえ」と、母は嚇すおどか ようにいった。
3.「なに、牡丹ぼたん灯籠どうろうなんか怖くこわ ありませんよ。」
4. 速記の活版本でたかをくくっていた私は、平気で威張っいば て出て行った。ところが、いけない。【4】円朝がいよいよ高座にあらわれて、燭台しょくだいの前でその怪談かいだんを話し始めると、私はだんだんに一種の妖気ようきを感じて来た。満場の聴衆ちょうしゅうはみな息をんで聴きき すましている。伴蔵とその女房にょうぼうの対話が進行するにしたがって、私ののあたりは何だか冷たくなって来た。【5】周囲に大勢の聴衆ちょうしゅうがぎっしりと詰めかけつ   ているにもかかわらず、私はこの話の舞台ぶたいとなっている根津ねづのあたりの暗い小さい古家のなかに座って、自分ひとりで怪談かいだん聴かき されているように思われて、ときどきに左右を見返った。今日と違っちが て、そのころの寄席はランプの灯が暗い。【6】高座の蝋燭ろうそくの火も薄暗いうすぐら 。外には雨の音が聞こえる。それらのことも怪談かいだん気分を作るべく恰好かっこうの条件になっていたには相違そういないが、いずれにしても私がこの怪談かいだんにおびやかされたのは事実で、席のねたのは十時ころ、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げるに  ように帰った。
5. 【7】この時に、私は円朝の話術のみょうということをつくづく覚った。速記本で読まされては、それほどに凄くすご おそろしくも感じられ∵ない怪談かいだんが、高座に持ち出されて円朝の口に上ると、人をえさせるような凄味すごみを帯びて来るのは、実に偉いえら ものだと感服した。【8】時は欧化おうか主義の全盛時代で、いわゆる文明開化の風が盛んに吹きふ 捲くま っている。学校に通う生徒などは、もちろん怪談かいだんのたぐいを信じないように教育されている。【9】その時代にこの怪談かいだんを売り物にして、東京中の人気を殆どほとん 独占どくせんしていたのは、怖いこわ 物見たさ聴きき たさが人間の本能であるとはいえ、確かに円朝の技に因るものであると、今でも私は信じている。【0】(中略)
6. 前にもいう通り、話術のみょうをここに説くことは出来ないが、たとえばかの孝助が主人のめかけお国の密夫源次郎げんじろう突こつ うとして、誤って主人飯島平左衛門を傷つけ、それから屋敷やしきをぬけ出して、将来のしゅうとたるべき相川新五兵衛の屋敷やしき駈けか 付けて訴えるうった  件など、その前半は今晩の山であるから面白いに相違そういないが、後半の相川屋敷やしきは単に筋を売るに過ぎないであまり面白くもない所である。速記本などで読めば、軽々に看過ごされてしまう所である。ところが、それを高座で聴かき されると、息もつけぬほどに面白い。孝助が誤って主人を突いつ たという話を聴きき 、相手の新五兵衛が歯ぎしりして「なぜ源次郎げんじろう……と声をかけて突かつ ないのだ」と叱るしか 。文字に書けばただ一句であるが、その一句のうちに、一方には一大事出来しゅったい驚きおどろ 、一方には孝助の不注意を責め、また一方には孝助を愛しているという、三様の意味がはっきりと現れて、新五兵衛という老武士の風貌ふうぼう躍如やくじょたらしめる所など、その息の巧みたく さ、今も私の耳に残っている。団十郎じゅうろうもうまい、菊五郎きくごろうもうまい。しかも俳優はその人らしい扮装ふんそうをして、その場らしい舞台ぶたいに立って演じるのであるが、円朝は単におうぎ一本をもって、その情景をこれほどに活動させるのであるから、実に話術のみょう尽くしつ  たものといってよい。名人はおそるべきである。

7.(岡本おかもと綺堂きどう岡本おかもと綺堂きどう随筆ずいひつ集』による)