長文集  6月4週  ○翌日も朝から夕方までの  wa2-06-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/02/18 18:02:10
 【1】翌日も朝から夕方までのおよそ七時
間程度の発表を終え、そして再び、夕食後を
迎えた。私は何か特定のテーマに沿って、学
生達と討論することを考えなかったわけでは
なかったが、昨日の風景が脳裏から離れなか
った。【2】昨日のあの不思議な風景は教育
者としての私よりも、実験心理学者としての
私をはるかに刺激していた。昨日と同じよう
な状況下で、二日目の夜を学生達がはたして
どのように過ごすのだろうかという疑問の誘
惑に、私は、抗しきれないでいた。【3】そ
こで再び昨日と同様の自由時間を彼らに与え
ることにした。そして、結果は再現された。
昨日と同様に。二日目もゲームが深夜まで展
開された。
 「今の彼らにはゲームをするよりも、もっ
と大切なことはないのだろうか。【4】例え
ば自分の関心のあることを人に聞いてもらっ
たり、人の話を聞いてみたいとは思わないの
だろうか」。この再現された不思議な風景を
説明するためにいささかの考察を試みようと
したが、結局成功しないまま、私は浅い眠り
についた。【5】そして私の愚問は、何の解
答をも見いだせないままに、初秋を迎えてし
まっていた。
 ところが私は一つの解答らしきものへの指
針を、合宿後しばらくして研究室を訪れた一
人の学生との会話の一端に、見いだした。【
6】その学生の言葉を要約すると「ある種の
シリアスな話題を気軽に口にしてはいけない
。それは相手に重荷を背負わせることになる
かもしれないし、もし相手が話に乗ってこな
かった場合には、自分だけが浮き上がってし
まうかもしれないから」。【7】言葉を補っ
ていえば、学生達はシリアスな話題で相手を
困らせたくもないし、自分自身も困りたくは
ないのである。そして彼らは他人も自分も傷
付けたくはないのである。また今までに十分
、不自由な思いをしてきたから、過去の不自
由さを取り戻すために、今眼前のそれが何か
わからないままに、とにかく今をこなすのに
忙しいのである。【8】シリアスな状況に関
わって困るということは立ち止ることであ 
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り、立ち止るということは彼らにとって、無
条件に「いけないこ と」なのである。少な
くともゲームをしていれば、その世界で擬似
的にシリアス∵な状況に陥るとしても、現実
の人間関係の世界でのわずらわしさに関与す
る機会を回避できるのかもしれない。
 【9】結論を急げば、彼らは限りなく優し
いのである。ただ他人に対してだけではなく
、自分に対しても。また彼らは幼いのではな
く、幼い時期にするべきことを十分にさせて
もらえなかっただけなのかもしれない。【0
】私にとって不思議と思えた風景を私自身の
大学時代の記憶に求めたことが間違いであっ
て、その原風景を私は高校や中学時代の記憶
に求めるべきだったのである。
 学生達の行動に対するこうした私の拡大解
釈は、しかし、私を次のような杞憂へと誘う
。小学校の時代に、やりたかったけれどもで
きなかったことを、中学校の時期へと先延ば
しし、中学校でやろうと思ってもできなかっ
たことを、高校へと先延ばしにし、高校でで
きなかったことを、大学に、大学でのことは
、大学院へと、あるいは社会生活へと、順次
先延ばしにしているのではないだろうか。(
中略)
 「幸せの姿はたった一つであるが、不幸の
姿は数限りない」。しかし、現今の世情を眺
めると、幸せの姿は曖昧すぎて記述できず、
不幸の姿はまた多すぎて記述できない。とす
れば、私達には「困って立ち止る」という贅
沢は許されていないのであり、そのために逆
説的な意味で、学生達は困らないための智恵
としての擬似実践力を身に付けてきたのでは
ないだろうか。何故なら、男女として話すこ
とも、個人的な重荷を語ることも聞くことも
、それらいっさいの作業は、すべて状況をシ
リアスに捉え、吾と彼とを抜き差しならない
人間として認識することを前提として始まる
からである。すなわ ち、そうした状況認識
は畢竟、吾も彼も心身両面にわたって傷つく
べき生身の生きものであるという認識の共有
を求めているのであ る。

 (斉藤洋典『幸福の順延方程式』)