1.
杉野君は、洋反物株式会社
梶万商店の反物を、遠く地方の
呉服店に
卸し歩く出張員になったばかりの青年である。初めての出張は出足からうまくゆかず、さんざんな売り上げであった。そして、きょうの目的地はG町――。この旅の最後の日程である。
2. G町に着いたころはもう一尺先も見えぬ
吹雪であった。
鈴をつけた馬、がたがたの箱馬車、雪止めの新しい
莚、そんなものが雑然と並んでいる駅前で、
杉野君はぼう然と立ちつくしてしまった。土地の人々は自然に
柔順な人たちのみの持つ
敬虔さで、ただ
黙々と動いていた。
3.
杉野君はまるで
吹雪に
吹きこまれた人間のように、
近江呉服店へ転がりこんだ。店には
誰もいず、黒々と古風にくすんだ店構えがしんと静まりかえっていた。
囲炉裡に火が赤々と燃え、
鉄瓶からは白い湯気が暖かそうに立っていた。
杉野君は雪を
払いながら、何かほっと
安堵した気持ちになっていった。ふと顔を上げると、
奥の帳場に一人の少女が手に雑誌を持ったままこちらを向いてほほえんでいた。えくぼが白い花のように美しかった。
4.「あの、東京の
梶万でございますが。」
5.
杉野君ははっとして
お辞儀をした。少女も学校でするように
丁寧に頭を下げると、そのままばたばた
奥の方へ走って行った。
裾の短い着物の下にすっくりと
伸びた白い
脚、そうしておさげに結んだ赤いりぼんが、
蝶々のように
奥へ飛んで行った後を、
杉野君は夢のようにじっと見送っていた。
6.「ほうほう。それははあ。」
7. そこへ主人がそう言いながら、
煙草盆を提げて出てきた。
8.「ひどい雪ではあ。さあ寒い時は火のそばがいちばんす。」と、
炉辺にすわりながら、
煙管で
煙草を吸うのだった。
杉野君も
挨拶をしてすわった。
9.「こうぞ、こうぞ。」
10. 主人は
突然大声で
小僧を呼び、
11.「座布団こさ持ってこ。」と命じるのだった。
杉野君は
囲炉裡にこ∵ころもち手をさしだしながら、まぶたのなぜか熱くなるのを覚えた。
12.「ここへは初めてだべ。この雪こはあ
驚きなすっただべのう。」
13.「何もかも初めてでして。」
14.
杉野君は
訴えるように、種々の思いをこめてそう言った。
15.「ほうほう。よく来なすった。」
16. そこへ先刻の少女がにこにこ笑いながら、お茶を持ってきた。
17.「これが
娘っ子ではあ、道ちゃ、
お辞儀はあしなすったべのう。」
18. 少女はくくっと笑ったまま、またぱたぱたと
奥へ走って行ってしまった。白い額、黒々としたつぶらな
瞳、そうしてまた白い花のようなえくぼだった。
杉野君は自分までが何かにこにこと今は心楽しかった。
19.「ひとつうんとやってください。」と元気よく言い、例のようにまずモスの見本を開いた。
20.「ほう。この
朱ははあよくできたっす。」
21. 主人は見本を手にすると、いきなりさも感じ入ったように
呟いた。
22.(
外村繁「
鵜の物語」)