a 長文 4.1週 ha
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
1「大丈夫(だいじょうぶ)、寒くない、寒くないぞ。」
 僕(ぼく)はドアを開けて外へ飛び出した。
 もうすっかり春とはいえ、半ズボンはさすがに寒い。しかし、これに負けていてはいけないのだ。僕(ぼく)には自分を鍛え(きた )直して健康になるという、大きな目標があるのだから。
 2僕(ぼく)は体が弱い。すぐに喉(のど)が痛く(いた )なって熱が出るし、お腹( なか)を壊す(こわ )し、貧血になる。苦しい思いはたびたびしてきたが、今までそれで困っ(こま )たことはなかった。周りもみんな気をつかって、助けてくれていたからだ。
 3だが去年、僕(ぼく)は高熱を出してしまい、林間学校に参加することができなかった。その旅の様子は、みんなから聞いた話と、撮ら(と )れた写真でしか僕(ぼく)には分からない。みんな最高に楽しそうな笑顔で写真に写っている。
 4誰(だれ)にからかわれたわけでもなかったが、自分がみじめで悔しい(くや  )思いがした。だから僕(ぼく)は一念発起したのだ。今年は日光への修学旅行がある。それには絶対に参加するのだ、と。
 そのため、手始めに僕(ぼく)は半ズボンをはいて通学し、寒さに慣れることにした。
5「大丈夫(だいじょうぶ)、恥ずかしく(は    )ない、恥ずかしく(は    )ないぞ。」
 僕(ぼく)は自分に言い聞かせて、ドアを開けて教室に飛び込ん(と こ )だ。見慣れない僕(ぼく)の半ズボン姿(すがた)に、友人たちは実にいろいろな反応をした。「えっ。」という表情になる人もいたし、「なに、その格好。」と笑う人もいた。6しかし、そのくらい、なんてことはない。これは目標達成のための、僕(ぼく)なりの努力なのだ。笑いたければ笑えばいいという感じである。
 そもそも、体育のときはみんな短パンで運動しているのだ。私服(しふく)の半ズボンだけ恥ずかし(は   )がることはないはずだ。7僕(ぼく)はいつもどおりに挨拶(あいさつ)をして、席に座っ(すわ )た。僕(ぼく)の覚悟(かくご)が伝わったのか、友達もすぐに何も言わなくなった。
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 目標のためなら、人間は大胆(だいたん)な行動がとれる。むしろ、大胆(だいたん)な発想や決断なくしては人間の進歩はないと言っていい。8そう考えると、僕(ぼく)の似合わない半ズボン姿(すがた)だって、まるでピカソの芸術やエジソンの発明のように輝かしい(かがや   )ものではないだろうか。
 この前の朝礼のとき、校長先生が「寒い日が続きますが、今朝、私(わたし)の横を元気に駆け抜け(か ぬ )ていった生徒が半ズボンで……」という話をした。9それは間違い(まちが )なく、僕(ぼく)のことだ。やはりこれは誇っ(ほこ )ていいことなのだと実感した。僕(ぼく)はこれからも半ズボンをはき続けていこう。
「大丈夫(だいじょうぶ)。寒くないぞ。」
 僕(ぼく)は、今日も半ズボン姿(すがた)で元気に学校に向かう。0

(言葉の森長文作成委員会 ι)
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長文 4.1週 haのつづき
 1こうしてこれまでに人間は、平和のための備えをし、平和のためと称する(しょう  )戦争を始め、いつしかそれが人間から平和を奪う(うば )ただの戦争になっていた、という経験をしばしばしてきました。2備えをすることが全く不要だとは言えないでしょうが、平和というものが相手のある問題、他者との関係である以上、備えさえあれば平和でいられるという単純(たんじゅん)なものではないことも、次第に明らかになってきたのです。
 3加えて、平和についての思索(しさく)が進むにつれ、こういう別の問題も意識されるようになります。すなわち、戦争さえなければそれで平和と言えるか――。
 たとえば、多くの人々が極度の貧困(ひんこん)にさいなまれ、飢え(う )に苦しんでいるような社会は平和だろうか。4また、人種や性による差別が根強く残り、女児の就学(しゅうがく)率が男児のそれよりもいちじるしく低いような社会は平和だろうか。あるいは、字が読めないばかりに十分な社会参加ができず、自分たちが不利益をこうむっていることさえ気づかない人がたくさんいる社会は平和か。そういう問題です。
 5一九六〇年代も終わる頃(ころ)、それらもまた暴力と呼ぶ(よ )べきだ、と主張する学者が現れました。ノルウェーのヨハン・ガルトゥンクという人です。6いま述べたさまざまな問題は、誰(だれ)かが誰か(だれ )を殴っ(なぐ )たり殺したりするという意味での暴力ではないが、みずから望んだわけではない不利益をこうむる人は確実にいるのだから、それもまた別のかたちの暴力と呼ぶ(よ )べきだという考え方で、その種の「暴力」に「構造的暴力」という名前をつけました。7これに対し、人を殴っ(なぐ )たり殺したりするような種類の暴力を「直接的暴力」と呼び(よ )ます。
 「構造的」という言葉づかいはあまりなじみのないものかもしれませんが、おおよそ次のような意味です。たとえば、一つの社会の中で、一方には巨額(きょがく)の富を占め(し )、飽食(ほうしょく)している人がいる。8もう一方にはいくら働いても十分な収入(しゅうにゅう)が得られず、あるいは職さえも得られず、十分な食糧(しょくりょう)さえ得られない人がいる。それが当人たちの能力ややる気の問題ではなく、富の配分の仕組みが不適切であることの結果であるとしたなら、また、特定の人種や性が原因でなかば自動的に貧困(ひんこん)や飢餓(きが)の中に閉じ込め(と こ )られているとしたなら9―
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―それは社会構造が原因で生み出されている暴力と呼ぶ(よ )ほかないのではないか。富める人々が貧しい人々を殴りつけ(なぐ   )て飢え(う )させているのではなく、したがって加害者は特定できないが、社会構造の被害(ひがい)者はいるという意味での「暴力」なのではないか。0
 この構造的暴力論(ろん)は、それまでの平和論(ろん)の見落としていた点を浮き彫り(う ぼ )にし、新たな地平を開くものでした。それまでは「戦争のないこと」が「平和」だとされていたのに対し、戦争がなくとも「平和ならざる状態」はある、という視点(してん)を理論(りろん)化するものだったからです。その背後(はいご)には、平和とは何より社会正義の問題なのではないか、という問題意識があります。人間が自分の責任によらないことで差別され、排除(はいじょ)され、悲しみ、傷つく(きず  )のは平和とは言えないのではないか、という問題意識です。
 平和研究の課題は一挙に広がりました。戦争や武力紛争(ふんそう)や軍拡(ぐんかく)が主題だった(少なくともそう信じられていた)のに対し、貧困(ひんこん)や開発や人権(じんけん)や平等といった、いわば非軍事的な社会問題に関心を広げていったのです。いまでも平和研究といいますと戦争や軍拡(ぐんかく)の研究ですねと言う方が少なくありませんが、けっしてそうではありません。それ以外の問題に対する関心も高く、その中にはジェンダーとか環境(かんきょう)とかいった、今日的な問題も含ま(ふく )れます。それは単に「研究対象を広げた」ということではありません。暴力の意味が変わり、平和の意味が変わったからそれらの問題が必然的に平和研究に入り込ん(はい こ )できた、ということなのです。

(最上敏樹(としき)『いま平和とは』)
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a 長文 4.2週 ha
 1里山を歩いていると何人ものハイカーとすれちがいます。それぞれの人は何かの楽しみを求めて里山を訪れ(おとず )ているのです。遠い故郷(こきょう)のかわりに、ダイエットのため、おいしい空気を吸う(す )ため、写真をとったりスケッチをするため、バードウォッチングのため、つりのため、などさまざまでしょう。2それぞれの目的を気持ちよく、楽しく達成させてくれるのが里山の景観であり、それを構成する野生生物を中心とした自然です。
 奥(おく)武蔵(むさし)の里山を訪れ(おとず )たときのことです。秋の終わりで道ばたの草もほとんど枯れ(か )ていました。3せまい谷間に農家が点々とあり、だんだん畑がきれいに整備されています。雑木林やスギ林もきれいに手入れされています。たいへん美しい景観です。しかし、村のあちこちに立てられた看板(かんばん)が目ざわりです。4看板(かんばん)には、「駐車(ちゅうしゃ)禁止」とか「ゴミを捨てる(す  )な」とか、「私有地(しゆうち)につき立ち入り禁止」とか、「山野草の花をつむな」とか、そして「山野草の採集は窃盗(せっとう)罪」とまで書いてあります。何か殺伐と(さつばつ )しています。里山をきれいに維持(いじ)している村の人びとにとって、ハイカーのマナーの悪さは目にあまるのでしょう。
(中略)
 5今、美しく維持(いじ)されている里山は、必要なてまひまをすべて山里の人びとの善意(ぜんい)に負っています。たまに訪れる(おとず  )私(わたし)のようなハイカーが里山を楽しむとき、山里の人びとの善意(ぜんい)にただあまえているだけです。また、里山には治山、治水という機能があります。6山が荒れ(あ )て土砂(どしゃ)を川に流しこみ、中流や下流に水害をおこさせないようにするはたらきです。おいしい水を川へゆっくり供給(きょうきゅう)するという機能もあります。
 私(わたし)は、里山を私有(しゆう)財産という枠組み(わくぐ )のなかだけで考えていたのでは守れないと思います。7都市に暮らす(く  )人びとが、大切な里山を維持(いじ)してもらえるように山里の人びとに対して相応の負担(ふたん)をするべきではないかと考えています。それは金銭的な補助(ほじょ)もあるでしょうが、人手が不足している里山で下草刈り(くさか )などの世話をするボランティア活動であってもいいと思います。8里山は人間によってつくら
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れ、維持(いじ)されてきた自然だということを考えると、都市の人びとがここを訪れ(おとず )て仕事をする後者のほうがよいと思いますが。これに行政側が資金的な援助(えんじょ)をすればよいのです。
 9早春になると里山のウグイスは町までおりてきます。このころには立派(りっぱ)に「ホーホケキョッ」とさえずることができるようになっています。すこし前まで東京の町でもウグイスのさえずりをたくさんきくことができました。0最近では都会のウグイスが少なくなってきたような気がします。都会の緑が少なくなってきたことが原因でしょう。それに、緑があっても、かなりとびとびになってしまったことも関係します。ウグイスはしげみを好む野鳥だからです。鳥ですから空をとべますが、体をむきだしにするのは不安なのでしょう。これでは都会にやってくることはできません。
 雑木林に生活する野生動物たちのなかには一生をそこで終えるものもいますが、一時期だけ訪れる(おとず  )ものもいます。一日の間にある雑木林から別の雑木林へと移動しながら食べ物を食べるサルのような動物もいます。里山と平地を行ったり来たりするウグイスのような動物もたくさんいます。開発が進む里山では、新しい道路がつくられ、野生動物たちが訪れる(おとず  )林が分断されることが多くなりました。このため、里山の野生動物の交通事故がめだってふえているようです。「シカに注意」とか、「タヌキに注意」といった道路標識を見かけることが多くなっています。これまたとうぜんですが、シカやタヌキにはこの道路標識は読めません。人間の側の注意と配慮(はいりょ)がもっと必要です。野生動物たちにとっていちばんいいのは緑のコリドー(回廊(かいろう))です。野生動物の体をかくしてくれる緑の廊下(ろうか)です。緑のコリドーとは人間が立ち入らないことにします。野生動物たちは安心して緑のコリドーを伝わって移動できます。工事費が多少高くついても、道路の一部を地面より下のトンネルなどにして緑のコリドーをつくる工夫が必要でしょう。

 (山岡(やまおか)寛人(ひろと)『自然保護は何を保護するのか』
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a 長文 4.3週 ha
 1読書の楽しみは一人でできる楽しみです。碁(ご)を打つには相手がいる。野球を楽しむには自分の他に少なくとも十七人の賛同者が必要でしょう。そういう楽しみは、いつでもどこでも、というわけにはゆきません。2道具や、設備や、場合によっては途方(とほう)もなく広い場所がなければ、どうにもならない。読書の方は、設備も要らず、どこかへ出かけるにも及ば(およ )ず、相手と相談もせず、気の向くままにいつでもどこでもできます。3蛍(ほたる)の光窓(まど)の雪というのは、貧富の差が大きく、灯火用の油の値段(ねだん)が高すぎたむかしの話です。今は電気がいたるところにあるので、誰(だれ)でも、望めば昼となく夜となく好きな本を読むことができるでしょう。こんな便利な娯楽(ごらく)はめったにありません。
 4しかも、当方の体力とはほとんど関係がない。老人子供(こども)、病人でも、多くの場合には、それぞれ読んで楽しめます。疲れ(つか )ているときでも、易しい疲れ(つか )ない本を選びさえすればよい。しかもカネがかからない。5本が高くなったといっても、どこかの「ファミリー・レストラン」で二、三度食事をする値段(ねだん)で、大抵(たいてい)の本は買えます。それでも買えないほど高い本は、公共図書館にあり、そこから借りればタダですむでしょう。こんなに安くて便利な楽しみを知らぬ人がいるとすれば、その気の毒な人に同情しなければなりません。
 6「オーディオ・ヴィジュアル()」の情報が、活字情報を駆逐(くちく)する(追いはらう)時代が来た、という人がいます。「ヴィジュアル()」とは感覚的ということで、たとえば肖像(しょうぞう)写真が一人の男または女の顔を示すのは「ヴィジュアル()」な情報です。7しかしその他の誰(だれ)とも違う(ちが )顔の特徴(とくちょう)を言葉であらわすのは容易なことではありません。肖像(しょうぞう)写真は、活字の何十ページ、いや、おそらく何百、何千ページに相当する情報を一挙に伝えることができます。8しかしその男または女が、昨日はソバを食べた、明日はウドンを食べるだろう、という活字の一行に相当する情報を伝えることはできません。肖像(しょうぞう)写真は人物の顔の現在であって、過去も、未来も、表現できない。9「ヴィジュアル()」な情報と言葉による情報(そのひとつが活字情報)とは、互いに(たが  )他を補う(おぎな )ので、一方が他方を駆逐(くちく)するので
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はないし、一方が他方に代わるのでもありません。言葉は耳で聞くこともできます。耳で聞くのが「オーディオ」。0活字の文章は、声に出して読んでテープレコーダーに記録することができるでしょう。しかしそうすることが便利な場合と、不便な場合があります。活字の文章でなく音楽の記録ならば、あきらかにテープレコーダーが便利な道具です。六法全書をテープレコーダーに吹き込む(ふ こ )のは、あまりに不便だから誰(だれ)もしないことです。要するに活字時代の後に「オーディオ・ヴィジュアル()」の時代が来たのではなく、活字情報に「オーディオ・ヴィジュアル()」の情報が加わったというだけのことです。どちらも楽しめばよいので、どちらか一方だけを選ぶ必要はまったくありません。
 それでは読書そのものに、どういう種類の楽しみが伴う(ともな )でしょうか。それは人により、本によって違う(ちが )でしょう。もし共通の楽しみがあるとすれば、それは知的好奇(こうき)心のほとんど無制限な満足ということになるかもしれません。世の中には好奇(こうき)心を刺激(しげき)する対象が数限りなくあるでしょうから、対象を移して、好奇(こうき)心の満足を広げてゆくこともできるでしょう。読書の楽しみは無限です。時間をもてあましてすることがない、といっている人の心理ほどわかりにくいものはありません。人生は短く、面白そうな本は多し。一日に一冊(さつ)読んでも年に三百六十五冊(さつ)。そんなことを何十年もつづけることは不可能で、一生に一万冊(さつ)読むのもむずかしいでしょう。それは、たとえば東京都立中央図書館の蔵書(ぞうしょ)一五〇万冊(さつ)以上の一%にも足りないということです。面白そうな本を読みつくすことは誰(だれ)にもできないのです。すべての本は特定の言語で書かれています。日本で出版される大部分の本の場合には、日本語です。本を沢山(たくさん)読むということは、日本語を沢山(たくさん)読むということであり、日本語による表現の多様性、その美しさと魅力(みりょく)を知るということもあるでしょう。私(わたし)は本を読んで日本語の文章を楽しんで来ました。それも読書の楽しみの一つです。
 
 (加藤(かとう)周一 「読書術」による)
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a 長文 4.4週 ha
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
「ばあちゃん、もう春は来とるんかな」
 ヨウはかまどに薪(たきぎ)をくべているるい婆さん(ばあ  )に蒲団(ふとん)の中からちいさな顔だけを出して聞いた。るい婆さん(ばあ  )はもやのたちこめる暗い土間の隅(すみ)にしゃがんだままゆっくりとふりむいて、
「春の夢でも見たんかや」
と日焼けした顔から白い歯をのぞかせて言うと、こくりとうなずいた孫娘(まごむすめ)に、
「ああ、もうとっくに日向ッ原(ひなっぱら)じゃ春の歌がはじまっとるぞ」
とうれしそうに笑いかけた。
 ヨウはおおきな目をかがやかせて、蒲団(ふとん)を跳ね(は )上げて立ち上がると、土間のサンダルをつっかけ寝間着(ねまき)のまま外へ走り出した。
「こらっ、顔を洗っ(あら )てから行かんか」
背後(はいご)で聞こえる、るい婆さん(ばあ  )の声にヨウは首を横にふりながら、島の南西を見下ろせる裏手(うらて)の段々畑(だんだんばたけ)までの畔道(あぜみち)をかけ上がって行った。
 昨日まではぬかるんでいた道をヨウは犬のように跳ね(は )ながら走る。イモ畑を越え(こ )蜜柑(みかん)の木の下を抜け(ぬ )て、牛のモグがいる小屋の前にたどり着くと、ヨウは立ち止まって朝陽に光る海を見下ろした。
 半月余り続いた雨が上がった瀬戸内海(せとないかい)は無数の波頭(なみがしら)が西へむかう鳥の群れのように踊っ(おど )ていた。ヨウは肩(かた)で息をしながらおおきな目を少しずつ下げて行く。海原にむかって突き出し(つ だ )た皇子(みこ)岬(みさき)、左手にとんがり帽子(ぼうし)のように頭を見せる岬(みさき)の白い岩肌(いわはだ)が草のひろがる緑にかわると、そこだけ円形のステージのように丸くなった草原、日向ッ原が見えた。
「モグ、見てごらんよ。春が来とるよ。日向ッ原に、いっぺんに春が来とるよ」
 ヨウは大声で叫ん(さけ )だ。
 日向ッ原はまるで花たちが一夜のうちに開花したかのように菜の花とれんげが一面に咲い(さ )ていた。春風の織ったじゅうたんがヨウの目にあざやかに映っ(うつ )た。
「やっぱり夢で見たとおりだよ、モグ」
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 ヨウはその場で飛び跳ねる(と は  )と、いつものように口をもぐもぐとさせているモグの首に抱きつい(だ   )た。モグは喉(のど)を鳴らしてから、ヨウの身体を釣り上げる(つ あ  )ように首を回した。

(伊集院(いじゅういん)静「機関車先生」)
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長文 4.4週 haのつづき
 1最近の日本にはプロフェッショナルが少ないと思います。いつからか専門(せんもん)家というか、プロフェッショナルが敬遠(けいえん)され始めた。なぜそうなったか分析(ぶんせき)はしていないけれど、結果としてアマチュアがもてはやされる国になってしまった。2何のプロでもない者が、日常感覚でものをいうことが大変重要だというような、そんな価値(かち)観がはびこっています。
 たとえば審議(しんぎ)会などに参加しても、普通(ふつう)の人としかいいようのない委員が堂々と日常感覚の意見を述べる。3その情報はいわゆるマスコミで取り上げられるような程度で、実際のところはどうなっているのか、そのデータを知らないのに、ある限られた情報源(げん)に基づく日常感覚があたかもすべての判断の基準かのようなことを主張する。4またそれがもっともなことのように、マスコミで取り上げられる。最近はそういうことを頻繁(ひんぱん)に見かけます。
 本来、そういう場は、さまざまな分野のプロフェッショナルの意見を聞くところでした。5プロとはあることがらに関する事実がどうなっているのか、少なくともある条件下ではあるにしても、客観的なデータとして把握(はあく)しています。国というものは、プロフェッショナルが運営しなければ危険(きけん)きわまりない。6もっとも、最近の政治家も大衆(たいしゅう)に迎合(げいごう)するばかりですから、その程度のアマチュアの政治家が多いということですが。いまの我が国(わ くに)は、この意味では限りなくアマチュアの国になりつつあると思います。
 7ここでいうアマチュアとは、その主張の根拠(こんきょ)がほとんどマスコミに出ている程度のことにある人のことです。自分の知っている範囲(はんい)のことをすべてだと思い込み(おも こ )、あたかもそれが正論(せいろん)であるかのように、堂々としゃべる。そんな風潮(ふうちょう)が目につきすぎます。
 8結局、そういう人たちには謙虚(けんきょ)さがないということです。実際のところはよく知りませんが、私(わたし)の知っている範囲(はんい)はこうだけど――といういい方をするのが当然なのに、そうではありません。これっぽっちの経験しかないのに、それを拡大(かくだい)して、人類一般(いっぱん)の普遍(ふへん)的な話としてどうのこうのというような議論(ぎろん)までするわけです。9こういう状態を見ていると、この国はどうしようもない国になったなという感じがします。
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 プロフェッショナルがいないということは、いいかえれば、エリートが少なくなったということかもしれません。いい大学に入って、いい会社に入って、というのがエリートという意味ではありません。0自分の頭できちっと考えることができる、しかもその座標軸(ざひょうじく)は古今東西の歴史から、芸術、哲学(てつがく)に通じ、科学に通じる、それがエリートです。このような広い時空スケールの中に自分の尺度(しゃくど)を持ち、したがってすべてのことが判断でき、行動できる。それがエリートです。
 秀才(しゅうさい)と呼ば(よ )れ、大学に残って学者になる人間はいっぱいいます。しかし、現在のいわゆる秀才(しゅうさい)というのは所詮(しょせん)、与え(あた )られた問題が解けるだけの人間です。解くべき問題がつくれない人が、多い。問題がつくれない人はエリートではありません。
 戦後教育は、あえてエリートをつくろうとしなかったともいえます。すべての子どもに、最初から我(が)がある、などという誤っ(あやま )た前提に立ったために、教育と呼べる(よ  )ような教育をしてこなかったのではないでしょうか。だから、当然のことながらエリートは育たなかったのです。

(松井(まつい)孝典(たかのり)『コトの本質』(講談社))
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a 長文 5.1週 ha
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
 1パーツに接着剤(ざい)を塗り(ぬ )、慎重(しんちょう)に土台と組み合わせる。よし、これで完成だ。
 僕(ぼく)が集めているものは、プラモデルである。プラモデルといっても、「ガンプラ」のようなキャラクターモデルとは一味違う(ちが )。僕(ぼく)が作っているのは「城(しろ)」の模型(もけい)なのだ。
 2白鷺城(しらさぎじょう)とも呼ば(よ )れる姫路城(ひめじじょう)、織田信長の天下布武(ふぶ)の象徴(しょうちょう)である安土城(じょう)、豊臣秀吉(ひでよし)の大阪(おおさか)城(じょう)、……たくさんの城(しろ)を組み立ててきた。
 普通(ふつう)のプラモデルは簡単(かんたん)に作れて、完成させたあとに遊ぶことが目的の「おもちゃ」の一種という感じだが、城(しろ)の模型(もけい)はそうではない。3作り終わってしまったら、飾っ(かざ )て眺める(なが  )しかすることはない。つまり、作ることそのものに意義があるのだ。おもちゃというより工作に近いかもしれない。
 僕(ぼく)も昔は、車やロボットのプラモで遊んでいた。4しかし、学校の授業で日本の歴史を学び、武将(ぶしょう)の伝記などを読むようになって、がぜん戦国時代に興味を持つようになった。
 そこで去年、初めて城(しろ)のプラモデルを買ってみた。今までと全く違う(ちが )買い物に、店のおじさんは、ほうっという顔をして驚い(おどろ )た。
5「これは作るのが難しい(むずか  )よ。接着剤(ざい)を使うけど、持っているの。」
 そう心配してくれたが、僕(ぼく)は力強く、「大丈夫(だいじょうぶ)です」と宣言(せんげん)した。
 確かに初めは悪戦苦闘(あくせんくとう)したが、すぐに作り方のコツが飲み込め(の こ )た。
 6今では、本棚(ほんだな)の上にたくさんの空き箱が積み上がっている。この箱を材料にして、さらに巨大(きょだい)な城(しろ)の工作が作れそうなほどだ。
 特に気に入っているのが、小田原城(じょう)のプラモデルである。7姫路城(ひめじじょう)や安土城(じょう)より知名度が低いせいか、模型(もけい)としての出来栄えはもう一歩なのだが、それでも僕(ぼく)にとってはいちばんの名城(めいじょう)である。なぜなら、この城(しろ)は今でも地元の神奈川(かながわ)県に残っていて、僕(ぼく)自身も実際に行ったことがあるからだ。
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 8城(しろ)の中にはいろいろな展示(てんじ)物があった。戦国武将(ぶしょう)の甲冑(かっちゅう)や槍(やり)を見られたことは感動的だったが、外国からの観光客に分かりやすくするためか、忍者(にんじゃ)が使う手裏剣(しゅりけん)が「シュリケン」などとローマ字で書かれていたのには笑ってしまった。
 9自分の手で組み立てた小田原城(じょう)を眺め(なが )ていると、天守閣(てんしゅかく)から見た景色が思い出される。意識が模型(もけい)の城(しろ)の中に入っていき、当時の自分と重なるような気持ちがする。
 僕(ぼく)はさまざまな城(しろ)のプラモデルを集めることで、その城(しろ)が築かれた背景(はいけい)や歴史に詳しく(くわ  )なった。0それぞれの城(しろ)の特徴(とくちょう)と、その違い(ちが )を探究(たんきゅう)していくことはとても楽しい。それに手先も器用になって、クラスでも頼り(たよ )にされることが多くなった。
 何かを集めるということは、その物事に興味を持ち、理解を深めていくということだ。集めた物自体も大切だが、それを通じて手に入れた知識や技術が、人間にとって何より大切な財産になるのだと思う。

(言葉の森長文作成委員会 ι)
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長文 5.1週 haのつづき
 1成長の速い子供(こども)をタケノコのようにすくすく伸びる(の  )といい、タケノコは昔から成長が速いものの代名詞(だいめいし)とされてきたが、実際にその成長速度を測った人はあまりいないだろう。2竹博士として有名な上田弘一郎(こういちろう)氏(京都大学名誉(めいよ)教授)によると、マダケのタケノコで一日に一二一センチメートル、モウソウチクのタケノコで一日に一一九センチメートルも伸長(しんちょう)した例があるというから、その成長速度はすさまじいものである。3とくに昼間の伸長(しんちょう)は速く、一時間に八〜一〇センチメートルも伸びる(の  )ことがあるというから、これを換算(かんさん)すると一分間に約一・五ミリメートル伸びる(の  )ことになり、タケノコは、見る見るうちに伸びる(の  )ものだといってよい。4雨後のタケノコともいわれるように、雨の降っ(ふ )たあとなどは、とくに数多くのタケノコがにょきにょきと現われてくるのであって、そのようなとき、手入れのゆきとどいた竹やぶの緑の中に、茶褐色(ちゃかっしょく)の皮をかぶったタケノコが無数につき立っているありさまは実にみごとなものだ。
 5なぜこれほど多くのタケノコが、これほどすさまじい勢いで成長することができるのであろうか。それは、地下に張りめぐらされた無数の地下茎(ちかけい)から多量の栄養が供給(きょうきゅう)されるためであり、また、早くに成長することを止めた親竹が光合成でかせぐ栄養のすべてを、タケノコに供給(きょうきゅう)するためだといってよいだろう。
 6竹の根を掘りおこし(ほ    )た経験のある人は、地下茎(ちかけい)がぎっしりと張りめぐらされているのを見て驚か(おどろ )れたことと思うが、そのありさまは実際に掘っ(ほ )たことのない人には、とても想像できないものである。7上田氏らの調査では、モウソウチク林で、一平方メートルあたり一一メートル、マダケ林では一平方メートルあたり一九メートルもの地下茎(ちかけい)が張りめぐらされていたという。これらの地下茎(ちかけい)は、たいへん太いものであるから、竹林の土の中には地下茎(ちかけい)がぎっしりとつまっているといっても過言でない。8四〜五月に出てきたタケノコは、地下茎(ちかけい)に蓄え(たくわ )られた栄養と親竹から供給(きょうきゅう)される光合成産物を利用して急速に伸びる(の  )が、五〜六月には早ばやと伸長(しんちょう)を終わ
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り、夏の間は伸びる(の  )ことなく、つぎつぎと葉を開いて光合成を行う。9この時期には、その年に成長した竹だけでなく、前の年あるいはそれ以前に地上に現われた竹も、ほとんど成長することなく光合成で獲得(かくとく)する栄養分をすべて地下茎(ちかけい)に送るのであるから、地下茎(ちかけい)はどんどん大きくなるばかりでなく、栄養をたっぷりと蓄える(たくわ  )ことができる。0植物の成長にとっても好都合な夏の間、竹はさんさんと降りそそぐ(ふ    )夏の太陽のエネルギーを利用してつくる光合成産物を、ほとんど地上部の成長についやすことなく、せっせと地下茎(ちかけい)に送り込ん(おく こ )で蓄え(たくわ )ている点に注目してほしい。このために、翌(よく)春に出るタケノコがすくすくと成長できるのである。
(中略)
 ふつう、一本の若竹(わかたけ)を育てるのに五本以上の親竹の協力が必要だといわれているのに、出てくるタケノコの数はそれよりもはるかに多い。そのため、タケノコ社会でもはげしい生存(せいぞん)競争が演じられることになるが、このとき竹は、弱者を遠慮なく(えんりょ  )切り捨て(き す )、すべての子供(こども)に平等に栄養を与え(あた )て多数の栄養不全の子供(こども)をつくるようなことはしない。人間社会ではとうていまねのできない決断である。
(中略)
 私(わたし)たちが若い(わか )タケノコをとって食用に供する(きょう  )のは、このような犠牲(ぎせい)者の数を減らすのに役立っており、逆にいえば、私(わたし)たちはトマリタケノコを若い(わか )うちにとって食べていることになる。このように考えると、タケノコをとることは、その量さえ多すぎなければ竹林の成長を妨げる(さまた  )ことにはならないのであるから、私(わたし)たちは安心して、タケノコを食べることができる。
 
 (瀧(たき)本 敷()「ヒマワリはなぜ東を向くか」より)
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a 長文 5.2週 ha
 1少年のころの桜はもっと長く咲い(さ )ていた感じだが……と春ごとに同じ思いをくり返してきたが、今年の桜は久しぶりに長かった。歩いて通勤(つうきん)できるようになって、花を見る目のほうに少年時代ののどかさがもどってきたせいにちがいない。
 2「桜前線」という言葉があるが、この言葉はいただきかねる。季節感はやはり「※1梅一輪ほどの」とか「※2風の音にぞ」といった、微小(びしょう)感覚のものであり、大きく見渡す(みわた )といったところで、「※3柳(やなぎ)桜をこきまぜて」という程度なのであって、巨視的(きょしてき)に、日本列島全体を見下ろすスケールは、どうにも花見のさまでないと思う。3つまるところ、昔からある「花便り」のほうが、はるかに風情に富むのである。「つぼみふくらむ」「ちらほら咲き(さ )」「八分咲き(さ )」「散り初め」「落花盛ん(さか )」「散り果て」。花便りの言葉も、微小(びしょう)感覚を表し分けて、まことに風情に富んでいる。
 4ところが、散り初めのころのある日、枝を離れ(はな )た花びらを見ていて、これが地面に達するまでのあいだの状態を、ぴたりと表す言葉がないのに気がついた。風が一斉(いっせい)に散らす花には、「花吹雪(はなふぶき)」「散り交う」という言葉がある。5だが一ひらまた一ひらと、自分の重みだけで木を離れ(はな )、○○○てゆく花びらのありさまをいう動詞(どうし)は、簡単(かんたん)には見つからない。具体的に言えば、右の○○○印を「散る・落ちる・流れる・こぼれる」などで埋め(う )てみても、ぴたり、とはゆかないのである。6肌(はだ)に感じるほどの風はなく、空は青く晴れわたり、いましも枝離れ(ばな )した花びらは、空気がそこにあるのだということを気づかせる程度の支えを受けて、静かに漂う(ただよ )がごとくにしつつ、しかし確かに地表へ降り(お )てゆく。それは「漂う(ただよ )」でもなく、もとより「降りる(お  )」でもない。
 これと似たような光景を、私(わたし)は秋の信州で見たことがある。7からまつのこまやかな葉が、同じように自分の重みだけで枝を離れ(はな )、金色の光をひるがえしながら、音もなく地表に降り(ふ )積むのであった。からまつというのを見るのが、そもそも初めてであったから私(わたし)はその美しさと静寂(せいじゃく)に息をのみ、林の中にたたずみつくした
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のを覚えている。8そしてそれを日記に書こうとして、「からまつの葉が」とだけ書いてたちまち言葉につかえたものだ。青年時代の経験だが、今なおあの光景を表す言葉を発見できないままである。
 桜の花びらと、からまつの葉と、自然はついに言語の及び(およ )えないものなのであろうか。9何をそうめんどうな、「降る(ふ )」でよいではないかとも思うのだが、雪よりも長く時間をかけて、浮かび(う  )ながら降り(お )てゆく一枚(まい)一枚(まい)の、数量と重量についての微小(びしょう)感覚が、「降る(ふ )」には欠けていてもどかしい。0
 花便りのいろいろの言葉を作り出し、育ててきた日本語だから、私(わたし)のまだ知らないところに、あの美しさを表す言葉があるかもしれない。もし日本語にそれがなければ、それは日本語の語彙(ごい)の貧弱を意味すると、二十年前と同じことを考えさせられた。日本語になくてはならない言葉のように思えるのだが。
 
(渡辺(わたなべ) 実氏の文章による)
 ※1梅一輪ほどの…嵐雪(らんせつ)の句。「梅一輪一輪ほどの暖か(あたた )さ」を指す。
 ※2風の音にぞ…藤原(ふじわら)敏行(としゆき)の和歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」を指す。
 ※3柳(やなぎ)桜をこきまぜて…素性法師の和歌「見渡せ(みわた )ば柳(やなぎ)桜をこきまぜて都ぞ春の錦(にしき)なりける」を指す。
 ※4語彙(ごい)…言葉の総体。
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a 長文 5.3週 ha
 1日本語は、いままで日本民族によってしか使われたことのない内輪の言語、つまり部族言語です。どこの言語も初めは部族言語なのですが、それが外国に広まりだすと、外の視点(してん)が入ってきて言語の刈り(か )こみが行われてくるわけです。2その刈り(か )こみがはなはだしいのが英語です。英語というのは、外の視点(してん)と内の視点(してん)が合作でつくり上げためずらしい言語なのです。その点、ロシア語などは、多分にまだ内部の視点(してん)だけの言語ですが、それは国際普及(ふきゅう)の度合いが少ないからです。3日本語などはその最たるもので、これまで外側の目というのはまったくなかった。
 日本人は、自分の国の言語を国語と言ったり日本語と言ったりしますが、国語、日本語の対立は実はこの問題と関係があるのです。4国語として日本人が自分の言語を見るときは、完全に内側の視点(してん)で見ているのです。みんな、日常の文法などは知っているという前提で、日本語の文学とか詩が論じ(ろん )られる。つまり基本的知識のある者同士の話なのです。5ところが、外国人は、ことばのきまりも発音の仕方も知らないで日本語を習うのですから、外の視点(してん)しか持っていないということです。
 そして、私(わたし)たちの母語である日本語は、いま徐々に(じょじょ )外の視点(してん)を加味して整理される芽生えが出てきています。6もし外国人が日本語を学ぶ勢いがこのまま五十年、百年とおとろえなければ、日本語も大きく変わると思うのです。それは、英語が四百年の間にまったく変わってしまったのと同じで、日本語が国際普及(ふきゅう)するに従って( したが  )、外の人の影響(えいきょう)力が国内の日本語にもおよんでくる。7ただ、だからといって、日本本来の内側の視点(してん)は閉鎖(へいさ)社会のなごりだからやめるというのは、大きなまちがいです。英語でさえも、いまだにイギリス人しかわからない、彼ら(かれ )だけの内側の視点(してん)の部分があるのです。その外側に、人工的に刈り(か )こまれた英語の部分が付加されてきたということなのです。
 8日本語はまだこの部分が少ない。その証拠(しょうこ)に、日本語の字引はすべて国語辞書です。日本語の辞書は、ほとんどすべて日本語を内側の視点(してん)からしか見ていません。ですから、日本語国際普及(ふきゅう)の一つの大きな課題は外の視点(してん)を取り入れた日本語辞典をつくることで
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す。9これは、一つの大事な国家的事業であり、個人ではできないことですから、国際交流基金などが中心にやるべき仕事だと思います。
 日本語は、外国人によって学ばれ、使われた経験がないために、植木屋を十年も入れなかった庭みたいでめちゃくちゃに枝がのびているという状態です。0多くの西洋の言語は、ヴェルサイユ()宮殿(きゅうでん)の庭木のように、整然と刈り(か )こまれ、人工的な手入れがされているのです。かつて大学の先生をやめてフランスで日本語を教えていた学者が、ことごとにフランスには整然たる文法があるのに、日本語には文法がないと言ったのも、そのへんの問題だと思うのです。
 フランスでも、十六、十七世紀のフランス語は、植木屋の手の入らない日本語みたいな状態にありました。それを研究所をつくり、一種の理念にもとづいた人工フランス語をつくって、それを世界普及(ふきゅう)のフランス語の中心にしたわけです。だから、それはフランス人にとっても学ばなければならない「外国語」でした。高等教育を受けたフランスの知識階級が話すフランス語と庶民(しょみん)が話すフランス語がいまだにちがうのは、庶民(しょみん)はお金をかけてフランス語を勉強していないからなのです。外国人がフランス語を学ぶのが易しいのは、人工的に整理されたフランス語だからです。それを文法と、かの学者は呼ん(よ )だわけです。
 日本語にはそれがないのです。日本語は、明治からいままで百年の間におどろくほど変わりました。戦後の四十年間でもどんどん変わっているという野放図な自然言語なのです。これは、外国に日本語はこれですよと教えるときには大きな障害(しょうがい)になるわけです。ですから、日本は、これからどうやって日本語を刈り(か )こんでいったら、国際普及(ふきゅう)の日本語になるかということを考えなければならない。そして、これは国家的な事業として相当大きな研究課題としてお金をかけ、真剣(しんけん)に取り組まないと、どうにもならないと思うのです。
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a 長文 5.4週 ha
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 ぼくの小さいころは、買い物をするのに定価のないことが多かった。店の人と世間話から始まって、値切る(ねぎ )やりとりがあった。そして、自分が値(ね)をきめたような気分が少しはあって、その値段(ねだん)にチョッピリ自分の責任があった。
 もちろん、ドジだと高く買わされる。要領のよいのがトクをする。同じものを買うのに、高く買うのもあれば、安く買うのもいる。まったく、「不平等」だった。
 このごろでは、共同購入(こうにゅう)などと、代表者にまかせるのまである。そのかわり、みんなが同じ値段(ねだん)で買う。国家と生命の売買をやるのだって、代表者にまかせて、みんなが同じ値段(ねだん)でやるのじゃないかと、時節がら少々不安である。
 ドジを重ねて、要領をおぼえたものだ。それで、ある日急に買い物上手になったりもする。店との相性もあるもので、気に入りの店だと安く買えたりする。なじみがいもあった。ドジが固定するものでもないし、ある店ではドジでも、別の店では要領よくナジミになったりもした。
 いつでもドジだと困る(こま )かというと、そうした人間は、店のほうからまけてくれた。ドジにつけこんで、いつももうけていたのでは、店の評判も落ちるのだった。
 そして、要領のよい子を相手にとなると、店のほうでもなかなかシブトイ。値切り(ねぎ )合戦というのは、ゲームでもあった。そしてそこには、ヤヤコシイ人間関係があった。
 若い(わか )人に聞くと、そんなのメンドクサイ、と言う。金を出して物を手に入れる、それだけならば、だれでも同じ値段(ねだん)で物が手に入るのが「平等」だ。その極端(きょくたん)なのは、自動販売(はんばい)機で、機械にお世辞を言っても、まけてくれない。
 しかしぼくは、要領のいいのやドジなのや、さまざまに混じりあって、店も客もさまざまに気を使いあう世の中が、よい世の中だと思う。
 校則だって、守る生徒やら守らない生徒があって、うるさい教師や甘い(あま )教師があって、そのなかで叱ら(しか )れたり逃げ(に )たり、そのほうが気持ちがよい。このごろの「非行生」の文句に、「他の人間もやってるのに、自分が叱ら(しか )れるのは不公平」というのがある。これは、「非行」それ自体よりも、人間社会にとってよほど危機(きき)ではない
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か。
 自分がドジで叱ら(しか )れようが、要領のよい仲間が叱ら(しか )れずにすむことは、喜ぶべきことであるはずだ。「不公平」というのは、ヤッカミ根性のことかもしれぬ。
 問題は自分だけのことだ。他人が叱ら(しか )れようが叱ら(しか )れまいが、どうでもよいことだ。今はドジでも、今度はうまくやればよい。こういうのこそ、「自立してない」と言うんだろうな。せめて「非行生」だけでも自立してほしい。「優等生(ゆうとうせい)」が自立してないことは、大学生を相手であきらめてるんだから。

(森毅(つよし)「ひとりで渡れ(わた )ばあぶなくない」)
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長文 5.4週 haのつづき
 1メダカは長さが三、四センチしかない小さな魚で、私(わたし)たちが子どものころはほんとうにどこにでもいました。あまりにありふれていたので、フナやコイなどとくらべると、子どもにとってあまり魅力(みりょく)のない、雑魚の代表のような魚でした。
 2ところが、このメダカがなんと「絶滅(ぜつめつ)危惧(きぐ)種」として絶滅(ぜつめつ)を心配されているというニュースが流れたのです。一九九九年のことです。子どものころ魚とりに熱中したことのある、私(わたし)たちの世代にはとても信じられないことでした。3減ったことは事実かもしれない、でもメダカにかぎって絶滅(ぜつめつ)ということは考えられない、というのが実感でした。しかし、これはどうやら信じなければならない事実のようです。じつに悲しいことです。その背景(はいけい)にはつぎのようなことがありました。
 4かつて田んぼは用水路で水を引いていました。その用水路は田んぼとほぼ同じ高さにあり、微妙(びみょう)な高さの違い(ちが )を利用して水の入り口と出口がつくられていました。ひとつの田んぼから出た水がとなりの田んぼに入る、という構造になっているものもありました。5そのような用水路は地形に応じて曲がっており、深さも一定でないので、水の流れにも微妙(びみょう)に違い(ちが )があり、それに応じて違う(ちが )植物が生えていました。昔の子どもが夢中で魚とりをしたのは、このような用水路でした。6秋になって田んぼから水が抜か(ぬ )れても用水路には水が残っており、くぼみが「魚だまり」となって魚が生きていたのです。
 ところが、一九六〇年代からはじまった農業基本整備事業によって、自然の地形に応じてつくられていた田んぼに大きな変化が生じました。7かつて人力で営々と築かれてきた田んぼは、大規模(きぼ)な土木工事によって完全につくりかえられてしまったのです。田んぼの水が管理しやすいように、用水路はU字管というコンクリートの管にされました。断面の形がU字型なのでこう呼ば(よ )れます。8U字管の機能は水田に水を運ぶことですから、それ以外のものは必要ありません。その結果、水を流すときは洪水(こうずい)のように大量の水が勢いよく流れます。
 魚が隠れる(かく  )ところもなければ、カエルが卵(たまご)を産むところもありません。9用水路は田んぼから効率的に排水(はいすい)するために、水田との
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高さの差が大きくなるようにつくられました。このため、水を抜く(ぬ )と田んぼは完全に干上がり(ひあ  )ます。U字管には魚だまりはありませんから、土の中にもぐって生きるドジョウや小さなメダカも生き延びる(い の  )ことはできません。0その結果、夏の「洪水(こうずい)」と冬の「砂漠(さばく)」がくりかえされることになります。これでは生きていける動物はいません。
 ところが、小動物に対する仕打ちはこれにとどまりませんでした。ちまちました小さな田んぼは農作業の効率が悪いことは確かです。そこで「暗渠排水(あんきょはいすい)」といって、田んぼの地中に管を埋め(う )、水を集めて排水(はいすい)することがすすめられたのです。こうすれば水路に使った土地も使えるし、細かなデコボコをなくすことができると考えたのです。こうなると動物には生活する場所がまったくなくなってしまいます。こうして、メダカに代表される無数の小さな生きものたちは、田んぼから姿(すがた)を消していったのです。
 日本の農業は稲作(いなさく)が中心ですが、それは米を巨大(きょだい)なポットのようなところで効率的につくることだけではありませんでした。毎日の営みの中で米づくりを中心におきながらも、家畜(かちく)を飼い、裏山(うらやま)から肥料となる枯れ葉(か は)を集め、ときどきドジョウやフナをとるなど、じつにさまざまな営みの中でおこなわれたものでした。また、田植えのときには若い(わか )女性が晴れ着を着て早苗(さなえ)を植え、近所の人が助けあって田植えや稲刈り(いねか )をするという社会の営みでもありました。そして先祖から引き継い(ひ つ )だ土地に祈り(いの )をささげ、収穫(しゅうかく)物に感謝をささげるという心に支えられたものだったはずです。それは工場で米という名の製品をつくるのとはほど遠い営みでした。
 しかし、この土木工事はそのようなことをすべて無視(むし)したものでした。そのことの意味の深さを私(わたし)たちは考えつづけなければならないと思います。

(高槻(たかつき)成紀『野生動物と共存(きょうぞん)できるか――保全生態学入門』(岩波ジュニア新書))
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a 長文 6.1週 ha
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
1「これってどういうこと? 教えてよ。」
 私(わたし)の家では、家族どうしの会話がとても多い。テレビや新聞を見ていて、気になることがあると、みんな遠慮なく(えんりょ  )口に出す。名前の分からない芸能人がいれば父は私(わたし)に聞いてくるし、可愛い動物が映れ(うつ )ば母は大喜びでみんなを呼ぶ(よ )。2中学生の兄はすぐに、聞いてもいないうんちくを言いたがる。
 そういう私(わたし)も、自分が好きな本や映画(えいが)の話になると、「これはこういうあらすじで、こんな登場人物がいてね……」と解説を始めてしまうのだから、始末に終えない。
 3ああでもないこうでもないと話しているうちに、気がついたら番組そのものが終わっていた、ということも少なくない。自分の考えをしゃべって、家族の意見を聞いて、納得(なっとく)することが楽しいのだ。
 ある日、私(わたし)が帰宅(きたく)すると、父と兄が何事か言い合う声が聞こえてきた。4ふだんのんびりして頼り(たよ )なさそうな父と、ダジャレばかり言っている兄。そんな二人がこんなに熱くなるのは珍しい(めずら  )ことだ。
 まさか喧嘩(けんか)かと私(わたし)は身を固くしたが、よくよく聞いてみると、どうやら二人とも同じことについて怒っ(おこ )ていて、その不満を述べ合っているらしい。5私(わたし)はひとまず安心して、何があったのかと聞いてみた。
 すると兄は「はやぶさ」のことだと教えてくれた。小惑星(しょうわくせい)探査(たんさ)機「はやぶさ」が、長い宇宙(うちゅう)の旅を終えて地球に帰ってくる。それも、さまざまなトラブルを乗り越え(の こ )て、奇跡(きせき)的に。6私(わたし)はそんなものが存在(そんざい)していたことすら知らなかった。
 父と兄は、その世紀の瞬間(しゅんかん)がテレビ中継(ちゅうけい)されないことに憤慨(ふんがい)していたようだ。とはいえ、今はちょうどサッカーのワールドカップが始まったところだ。四年に一度のイベントを優先(ゆうせん)する方が当たり前ではないかと、私(わたし)には思えた。
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 7私(わたし)がそう言うと、兄はいっそう大きな声で、私(わたし)に「はやぶさ」の魅力(みりょく)を語った。その任務が世界初の試みであること、事故でボロボロになったにも関わらず必死に帰ってこようとしていること、中でも一番驚い(おどろ )たのは、その放浪(ほうろう)の旅が七年にも及ん(およ )でいるということだった。四年に一度どころではない。
 8兄たちはこれから、わざわざジャクサのホームページに接続して、動画で帰還(きかん)を見届ける(みとど  )のだという。せっかくだからと私(わたし)も一緒(いっしょ)に見ることにした。その映像(えいぞう)はお世辞にも鮮明(せんめい)とは言えなかったが、燃え尽き(も つ )ていく「はやぶさ」の姿(すがた)は、まるで大きな流れ星のようだった。9そして私(わたし)は翌日(よくじつ)、その美しさについて、見ていなかった母に熱く語って聞かせることになったのである。
 人間は誰(だれ)かと対話をすることで、新しいことを知り、自分の世界を広げることができる。そうした対話を欠かさないことは、私(わたし)の家族の長所と言っていいと思う。0じっくり話してみることで、身近な人の更(さら)なる長所を見つけることもできる。私(わたし)は、これからも家族の対話を大切にしていきたい。

(言葉の森長文作成委員会 ι)
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長文 6.1週 haのつづき
 1昆虫(こんちゅう)の幼虫(ようちゅう)が育つ日数(幼虫(ようちゅう)期間)は、哺乳類(ほにゅうるい)などにくらべて短いものが多い。夏のイエバエはたった一週間で幼虫(ようちゅう)が発育をとげて蛹(さなぎ)になり、四日たつと蛹(さなぎ)から成虫に羽化するというスピードぶりである。2一方、カワゲラ類の三年.ムカシトンボの五年、アブラゼミやミンミンゼミの六年などのように、犬や猫(ねこ)より長くかかって親になる昆虫(こんちゅう)もいる。
 しかし、上には上があるもので、五〇年もかかって育つ昆虫(こんちゅう)がいる。アメリカ西部にすむアメリカアカヘリタマムシがその記録保持者である。3日本のタマムシはその美しさゆえに、法隆寺(ほうりゅうじ)の国宝(こくほう)・玉虫厨子(たまむしのずし)に翅(はね)が使われているが、アメリカアカヘリタマムシも美麗(びれい)さにかけてはひけをとらない甲虫(こうちゅう)で、金緑色の翅鞘(ししょう)が赤くふちどられている。
 4このタマムシは樹勢(じゅせい)のおとろえたアメリカマツを選んで産卵(さんらん)し、幼虫(ようちゅう)は木の内部を食べて二、四年後に蛹(さなぎ)になり、羽化した成虫は、ひと冬木の中ですごしてから脱出(だっしゅつ)する。ここまでなら、成育日数が多少長くかかる昆虫(こんちゅう)にはよくある話で、それほど珍しい(めずら  )ことではない。
 5ところが、幼虫(ようちゅう)が小さいうちに林のマツが伐採(ばっさい)されて建材になると、発育の間のび現象がおこる。建築後数十年たった家屋の柱、床板(とこいた)、窓(まど)枠(わく)、あるいは長年使ってきた食器戸棚(とだな)などから、ひょっこり成虫が現れてくる。6それもアメリカだけでなく、この虫が分布していないはずのヨーロッパやグアム島などで国内羽化が記録されている。それは、幼虫(ようちゅう)のひそんでいたマツの木材がアメリカから輸入されて使われたためである。
 7この虫は伐採(ばっさい)したマツ材にはけっして産卵(さんらん)しないから、伐採(ばっさい)後何年目に成虫が出現したかでおおよその成長記録が推定(すいてい)できる。最高記録の五一年は幼虫(ようちゅう)として発見されたものなので、半世紀以上かかって育ったことになる。
 8幼虫(ようちゅう)期間がふつうの一〇倍以上もかかる理由は、木材が乾燥(かんそう)して水分が不足したための発育遅延(ちえん)と説明されている。乾燥(かんそう)により
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命がのびたという見方もできる。乾燥(かんそう)という厳しい(きび  )逆境で、体がひからびて死ぬこともなく、しぶとく育つこの虫の生命力には驚嘆(きょうたん)させられる。
 9極限の乾燥(かんそう)にさらされながら何年も生きぬく、もう一つのすごい虫にアフリカのユスリカがある。ユスリカの幼虫(ようちゅう)(アカボウフラ)は水生で、水がないと発育できないだけでなく、水がなくなれば死がおとずれる。0しかし、ナイジェリアの砂漠(さばく)にすむポリペディウムというユスリカの幼虫(ようちゅう)は例外である。日照りがつづいて水が干あがる(ひ   )と、土の中でミイラのように縮ん(ちぢ )だ姿(すがた)になり、雨が降る(ふ )のを何ヵ月(かげつ)も待つ。じっとがまんの日がつづいたあと、旱天(かんてん)の慈雨(じう)に恵まれる(めぐ   )とよみがえって本来の姿(すがた)にもどり、発育を再開する。実験室で数年間乾燥(かんそう)させて貯蔵(ちょぞう)した幼虫(ようちゅう)を水にいれたところ、すぐよみがえって活動をはじめたという報告もある。乾燥(かんそう)で命がのびたような気さえする。
 この虫は乾燥(かんそう)に強いだけでなく、短時間なら、摂氏(せっし)一〇二度からマイナス二七〇度の高低温にも耐える(た  )という。
 
(安富和男の文章から)
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a 長文 6.2週 ha
 1「ガッツがある」とか「根性が足りない」とかいった言葉をよく耳にしますが、私(わたし)は、どうも好きになれません。そもそも〃guts〃なんて、「臓物(ぞうもつ)」という意味だし、この言葉の音が汚い(きたな )のも、嫌い(きら )な理由の一つです。2根性も、本来の仏教語では、「草木の根にたとえられる人間の性質」のことですが、現在では違っ(ちが )た意味に使われるので嫌(いや)な言葉の一つになりました。
 ものごとを一所懸命(いっしょけんめい)にやることは本当に大切なことです。ただ、目を血走らせ、ムキになった、むきだしの表情を、私(わたし)は好まないのです。3闘志(とうし)は表面に出さず、内に秘め(ひ )ておくもの、これが私(わたし)の美意識だからです。
 「一心不乱(いっしんふらん)」はすばらしいのですが、「盲目的(もうもくてき)ないちず」が困る(こま )のです。いつも「主人公」が目覚めていなくては、お話になりません。そのためにも、そこに「遊び」が必要ではないでしょうか。4つまり、余裕(よゆう)です。「遊び」には、大事な意味がいくつかあります。たとえば、肝心(かんじん)なのは、「自分のしたいこと」を「楽しむこと」です。いわば、自分の好きなことをして「楽しむ」のです。それに、「機械の遊び」という場合の「遊び」のような「余裕(よゆう)」「余地」、「遊びの時間」のような「ひま」が大切です。
 5自動車のハンドルにも、「遊び」があります。あの遊びがなかったら、ずいぶん運転しにくくなるでしょうし、第一、危険(きけん)です。ハンドルに遊びがあるので、少しばかり手がすべっても、急に変な方向へ曲がらないですむのです。6人生という車にも、この「余裕(よゆう)」「ひま」という遊びがないと危険(きけん)です。
 子供(こども)たちの天職は、遊ぶことです。たっぷり遊ぶのが役目です。しかし、部活だの、塾(じゅく)通いだの、受験勉強だの、すべて強制、半強制のわくの中で、せかせかした生活をしています。7小学校、中学校、高等学校を、このように過ごさざるを得なかった学生たちを見ていると、私(わたし)は、一大学教師として、もの悲しさで一杯(いっぱい)になるのです。
 私(わたし)どものところでは、学生たちは、二年に進むとき、自分の専攻(せんこう)したいコースを選びます。8その際、英米文学コースを志望す
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る学生たちを集めて、一人ずつ面接をします。そして、あれこれ質問するのですが、近年はますます幼稚(ようち)さが目立ちます。大学へ入ったけれど、一体自分が何をしたいのか分からない。9英米文学コースに所属したいらしいが、何を学びたいわけでもない。文学をやりたいなどと言いながら、文学作品などほとんど読んだことがない。人生や、宗教(しゅうきょう)や、友情や、人間の様々な側面に深い関心をもたずして、文学などと、まったく何をかいわんや、です。0
(中略)
 ものをおいしく食べるにはお腹( なか)をすかせたらいい。そうしたら、強制されなくても、誰(だれ)だって自分から食べようとします。同様に、本来の人間に備わっている好奇(こうき)心が働き出せば、自然に知識欲(ちしきよく)が湧い(わ )てきて、自然に勉強したくなります。そんな状態においてやるのが、本来の教育です。子供(こども)たちの、一人一人が持って生まれた「個性」、それを引き出してやるのが、教育者のはずです。しかしながら、無理やり、知識を頭の中へ詰め込ま(つ こ )れた結果、人間本来の好奇(こうき)心がすっかり消えてしまったのです。それも、感受性が最も強く、人間の心の勉強をするのに最も適している時期に、外から、よけいなもので一杯(いっぱい)にされて、本来の好奇(こうき)心の働く余地が、すっかりなくなってしまったのです。画一的に鋳型(いがた)にはめられた結果、遊びの好奇(こうき)心も、自由に働く想像力も、新しい発見の創造(そうぞう)力も、みんな学歴主義に塗り(ぬ )込め(こ )られてしまいました。
 想像力は心に必要な遊びです。心が本来の自由な姿(すがた)に戻れ(もど )ば、人間の想像力が働き出します。この想像力の遊びもまた、心にとって栄養となります。想像は創造(そうぞう)につながります。想像がさらに深まれば、「思いやり」となって、人間関係を創造(そうぞう)するのです。
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a 長文 6.3週 ha
 1先日、日本産トキの絶滅(ぜつめつ)が確実になったと報じられた。種の存続(そんぞく)のためにさまざまな努力がはらわれ、中国産のトキを借り受けてペアリングも試みられたが、失敗に終わった。関係者の落胆(らくたん)は大きかったにちがいない。
 2トキのように絶滅(ぜつめつ)寸前(すんぜん)にまで追いこまれた動物や、その数を激減(げきげん)させている植物を救おうと努力する姿(すがた)は、「人間の良識」と評される。その通りと思う半面、偽善(ぎぜん)ではとのむなしい思いが残る。第二第三のトキを生む自然破壊(はかい)が、日本全国で進んでいるからである。
 3一九八九年に環境庁(かんきょうちょう)が発行したレッドデータブックには、緊急(きんきゅう)に保護を要する動物だけでも約三万七千種近くが記載(きさい)されている。イリオモテヤマネコなど、絶滅(ぜつめつ)の危機(きき)にひんしている動物も多い。
 身近な動物の中にも、姿(すがた)を見ることがまれになったものが少なくない。4日本在来のメダカは外来種に追われて、東京の河川ではめったに見られない。ミヤコタナゴも少なくなった。ゲンゴロウやタガメなどの水生昆虫(こんちゅう)も激減(げきげん)した。人間の良識とは、その数が激減(げきげん)している動植物に対し、早急に保護の手を差し延べる(さ の  )ことである。5絶滅(ぜつめつ)が確実視(かくじつし)されるまで放置したあとで、救済(きゅうさい)努力を傾注(けいちゅう)するということには、大きな矛盾(むじゅん)を感じる。
 自然保護の先進国アメリカでは、一八七二年、世界に先がけてイエローストーン国立公園を設置した。日本では自然保護など話題にもならないころのことである。6一九一六年には国立公園局が設置され、自然景観や動植物の保護に全国的な制度が確立、機能的に運営されて今日に至っ(いた )ている。
 他方日本では、一九三一年に国立公園法が制定され、一九五七年に自然公園法に代わった。7自然保護の基本的考え方は先進国のそれを踏襲(とうしゅう)したが、戦争をはさみ、戦後は自然保護と経済(けいざい)発展(はってん)のはざまでゆれ動き、必ずしもその機能を果たしていないのが実情である。
 アメリカの徹底(てってい)した自然保護を日本のそれと比較(ひかく)して、そのちが
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いをなげいていた筆者だが、最近うれしい体験をした。8わが家の子供(こども)たちが一年以上も飼育をつづけているカマキリの話題である。
 親は秋に産卵(さんらん)を終えて死んだが、その卵(たまご)が六月に飼育箱の中で孵化(ふか)した。先日渡米(とべい)の折、ロサンゼルスの友人たちにこのカマキリの話をした。9ところが、かれらの話では、ロサンゼルスではカマキリの捕獲(ほかく)が禁止されているそうだ。数が激減(げきげん)しているのがその理由だった。
 東京に比べれば、はるかに土地は広く緑も多い。郊外(こうがい)にはコヨーテまで出没(しゅつぼつ)し、飼いねこが犠牲(ぎせい)になるほど自然にめぐまれた都市である。0そこで子供(こども)たちがカマキリをとらえて飼育観察できないとはさびしい限りだ。
 ロスより自然環境(かんきょう)は悪い東京だが、都心でも植えこみや生けがきに毎年カマキリの卵(たまご)が見られ、六、七月にはあみ戸に張り付く子カマキリの姿(すがた)が多い。子供(こども)たちの通常の捕獲(ほかく)ぐらいでは、減りそうにない数である。アメリカが自然保護で先進国となった一因として、他国より早く自然を破壊(はかい)したことも考えられる。今日でもカマキリを自由にとらえて、飼育観察できる東京に、ささやかな幸せを感じた経験だった。
 
 ペアリング…おすとめすの一組にすること。
 レッドデータブック…絶滅(ぜつめつ)のおそれのある野生生物の現状を記録した資料集。
 傾注(けいちゅう)する…精神や力を一つの事に集中する。
 踏襲(とうしゅう)する…前人のやり方などをそのまま受けつぐ。
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a 長文 6.4週 ha
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 今年の秋、ウィーンの楽友協会ホールで武満徹(とおる)さんの新作クラリネット・コンチェルトがウィーン・フィルハーモニーによって演奏(えんそう)される。二百年前、モーツァルトのクラリネット・コンチェルトがウィーンで初演奏(えんそう)されたのを記念する催し(もよお )で、百年前には同じ趣旨(しゅし)でブラームスがクラリネット五重奏(じゅうそう)を作曲していることを考えると、これは日本の音楽界だけでなく日本にとって大きな出来事だと思う。おそらくわが国の文化芸術の分野でこれに匹敵(ひってき)することはかつてなかったし、今後もそうそうあることではなかろう。(中略)
 製紙会社の会長と作曲家武満とのかかわり合いを不思議に思われる方もあると思うが、家内同士が学校時代からの親友で、武満さんが二十歳(さい)を過ぎたころから家族ぐるみのお付き合いをしてもう四十年にもなろうとする。だからといって私(わたし)は彼(かれ)の音楽をいっこうに理解するものではないが、今回世界の存在(そんざい)とまでなった武満さんの人生の来し方を眺め(なが )続けてきた者として、その人間的バックグラウンドを語ってみたい。
 何よりもまず自分の道を自分のやり方で歩いてきた人である。作曲家としても徒手空拳(としゅくうけん)、自ら一家をなしたので、音楽学校へいったわけでも特定の師についたのでもない。本当に才能のある人は既成(きせい)概念(がいねん)で教育など授けないほうがよほど純粋(じゅんすい)に成長できるという真理を彼(かれ)もまたわれわれに示してくれた。大江(おおえ)健三郎(けんざぶろう)との共著(きょうちょ)「オペラをつくる」の中で彼(かれ)はこういっている。
「ぼく自身が音楽家としての四十年、音を表現媒体(ばいたい)として、自分でしか言い表せないようなことを表す。……音楽といってもその表現のスタイル、形式は多様で、たんに慰め(なぐさ )や娯楽(ごらく)のための音楽であれば、時代の人たちが喜ぶような表現方法はあるように思います。しかし、ぼくがやっている音楽はそういうものでなくて、音というものを通して人間の実在について考える。どちらかというと、詩とか哲学(てつがく)とか、そうしたものに近い表現形式として音楽をやっているわけで、これがいちばんむずかしいところなんですね」
 創造(そうぞう)性と個性、いまの日本人にこれほど求められているものはない。
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 武満さんはまた世界人であると同時にすぐれて日本人である。彼(かれ)の作風からもこのことはよくうかがえる。代表作であるノヴェンバー・ステップスには和楽器である琵琶(びわ)と尺八(しゃくはち)が取り入れられ、本来西洋のものであるコンチェルトに日本の音色を植えつけたことはあまりにも有名である。前述の本の中で彼(かれ)はまた、「僕(ぼく)の音は西洋音楽の音とはまったく違う(ちが )」とも述べている。彼(かれ)の音楽は西洋の亜流(ありゅう)ではないようだ。そこが世界の注目をひき絶賛を博しているのだと思う。(中略)
 ややしかつめらしいことを書いてきたが、多くの人々が武満さんにひかれるのは、根っからの市井(しせい)人である一面であろう。立派(りっぱ)なサイレント・マジョリティの一員、卑近(ひきん)な言い方をすれば熊(くま)さん、八つぁん的要素である。熱狂(ねっきょう)的な阪神タイガース(はんしん     )ファンでシーズンになると外出先でもラジオを離さ(はな )ず一喜一憂(いっきいちゆう)している。まさに日本人の判官びいきを絵に描い(えが )たようなものである。
 私(わたし)は彼(かれ)の背広(せびろ)姿(すがた)をほとんどみたことがない。普通(ふつう)はズボンにセーター、改まったときは、ネクタイなしだが独特のスタイルのジャケットを着用している。最近、だれのデザインですかと聞いたら、これは森英恵(はなえ)さんですと答えた。これで日本はおろか世界中を通している。私(わたし)はひそかに浴衣がけの外交と呼ん(よ )でいる。あのとても頑丈(がんじょう)とはいえない肉体で年に何回となく外国に出かけるエネルギーは聡明(そうめい)で献身(けんしん)的な奥さん(おく  )、才気煥発(かんぱつ)のお嬢さん( じょう  )、そして猫(ねこ)二匹(ひき)という恵まれ(めぐ  )た家庭のたまもので、これは彼(かれ)の最大の作品かもしれない。市井(しせい)人の常識が申し分なく働いている。ここにもいまの日本人がともすればないがしろにしがちなものがある。
 武満徹(とおる)論(ろん)を最後に締めくくれ(し    )ば、世界への道の前に日本の道があり、日本への道の前にわが道があったということであろうか。そして平凡(へいぼん)の中に非凡(ひぼん)があることがなんとも魅力(みりょく)的である。

(河毛二郎()「逆風順風」)
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長文 6.4週 haのつづき
 1小学生のとき、夢中になって『ファーブル昆虫(こんちゅう)記』を読んだ。理科よりも国語、算数よりも社会が好きだった私(わたし)は、はじめこの本のタイトルを見て、敬遠(けいえん)していた。
 「おもしろいわよ。たまには、こういうのも読んでみたら?」
 物語にばかり偏る(かたよ )私(わたし)に、勧め(すす )てくれたのは母だった。
 2朝顔の観察とか、蟻(あり)の巣づくりを調べるとかいうことは、好きなほうではなかった。たぶん、そんなようなことが、たくさん書いてある本だろうと思っていた。そして実際に読んでみると、たしかに内容は、そんなようなことである。3にもかかわらず、ぐいぐい引き込ま(ひ こ )れていった。勧め(すす )た母親のほうがあきれるくらい、寝(ね)ても覚めても『ファーブル昆虫(こんちゅう)記』、という感じだった。
 それでは、私(わたし)はファーブルによって、昆虫(こんちゅう)への理科的な興味を開眼させられた、といっていいだろうか?
 4ちょっと違う(ちが )ような気がする。それまで夢中になった本と同じように、私(わたし)はそこに「物語」を読んでいたのだ。
 登場する昆虫(こんちゅう)たちは、ユニークで頭がよくて愛嬌(あいきょう)のある主人公。彼ら(かれ )のくりひろげる「生きる」という物語にすっかり魅せ(み )られてしまった。
 5『ファーブル昆虫(こんちゅう)記』の素晴らしさは、ここにあるのだと思う。自然のなかに隠さ(かく )れている、楽しくて不思議でときには厳しい(きび  )物語の数々を、現在進行形でファーブルとともに発見してゆく喜び。『オズの魔法使い(まほうつか )』や『不思議の国のアリス』を読んでいるときにも似たような興奮(こうふん)が、そこにはあった。
 6なかでも印象に残っておもしろかったのは「ふんころがし」すなわち「オオタマオシコガネ」の章である。今回あらためて読みかえしてみて、この虫を描く(えが )ときのファーブルの筆には、ひときわ愛情がこもっているように感じられた。子ども心にもそれが伝わったのだろうか。
 7自然の恵み(めぐ )を受けることと、自然と戦うことが、表裏一体(ひょうりいったい)となって紡が(つむ )れるドラマ。西洋ナシの形をしたお団子のなかで生きる
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幼虫(ようちゅう)の話は、何度読んでも飽き(あ )ないものである。虫の持つ知恵(ちえ)への驚き(おどろ )も、もっとも大きい章だった。
 8ところで、昆虫(こんちゅう)というと、最近ちょっと気になる報道があった。
 昆虫(こんちゅう)採集は自然破壊(はかい)につながるのでやめようという意見があるという。子どもにも自然を大切にする心を教えなければ、と。
 一瞬(いっしゅん)、なるほどと思いかけて、いやいや待てよ、と思った。9蝉(せみ)を採ったり甲虫(かぶとむし)をつかまえることは、自然と親しむことにこそなれ、自然を破壊(はかい)することにはならないのではないだろうか。むしろ、そういう体験をすることなしに大人になってしまうことのほうが、こわいような気がする。0
 貴重(きちょう)な高山植物や珍(ちん)種の蝶(ちょう)を採ることはもちろん規制されてしかるべきだろう。が、そういう特殊(とくしゅ)な例を除け(のぞ )ば、昆虫(こんちゅう)採集の禁止は、それこそ近視眼(きんしがん)的な発想ではないかと思う。子どもが採集するぐらいで、蝉(せみ)や昆虫(こんちゅう)は絶滅(ぜつめつ)したりはしない。山を切り崩し(き くず )たり、ゴルフ場を造ったりするほうがよっぽど虫たちを脅かす(おびや  )ことになるだろう。
 そんな愚行(ぐこう)から虫たちを守ろうと、将来(しょうらい)発想することができるのは、どんな育ちかたをした子どもだろうか。蝉(せみ)も甲虫(かぶとむし)も見たことがない、というのでは、はなはだ心もとない。
 ファーブルも、さまざまな実験の途中(とちゅう)では、多くの虫たちを死なせてしまっている。蝉(せみ)をフライにして食べちゃったりもする。が、ファーブルが心から虫を愛していた人であることはいうまでもない。昆虫(こんちゅう)採集禁止をとなえる人は、ファーブルの行為(こうい)もまた残酷(ざんこく)だというのだろうか。
 愛情は、なにもないところからは生まれない。まず「知る」ことが、愛情のめばえのスタートだ。

(俵万智(まち)「二十一世紀の子どもたちへ」(『世界文学の玉手箱四 昆虫(こんちゅう)記 下』(解説)(河出書房新社(かわでしょぼうしんしゃ))所収(しょしゅう))より)
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