a 長文 2.1週 he
 ぼくは、手の中にある小さなカードをにらみつけた。そこにはぼくの名前と、「受験番号008」という文字が印刷してある。そう、これは受験票なのだ。といっても、学校で開かれる「受験面接体験会」に使う、練習用のものである。 
 いよいよ中学受験が迫っせま ている。勉強はしっかりしてきたつもりだが、面接を受けるのは初めての経験だ。だから練習とはいえ、準備は入念にした。「尊敬そんけいしている人はだれですか」と聞かれたら「父です」、「日課はありますか」と言われたら「自習として読書と暗唱を続けています」と答えるように決めていた。 
 体験会の当日。廊下ろうかにたくさんの椅子いすが置かれ、顔をこわばらせた同級生たちがずらりと並んなら 座っすわ ている。一人一人、部屋に呼び込まよ こ れていき、自分の番が目に見えて近づいてくる。いつも見慣れているはずの教室への入り口が、別世界へのとびらか、大きく開いた怪物かいぶつの口のように思えてきた。 
 そして、ぼくの番が来た。返事をして、教室の入り口で一礼。「どうぞ」と言われるまで待ってから、静かに椅子いすこしを下ろし、受験票を提出する……ここまではイメージ通りだ。目の前に面接官役として、三人の先生が座っすわ ている。どんな難しいむずか  質問をされるのか……と身構えていたら、真ん中の先生が困っこま たように笑って、こう言った。 
「これは、逆だねえ。」 
ハッとしてつくえの上を見ると、「受験番号008」の文字が、ぼくの方を向いている。受験票は当然、それを見る面接官に向けて出すべきものだ。ぼく緊張きんちょうのあまり、まるで漫画まんがのようなミスをしてしまったのだった。 
 自分のしでかしたことが自分で信じられず、一気に顔が赤くなる。面接でのやりとりは、今でも「逆だねえ」以外には何も覚えていない。結局、あまりにも分かりやすい失敗だったせいか、とくに注意されることはなかった。とても恥ずかしいは    思いをしてしまったが、それだけに、本番で同じ間違いまちが をすることは決してないだろ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

う。緊張きんちょうしそうになったら「とりあえず、受験票を逆に出すなよ」と過去の自分に言い聞かせて、リラックスするつもりだ。 
 人間にとって、身が縮むちぢ ような緊張きんちょうの体験も、たまには必要だ。そうすることで自分と向き合い、思わぬ発見ができるかもしれないからだ。
「初心るべからず」。 
 この時の緊張きんちょう忘れるわす  ことなく、些細ささいな失敗は笑い話にしてしまえるように、本番では良い結果を残したい。ぼくは練習用の受験票を、つくえの引き出しにそっとしまい込んこ だ。

(言葉の森長文作成委員会 ι)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534