保吉の海を知ったのは五歳か六歳の頃である。もっとも海とはいうものの、万里の大洋を知ったのではない。ただ大森の海岸に狭苦しい東京湾を知ったのである。しかし狭苦しい東京湾も当時の保吉には驚異だった。奈良朝の歌人は海に寄せる恋を「大船の香取の海に碇おろしいかなる人かもの思わざらん」と歌った。保吉はもちろん恋も知らず、万葉集の歌などというものはなおさら一つも知らなかった。が、日の光に煙った海の何か妙にもの悲しい神秘を感じさせたのは事実である。彼は海へ張り出した葭簾張りの茶屋の手すりにいつまでも海を眺めつづけた。海は白じろと赫いた帆かけ船を何艘も浮かべている。長い煙を空へ引いた二本のマストの汽船も浮かべている。翼の長い一群の鴎はちょうど猫のように啼きかわしながら、海面を斜めに飛んで行った。あの船や鴎はどこから来、どこへ行ってしまうのであろう? 海はただ幾重かの海苔粗朶の向こうに青あおと煙っているばかりである。……
けれども海の不可思議をいっそう鮮やかに感じたのは裸になった父や叔父と遠浅の渚へ下りた時である。保吉は初め砂の上へ静かに寄せてくるさざ波を怖れた。が、それは父や叔父と海の中へはいりかけたほんの二、三分の感情だった。その後の彼はさざ波はもちろん、あらゆる海の幸を享楽した。茶屋の手すりに眺めていた海はどこか見知らぬ顔のように、珍しいと同時に無気味だった。――しかし干潟に立って見る海は大きい玩具箱と同じことである。玩具箱! 彼は実際神のように海という世界を玩具にした。蟹や寄生貝は眩い干潟を右往左往に歩いている。浪は今彼の前へ一ふさの海草を運んできた。あの喇叭に似ているのもやはり法螺貝というのであろうか? この砂の中に隠れているのは浅蜊という貝に違いない。……
保吉の享楽は壮大だった。けれどもこういう享楽の中にも多少
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