a 長文 1.1週 he2
 1まず第一に必要な「自由化」は「完全主義からの自由」である。いうまでもなく、コミュニケーションにとっていちばん大事なのは、相手を理解しようとする努力である。2相手の話し言葉が不十分であることを責めていたのでは、コミュニケーションは成立しない。とりわけ、母国語以外の言語を話すときに、その言語を完全に操る(あやつ )ことなど、常識的に考えてみても、誰(だれ)にもできるはずはない。3事実、一つの言語が多くの人々によって使用される条件、あるいは一つの言語が「世界語」になりうる条件は、その言語がどれだけ柔軟性(じゅうなんせい)を持っているか、そして不完全な部分を許容し、補完(ほかん)することができるか、にかかっているのである。
 4実際「英語」がこれだけ世界的に普及(ふきゅう)したのも、この言語が一つの民族の「専用(せんよう)語」としての閉鎖(へいさ)性をいつのまにか開放して、かなり怪しげ(あや  )な「英語」をも許容し、意味が通じればよい、という実用主義に徹し(てっ )たからなのではないか。5国際会議などでさまざまな国籍(こくせき)の人々が使っている「英語」がいかに多様で奇怪(きかい)なものであるかを思い出すだけでもそのことは明らかだ。
 そんなことを考えながら、たまたま在日外国人のために発行されている日本語の雑誌(ざっし)を読んでいたら、「日本語の失敗」という特集があって、こんな事例が紹介(しょうかい)されていた。6その外国人は「私(わたし)は母親にいつもおそわっています」というべきところを、「私(わたし)は母親にいつもおそわれています」と言い間違え(まちが )て、聴衆(ちょうしゅう)から笑われた、というのである。確かに、「おそわる」と「おそわれる」との間には大きな意味の違い(ちが )がある。7物事は間違わ(まちが )ないにこしたことはない。しかし、話を聞いていれば、その言語的文脈と社会的文脈から、彼(かれ)が本当は「おそわる」と言いたかったに違い(ちが )ない、ということは誰(だれ)にでも推測(すいそく)できるはずである。8この場合、コミュニケーション上の問題を生んだのは、話し手であるこの外国人の責任というよりは、文脈上簡単(かんたん)に推測(すいそく)できる言葉に、厳密(げんみつ)な正確さを求めた日本人の側にあるのではないか、と私(わたし)は思った。9このような少しの間違い(まちが )を問題にして、相手を笑うというのでは「日本語」が「世界性」を持つ言語になることはかなりむずかしいのではないのだろうか。「国際化」の進行にともなって、このような「さまざま
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な日本語」がわれわれの周辺でしばしば発生するようになってきている。0とりわけ東京の都心部などでは、電車に乗っても、街を歩いていても、多くの外国人がそれぞれに「日本語」を操っ(あやつ )ている風景を見かける。そこでは、かなりたどたどしい「日本語」が使用されているけれども、別段(べつだん)日常的な生活にはこと欠かない。十分意志は通じるのである。コミュニケーションというのは、おおむねこんな性質のものなのであって、お互いに( たが  )常識的な推論(すいろん)によって、およその見当がつけばそれでよいのである。

 (加藤(かとう)英俊(ひでとし)監修(かんしゅう)・国際交流基金日本語国際センター編『日本語の開国』(TBSブリタニカ))
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a 長文 1.2週 he2
 1また人に好かれる人は、他人に対してもよいイメージを抱く(いだ )ことに心がけながら交際していきます。相手に対して悪いイメージを抱き(いだ )つづけると、潜在(せんざい)意識はイメージ通りに反応していくことはご承知のとおりです。2それは同時に、自分にとっても悪い現象がおこることをよく知っているからです。
 わたしたち人間は、嫌(いや)な人に対しては決してよいイメージを抱い(いだ )てはいません。それと反対に、好ましい人にはよいイメージを持っていることに気づきます。3男女間の恋人(こいびと)同士を見ればよくわかるでしょう。顔のあばたもえくぼに見えてくるのです。
 ところが、自分の抱い(いだ )ている悪いイメージによって、その人が嫌い(きら )になっているということに気づかないのです。4そして、いつまでも悪いイメージを持ちつづけて、結局は何一つ得にならないばかりか、損ばかりしていることになるのです。
 このイメージも、創造(そうぞう)的に活用することが大事です。5相手の長所にだけ目をむけるように、イメージ作りをしていけば、好きだった人はますます好きになり、きらいだった人とも次第にうちとけ合うようになります。
 人に好かれる大きな魅力(みりょく)は、利己(りこ)的でなく利他的であるということです。6自分の利益より他人の利益を先にすることをまず考え、奉仕(ほうし)の精神で他人に接するように心がけることです。そして困っ(こま )ている人を見れば、すすんで力を貸してあげるのです。
 この心得が、お釈迦さま( しゃか  )のいう「功徳」をつむことにつながるものと、わたしは考えています。7自分の利益を先にして、相手に恩を売るのは、決して功徳にはなりません。
 キリストの言葉に「与えよ(あた  )、さらば与え(あた )られん」と説いているのも、単にギブ・アンド・テーク(        )の打算的な考えではなく、功徳と同じ深い内容の意味を持っているものと思います。
 8人間はとかく打算に走りやすく、自分の利益につながらないことはしたがりません。また、他人に何かをしてやる場合でも、必ずその見返りを期待しています。その見返りが多い少ないで、争いがおこります。9このように、目さきの損得ばかりを考えて行動していくと、優劣(ゆうれつ)を意識する場合と同じように、必ずさまざまな破壊(はかい)的現象がおこります。
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 釈迦(しゃか)やキリストのような人類の聖人(せいじん)と呼ば(よ )れる人は、そんなことは遠の昔にお見通しです。0その上でわたしたちに、「与える(あた  )こと」のほんとうの意味を説いているのです。損や得をぬきにして、純粋(じゅんすい)な心で他人にほどこせば、本人は気分がさわやかであるばかりか、相手からも感謝され、その恩はいつかきっと返ってくる。もし仮に相手が忘れ(わす )たとしても、よそから必ず何倍にもなって返ってくる。その上功徳をつめば、それだけ人間の徳は高くなるという、高遠な因果の教えを説いているのです。
 集団生活をしていて、わたしたちが生涯(しょうがい)に出会うことのできる人の数はかぎられています。それだけ人生における出会い(縁(えん))というものは大切なものです。特に友だちと名のつく人は、生涯(しょうがい)掛け(か )がえのない存在(そんざい)です。フランスの作家ロマン=ロラン(一八六六〜一九四四)は、このことを次のようにいっています。
「わたしは世界に二つの宝(たから)を持っている。わたしの友とわたしの魂(たましい)と」
 またゲーテは、次のようにいっています。
「空気と光と、そして友だちの愛、これだけが残っていれば、気をおとすことはない」
 わたしたちが一生を通じて得られる友だちの中で、生涯(しょうがい)の友が得られるのは、若い(わか )年代の時といいます。みなさんも、この絶好の黄金の時期を決して無にしないように、今まで述べてきたことをよく理解し、積極的に活用して下さい。

(百瀬(ももせ)昭次 『君たちは偉大(いだい)だ』)
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a 長文 1.3週 he2
 1物の命と人間の心が結び合って一つになる。我(が)の強い人には友達ができがたいように、おたがいの心が結び合ってこそ友人になるのである。2河井(かわい)寛次郎(かんじろう)先生が、物を自分や友人に見立てて「物を買って来る、自分を買って来る」とか、物を親しい友人として「自分の家に連れて来る」というように表現されていたことを思い出すのである。そのように考えると、美しい物は何か人の心に与える(あた  )ものを持っている。3したがって、物と心が結び合う時、自分の水準が高められる。それゆえ、美を味得する道は人によって違う(ちが )のである。一般(いっぱん)的に、生まれながら情操(じょうそう)的な人と理知的な人があるように、誰(だれ)でも同じようにはいかないが、情操(じょうそう)的な人ほど友人が多くできるように、美しい物との出会いは多い。4そういう人ほど直感力が強いといえる。
 さて、この直感力を強くする道は、修業によらなければならないが、柳(やなぎ)先生は参考として役に立つ二つの実際的方法を示唆(しさ)して、練習の資に供(きょう)したいと言われている。一つは標準法で、他は擬人(ぎじん)法である。5物は程度の差はあっても、いろいろな条件によってそれぞれ異なっ(こと  )ているもので、作った人の性質、境遇(きょうぐう)、意志、取りあつかい方などが直接できあがった物に影響(えいきょう)してくる。これは人間性の反映(はんえい)である。それゆえ人間と同じように見ていくことはその理解を早める一つの道である。6例えば、工芸品の一つを例として取り上げると、色とか模様(もよう)とかデザインなどが派手(はで)にすぎていたら、ぜいたくな人間の性質と同じように見えるだろう。ぜいたくという言葉は道徳の世界から見れば、必ずしも善(ぜん)ではないし、華美(かび)というものと真の美とはどうしても反発する傾向(けいこう)がある。
 7今度は別に装飾(そうしょく)はなくても、落着いた形、確実な材料や機能、おだやかな色調などを見る時、かざり気のない実直な人のほうがどれだけ人に信頼(しんらい)されるかということに通じる。物としても、そのような人に通じるものがあることを考えないわけにはいかない。物としてもそのような美しさを持っている物があるといえよう。8また細々とやせて、きゃしゃな形を見ると、やはりそれは健康体とはいえない。(中略)
 また例えばそまつな材料や、粗雑(そざつ)な仕事でありながら、上っ面ば
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かりよく見せかけていても、その仕事やそれを作る人間のようなうそのある物とは、共に暮す(くら )気持にはなれないのが普通(ふつう)である。9どんな人間が信用できるか、また頼り(たよ )になるか、友達として長く付き合えるかというように、物にも一様の道徳観がある。一時はだまされても、不道徳な人や物は、はっきりわかってしまえば、どうなるか考えなくてもわかる。0これを見ぬく見識は、真に美しい物を常に求めている者が持てるのである。
 また、気品のある物、品格のある物、着実な物、健康な物、温かみのある物、うるおいのある物、深味のある物、静けさのある物、こういう性質のある物は、美しさに結びつきやすい縁(えん)を持つといえる。ただ注意すべきは人間の世界にごまかしが多過ぎるように、物の場合にもよくあることである。これは巧み(たく )に技巧(ぎこう)をこらした物、器用さで作った物など、その作為(さくい)にごまかされて、それを美しさと誤認(ごにん)する場合が多い。技巧(ぎこう)と美、器用と美の混同される場合も多いが、これらと一緒(いっしょ)に暮し(くら )ている間には、いつかボロが出て来て必ずいやになるものである。これは、結局はごまかし物ということになる。これに反して不器用でも実直な物、田舎くさくても、素朴(そぼく)でも着実な物の価値(かち)を忘れ(わす )てはいけない。
 愛され、尊敬(そんけい)される人間と同じで、それを早く見ぬくことが大切である。このように、見かけの美しさと真の美しさとはちがうもので、これを人間に例えて考える判定の仕方が擬人(ぎじん)法である。

(池田三四郎(さんしろう)『美しさについて』)
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a 長文 1.4週 he2
 1釈迦(しゃか)、キリスト、ソクラテス、孔子(こうし)等の語録を読んでだれでも気づくことは、その多くが対話の形式をとっているということである。とくにプラトンの著作(ちょさく)はすべて対話編と呼ば(よ )れているように対話が中心になっているが、経文も論語(ろんご)も、バイブルもその中には対話的要素が少なくない。2とくにプラトンの対話編をみると、宗教(しゅうきょう)、哲学(てつがく)、文学などと分化しない以前の、そのいっさいが一つの生命において把握(はあく)されているそういう一種の原始性がある。現代ではあらゆるものが分化し、細分化されつつあるが、その以前の状態のもつ全人性といったものを私(わたし)は尊重(そんちょう)してきた。3ここに生ずる対話の精神は現在は消滅(しょうめつ)したのではないかと疑わ(うたが )れる。
 私(わたし)はきわめて初歩的な問題として提出したいのだが、読書とは要するに対話の精神の所産ではないかということである。ごく簡単(かんたん)にいうと、つまり疑問(ぎもん)を持つということだ。4それがどんなに幼稚(ようち)なものであっても、人間が青春時代に達すると必ず人生や社会や、あるいは自分自身の生存(せいぞん)の仕方についてさまざまの疑問(ぎもん)を抱く(いだ )。疑問(ぎもん)を抱き(いだ )疑問(ぎもん)を表現するということが考えるということの始まりなのであって、当然その疑問(ぎもん)に答える人を求めるわけである。5プラトンの対話編や、孔子(こうし)でも釈迦(しゃか)でもソクラテスでも、その語録を読むと、すべて何ものかから疑問(ぎもん)を投げ与え(あた )られ、それに対して答えるという形式をとっている例が多い。あるいは質問した人間に向かって逆に質問する。6それによってその人の抱い(いだ )ている疑問(ぎもん)に明確なかたちを与える(あた  )。つまり問題の問題であるゆえんをはっきりさせるのだ。書物が存在(そんざい)したとしても、まず現に生きている師に出会って、その師の口からの直接的な問答体によって「自己(じこ)」を発芽させる方法がとられたわけである。
 7さきに述べたようにプラトンは書物にあまり重きをおかなかったにもかかわらず多くの書物を書いたが、しかし彼(かれ)の本来の仕事はアカデミアにおける研究、あるいは弟子たちとの問答による教育という点に主眼がおかれていたわけで、書物そのものの占める(し  )比重
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は、今日から考えるとかなり小さかったと思われる。8この状態を、書物に対してもできるだけ応用してみることを私(わたし)はすすめたいのである。もっともプラトンが指摘(してき)したように、こちらで問いかけても書物というものは同じ言葉をくりかえすだけで何も答えてはくれない。9疑問(ぎもん)を抱い(いだ )て接しても、明確な答えが直ちに得られるとは限らない。
 たしかに書物の限界にはちがいないが、だから書物は不用だということにはならない。この限界があるからこそ、逆に書物に対する我々(われわれ)の無限の探求(たんきゅう)が始まるわけである。0これは、田中美知太郎(みちたろう)氏も指摘(してき)しておられる点で、プラトンの真意を知るためには、あらゆる種類の解釈(かいしゃく)、考証、共同研究等が求続的に行われなければならなかったし、そのために読書力が深まった、と。

 (亀井(かめい)勝一郎(かついちろう)『読書論(ろん)』(旺文社(おうぶんしゃ)))
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a 長文 2.1週 he2
 1日本は、世界の中でもきわめて安全な社会だといわれています。国民一人あたりの犯罪発生率も低いですし、ふだんスリや置き引きの心配をせずに生活できます。ハンドバッグをいすにかけたり、カバンを電車の網棚(あみだな)にのせたり、わきに置いたまま電話をかけたりといったことはあたりまえになっています。2こうしたことができるのは、もちろんたいへんいいことなのですが、ごみの視点(してん)で見たときに、この安全度の高さが困っ(こま )た問題の原因となっていることがあります。
 それは自動販売(はんばい)機の普及(ふきゅう)です。安全な社会でなければ自動販売(はんばい)機をだれも監視(かんし)していない所に置いておくことはできません。3日本では、ジュースなどの清涼(せいりょう)飲料からはじまって、酒、たばこ、週刊誌(し)から乾電池(かんでんち)にいたるまで、自動販売(はんばい)機は、いたるところに見られます。普及(ふきゅう)台数は全国で六百万台近く、国民二十人あたり一台の割合(わりあい)になります。4これが安全についての日本の特殊(とくしゅ)事情によることはいうまでもありません。
 ところが問題もあります。自動販売(はんばい)機はいつでも気軽に買えるために、清涼(せいりょう)飲料の消費が大きくのび、その結果ごみも増えることとなりました。5また、屋外で飲まれることが多いため、容器がどうしても散乱(さんらん)することになります。道路わきや海岸、公園などに散乱(さんらん)する空き缶(あ かん)やペットボトルは、ごみ問題の一つの象徴(しょうちょう)的存在(そんざい)です。道徳心にうったえることも大切ですが、野放しの自動販売(はんばい)機にも一考の余地がありそうです。
 6日本人は働きすぎだといわれます。しかし、現在は週休二日制などが導入され、また労働時間の短縮(たんしゅく)もはかられていますから、これからは余暇(よか)利用はますますさかんになるでしょう。その代表は観光です。そこで観光で生きていこうとする地域(ちいき)では、どうすれば人が来てくれるか、知恵(ちえ)をしぼることになります。
 7先日、静岡(しずおか)県の伊東(いとう)観光協会から、「伊東(いとう)の観光のあり方を考える」というテーマで講演をたのまれたのを機会に、観光とはなんだろうか、人はなにを求めて観光地に行くのだろうか、観光客はどうすれば満ち足りた気分になるのだろうかと考えてみました。8そ
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の答えは一言でいえば、日常生活からの解放、つまりいつもとまったくちがう世界を楽しむということです。都会のオフィスで、毎日コンピュータとにらめっこしているサラリーマンにとって、人里はなれた渓流(けいりゅう)でヤマメを釣る(つ )こと、9毎日食事のしたくにいそがしい主婦にとって、食事のしたくや後かたづけをせずに過ごせるということは、それだけでなんとなく豊かな気分になれます。
 0ところでごみですが、これは、私(わたし)たちが生活していくうえで、いつでもどこでもかならず出てくるものですから、日常性の代名詞(だいめいし)といってもいいものです。とすると、ごみが一つもない世界は、私(わたし)たちの日常生活とはまったくちがった世界だということです。観光地からいっさいのごみをなくせば、そのことがそこを訪れ(おとず )た人の心をいつもとちがった新鮮(しんせん)なおどろきで満たし、またそこへ行きたいという気持ちをおこさせることになるでしょう。
 この原理を適用して大成功した観光地、それが東京ディズニーランドです。ここには自動販売(はんばい)機は一台もありません。食べもの、飲みものの持ちこみも禁止されています。どこを見わたしても、ごみが一つも落ちていません。もしだれかがごみを捨て(す )たとすると、目にもとまらぬ速さで係員がちり取りに入れてしまいます。ちょうどウインブルドンのテニス世界選手権(せんしゅけん)で、ネットにかかったボールがすばやく取り去られるような要領です。
 ミッキーマウスもシンデレラ城(じょう)も、確かに非日常の世界なのですが、ごみが散乱(さんらん)していたのではたちまち日常の世界に引きもどされてしまいます。ごみはそれほど日常を強く意識させ、私(わたし)たちの日々の生活に深く結びついているのです。というわけで、伊東(いとう)の海岸にまた行ってみようという気持ちにさせるには、この方法を応用したらどうか、道徳心にうったえる方法とはまったく逆の、つまりごみをすばやく拾い、砂浜(すなはま)にはごみが一つも落ちていないようにするという方法を考えてみたらどうかということを、お話したのです。
 このように、ごみは社会を考える切り口をあたえてくれます。ごみから社会を見ていくと、社会の新しい面が見えてきます。ごみは私(わたし)たちの生活や社会と表裏一体(ひょうりいったい)の関係にあるからです。
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a 長文 2.2週 he2
 1サラリーマンが仕事がおもしろくない。上役にしかられた、というようなことがあると、ほかの人のしていることがよさそうに思われる。自分のやっている仕事がいちばんつまらなそうだ。思い切ってやめてしまえ、となる。2商売変えしたところで、同じ人間がするのである。急に万事うまく行く道理がない。またおもしろくなくなる。すると、またも、ほかの人の職業がよさそうに見える。こういう人はいつまでたっても腰(こし)が落ちつかない。
 3こういう例は世の中にごろごろしている。それなのに、相変わらず、同じことをくりかえす人があとからあとからあらわれる。めいめいの人にほかの人の経験が情報として整理されていないからである。整理されていないわけではない。4ちゃんと、ことわざという高度の定理化が行われているのにそれを知らないでいるためである。
 たえず職業を変えるのは、賢明(けんめい)でない。そのことは古くからはっきりしていた。「石の上にも三年」というのがそれである。5イギリスには、これを「ころがる石はコケ(お金)をつけない」と表現した。とにかく、じっと我慢(がまん)が必要だ、ということである。
 商売をする人、投機をする人は、ものの売り買いのタイミングを見きわめるのに身の細る思いをする。6もうよかろうと思って、売買をすると、早すぎる。それにこりて、こんどは満を持していると、好機を失ってしまう。もっと早く決断すればよかったと後悔(こうかい)する。商売の人は、たえずこういう失敗を経験している。そのひとつひとつは複雑で、それぞれ事情は違う(ちが )。7ただ、タイミングのとりかたがいかに難しい(むずか  )か、という点と、自分の判断が絶対的でないというところを法則化すると、「モウはマダなり、マダはモウなり」ということわざが生まれる。
 学校教育では、どういうものか、ことわざをバカにする。8ことわざを使うと、インテリではないように思われることがある。
 しかし、実生活で苦労している人たちは、ことわざについての関心が大きい。現実の理解、判断の基準として有益だからである。ものを考えるに当たっても、ことわざをうまく利用すると、簡単(かんたん)に処理(しょり)できる問題も少なくない。
 9現実に起こっているのは、具体的問題である。これはひとつひとつ特殊(とくしゅ)な形をしているから、分類が困難(こんなん)である。これをパターンにして、一般(いっぱん)化、記号化したのがことわざである。Aというサラリ
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ーマンの腰(こし)が落ちつかず、つぎつぎ勤め(つと )を変えている。0これだけでは、サラリーマン一般(いっぱん)、さらには、人間というものにそういう習性があって、その害が古くから認め(みと )られていることに思い至る(いた )のは無理だろう。
 これに「ころがる石はコケをつけない」というパターンをかぶせると、サラリーマンAも人間の習性によって行動していることがわかる。別に珍しく(めずら  )もない、となる。
 具体例を抽象(ちゅうしょう)化し、さらに、これを定型化したのが、ことわざの世界である。庶民(しょみん)の知恵(ちえ)である。古くから、どこの国においても、おびただしい数のことわざがあるのは、文字を用いない時代から、人間の思考の整理法は進んでいたことを物語る。
 個人の考えをまとめ、整理するに当たっても、人類が歴史の上で行なってきた、ことわざの創作(そうさく)が参考になる。個々の経験、考えたことをそのままの形で記録、保存(ほぞん)しようとすれば、ごたごたしてわずらわしく、片端(かたはし)から消えてしまい、後に残らない。
 一般(いっぱん)化して、なるべく、普遍(ふへん)性の高い形にまとめておくと、同類のものが、あとあとその形とうまく対応して、その形式を強化してくれる。

(外山滋比古(とやましげひこ)著(ちょ)「思考の整理学」)
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a 長文 2.3週 he2
 1「一を聞いて十を知る」
 十のうちの一を聞いただけで全体を知る。つまり、賢い(かしこ )ことを意味している。まるで日本の格言のようになってしまっているが、じつは「論語(ろんご)」に記された言葉である。弟子である顔回の聡明(そうめい)さを、師の孔子(こうし)がそう評したのだ。
 2だが、ぼくはこの言葉こそ、日本文化の性格を端的(たんてき)に言い当てた表現とみなす。と言っても、日本人が無条件に賢い(かしこ )、というわけではない。日本人の発想形式を、この言葉が見事に言い当てている、というのである。どのように?
 3日本人は多弁や説明を嫌う(きら )。日本の詩を代表する俳句(はいく)をみれば、それがよくわかろう。たった十七文字で詩的世界を表現しよう、などという文学の形は、世界のどこを探し(さが )てもない。このような形式が成立するところに、「一を聞いて十を知る」日本的性格が遺憾(いかん)なく示されているではないか。
 4日本的風土からもっとも遠いのは、おそらく砂漠(さばく)地帯だろう。湿潤(しつじゅん)で四季に恵まれ(めぐ  )た日本とは正反対の乾き(かわ )きった広大な砂(すな)の世界。ぼくは、その砂漠(さばく)へ何度となく足を踏み入れ(ふ い )た。そして、その都度、あらためて日本的風土を強く意識することになった。
 5ある夏。オアシスでの午後のこと。真昼の、悪魔(あくま)のような太陽を避け(さ )て、わずかなナツメ椰子(やし)の木陰(こかげ)に身を寄せて横になった。 ぼくは退屈(たいくつ)しのぎに、日本から持ってきた文庫本のページを繰っ(く )ていた。そんなぼくの姿(すがた)をめざとく見つけて、トゥアレグ人がやってきた。6彼ら(かれ )も時間をもてあましていたのである。
「それは何だ? コーランか」と、そのうちの一人が聞いた。
「いや、日本の、有名な詩人の詩集だよ」と、ぼくは答えた。ぼくが手にしていたのは「芭蕉(ばしょう)俳句(はいく)集」だったのである。7日本とまったくちがった風土で、日本を感じさせるものを読むのが、ぼく流の旅の仕方なのだ。
「ほう、どんな詩かね」と、もう一人が聞いた。
 彼ら(かれ )はフランス語と片言(かたこと)の英語をしゃべる。ぼくは弱った。8が、無理をして「古池や蛙(かわず)飛びこむ水のおと」を、なんとか訳し(やく )
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てやった。みな、うなずいた。どうやら通じたのだ。
 しかし、そのあとがいけなかった。というのは、「それで?」と目を輝か(かがや )せて、彼ら(かれ )はつづきを待っていたからである。
9「それだけさ」と、ぼくは言った。だが、彼ら(かれ )は納得(なっとく)しない。蛙(かえる)が水に飛び込ん(と こ )で水音がした、ということは了解(りょうかい)したのだが、彼ら(かれ )にしてみれば、それはたんなる事実にすぎず、詩などとは、とうてい受けとれないからである。0(中略)
 なにも、サハラの奥(おく)だけではあるまい。たぶん、世界中どこへいっても、こうした芭蕉(ばしょう)の句は同じような反応を引き起こすことだろう。なぜなら、ほとんどの民族は、十の説明から一つのものを導き出す、というのが普通(ふつう)なのだから。(中略)
 これは俳句(はいく)にかぎったことではない。日本的会話、日本的論議(ろんぎ)、すべてにわたって言えることだ。そこで、日本人は一を言って、相手に十の理解を求めることになる。
 だが、世界は、こうした日本的な直感的思考とは、ほど遠いところにある。それなのに、グローバル・コミュニケーション時代のいまに至っ(いた )てもなお、日本人は直感形式のコミュニケーションですませようとしてしまう。
 重ねて言うが、西欧(せいおう)はじめ、日本以外の文化圏(けん)では、「一を聞いて十を知る」ではなく、「十を聞いて一を知る」のである。それは、理解力が足りない、ということではない。人間同士の関係において、それだけ「十分な説明」が重要視(し)されている、ということなのだ。
 言葉をつくして、自分の考えを相手に理解させ、相手からも十分な言葉によって情報を得る。それが日本以外の、世界のルールである。この点で、日本はたしかに「異質(いしつ)」だと言える。では、どうすべきか。
 日本人が説明上手になるしかない。いままで一ですませてきたものを、十の言葉で説明して相手に理解させることだ。言葉の壁(かべ)は、こうした文化的背景(はいけい)の違い(ちが )にある。だから、ぼくたちがどれだけそうした差異(さい)を自覚して相手に接するか、ということにつきよう。
(森本哲郎(てつろう)『この言葉!』)
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a 長文 2.4週 he2
 1私(わたし)が作曲家として携わっ(たずさ  )ているのは西洋音楽です。いわゆるクラシック音楽と呼ば(よ )れ、皆さん(みな  )もご存知( ぞんじ)であろうバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ショパン、ブラームス、ワーグナー、ドビュッシー、と続いてきた伝統があります。2私(わたし)はその線上に乗って、現代において作曲をしているわけです。クラシック音楽というと今や音楽の一ジャンルになっていますが、そもそもはヨーロッパにおいて、特に教会を中心として発達してきた、ある意味では非常にローカルな音楽なのです。3西洋という一地域(ちいき)における民族音楽とも言えます。
 とはいえ現在、西洋音楽はグローバルなものとして広まっています。なぜここまで世界的な音楽として成功したかというと、要因の一つには、五線紙というものに機能的に記録する形式を獲得(かくとく)したことが大きく働いています。4「楽譜(がくふ)を書く」という大原則が根本にあったために、数百年前の作品も残っているのです。これを楽譜(がくふ)中心主義と言います。
 たとえばこんな話があります。日本では音楽そのものを「ミュージック」と訳し(やく )ていますが、西洋においてミュージックと言うと、まず頭の中にイメージするのは楽譜(がくふ)なのです。5辞書を引いてみるとわかると思います。欧米(おうべい)に行って、オーケストラや室内楽といった創作(そうさく)する現場へ行くと、
「俺(おれ)のミュージック、どこかへいってしまったぞ。お前、今日ミュージック貸してよ」
といったふうに、日常の会話の中では「楽譜(がくふ)」という意味でミュージックという言葉が使われています。
 6つまり、西洋音楽の存在(そんざい)を裏づける(うら   )もっとも重要な要素として、まず楽譜(がくふ)(ミュージック)があるということです。
 西洋音楽を楽譜(がくふ)中心主義という大原則のもとに、いくつかの要素に分けて分析(ぶんせき)してみましょう。7まず楽譜(がくふ)が中心にあって、それを音(サウンド)に変換(へんかん)する人がいる。演奏(えんそう)(パフォーマンス)する、演奏(えんそう)家です。さらにその演奏(えんそう)を聴取(ちょうしゅ)(リスニング)する人、
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聴衆(ちょうしゅう)がいます。以上は楽譜(がくふ)から生み出される要素でした。
 8一方で、楽譜(がくふ)からさかのぼるものもあります。いわば上流の部分には、その楽譜(がくふ)を生み出す過程があります。その楽譜(がくふ)を書く人の内にある何らかの音楽的要求、まずは欲求(よっきゅう)と言ってもいいのかもしれませんが、そこから音楽が始まります。
 9つまり音楽によって何かを表現したいという自己(じこ)表現欲求(よっきゅう)があって、それを自分の外部に、楽譜(がくふ)という形式で、その音楽的要求(リクワィアメント)を固定する過程があるわけです。もうおわかりと思いますが、これが作曲(コンポジション)です。
 0以上の三つの過程が「作曲→演奏(えんそう)→聴取(ちょうしゅ)」と連続した図式(スキーマ)によって西洋音楽は成立しています。私(わたし)は作曲家ですから、最も上流の部分で自分の表現したいものがあり、それを楽譜(がくふ)に固定する立場です。演奏(えんそう)家がそれを音にして、聴衆(ちょうしゅう)がそれを聴く(き )。このような創造(そうぞう)過程によって音楽が成り立っているわけです。
 この図式は、建築とよく似ています。家を建てるプロセスを考えてみると分かりやすいかもしれません。建築家がまず設計図面を書く、大工さんがそれを建物にする、そしてそこに住む人がいる、というスキーマです。

 (茂木(もぎ)健一郎(けんいちろう)/江村(えむら)哲二(てつじ)『音楽を「考える」』(ちくまプリマー新書))
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 1本について語られる言葉のおおくには、少なからぬうそがあります。だれもが本についてはずいぶんとうそをつきます。忘れ(わす )られない本があるというようなことを言います。一度読んだら忘れ(わす )られない、一生心にのこる、というほめ言葉をつかいます。2こんないんちきな話はありません。人間は忘れ(わす )ます。だれだろうと、読んだ本をかたっぱしから忘れ(わす )てゆく。中身をぜんぶ忘れる(わす  )。読んでしばらく経ってから、これは読んだっけかなあというような本のほうがずっとたくさんあるはずです。
 3本の文化をなりたたせてきたのは、じつは、この忘れる(わす  )ちからです。忘れ(わす )られない本というものはありません。読んだら忘れ(わす )てしまえるというのが、本のもっているもっとも優れ(すぐ )たちからです。べつに人間が呆け(ぼ )るからではないのです。4読んでも忘れる(わす  )。忘れる(わす  )がゆえにもう一回読むことができる。そのように再読できるというのが本のもっているちからです。
 ですから、再読することができる、本は読んでも忘れる(わす  )ことができる、忘れ(わす )たらもう一回読めばいいという文化なのです。5また忘れ(わす )たらさらにもう一回読めばいい。本というのは読み終わったら終わりではないのです。図書館という大きな建物があって、図書館には本があるのは、一回読んだらあとは捨てる(す  )ためにあるわけではありません。6読んでも読んでも忘れる(わす  )人間のために取っておくしかないから、図書館は必要なのです。
 そうすると、本の文化というものを自分のなかに新鮮(しんせん)にたもってゆくために、つねに必要なことは、そういう再読のチャンスを自分で自分にあたえてやる、ということです。7あの本をまた読もうかなと思いだしたときに、読む。読んで忘れ(わす )た本に再読のチャンスを自分であたえることで、読書という経験を、自分のなかで、絶えず新しい経験にしてゆくことができる。
 正月がくるたび、ある本を読むと決める。8それだけでも、心の置きどころができるのが、本です。たとえば、教会というのは、聖書(せいしょ)という本のある場所のことです。教会に行って、聖書(せいしょ)を開いて、読む。毎回読む。何度もまた読む。毎日曜日、教会に行って、何度も何度も読んだ聖書(せいしょ)をまた開いて読んでゆく。9再読という習
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慣がもっとも大切な行為(こうい)として、信仰(しんこう)のなかにたもたれています。
 再読は、忘却(ぼうきゃく)とのたたかい方でもあれば、必要な言葉を自分にとりもどす方法でもあるのです。0本の文化を自分のものにできるかどうかの重要な分かれ目は、その再読のチャンスを自分のなかに、生活のなかに、日常のなかに、自分の習慣として、人生の習慣としてそれをつくってゆくことができるかどうかだと思うのです。
 生まれたところから離れ(はな )て暮らし(く  )て、そのあと過ごしたところの方がずっと長くなっても、生まれたところに対して、ずっと故郷(こきょう)という愛着をもちつづけるように、親しんだ本を再読するときには、そこに帰郷(ききょう)したような感覚をもちます。たとえまったく覚えていなくても、しかしこれは自分が呼吸(こきゅう)した空気であるということを、よみがえらせてくれる本があります。そういう本の記憶(きおく)をどれだけ自分のなかにもっているかいないかで、自分の時間のゆたかさはまるで変わってきます。
 本の文化は、技術の文化のように、新しさや最先端(さいせんたん)がすべてではありません。今ある時間にむきあえるもう一つの言葉をもつことができなければ、そのもう一つの言葉の側から今という時間を新しく読みなおしてゆくということはむずかしいし、そのためにたずねられなければならないのは、もう一つの言葉をもつ、自分にとっての友人としての本という、本のあり方です。どの本がよい、というのではなく、本が自分の友人としてそこにあるというあり方を、自分たちの時間のなかにつくってゆく方法を育んでゆくということが、今、わたしたちにはとても大事ではないでしょうか。

(長田弘(ひろし)『読書からはじまる』)
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 1あまのじゃくな人が嫌わ(きら )れるのは、みんなと歩調を合わせないので、なにかと足手まといになるからです。人間は一人で生きているのではなく、他人とともに生きるようにつくられているのです。ところが、一人ひとりの人間はあらゆる点で違い(ちが )ます。2生まれつきの差もありますが、ものの見え方や音の聞こえ方も経験によって違っ(ちが )てくるように、後天的につくられる脳(のう)機能の差はさらに大きいのです。その違い(ちが )がいわば個性ということになります。個性というと、先天的な差を連想する人もいるので、個人差という方が誤解(ごかい)が少ないでしょう。3単なる感覚でさえも一人ひとりが違う(ちが )のですから、価値(かち)観やものの考え方が違う(ちが )のも当然です。
 このように、一人ひとりが違う(ちが )のですが、その違い(ちが )をお互い( たが )に主張し合えば、誰(だれ)もがあまのじゃくになってしまいます。そこで、人間同士の間には一種のなれあい現象が必要になってきます。4つまり相手と意見が違っ(ちが )ても、すぐに反論(はんろん)するのではなく、一応は聞いておいて、自分の意見も修正し、相手の考え方もおだやかに改めてもらえるように工夫します。お互い( たが )に妥協(だきょう)するということにもなります。
 5たとえば、ある料理を食べたときに、相手が「さすがにホンモノの味だ」といったとしても、自分にはそうも思えないというようなことはよくあります。しかし、それを口にすることはせずに一応は相槌(あいづち)を打って、味わい直してみるのがふつうでしょう。それでその場はなごやかに過ごせるし、自分の味覚が進歩することにもなります。
 6このように、他人と歩調をそろえなければならないときには、誰(だれ)もがひとりでになれあうのがふつうです。従って(したが  )、あまのじゃくになるひとつの原因は、そこにいる人と歩調をそろえるつもりがないために、自分の意見をそのまま主張するということです。7誰(だれ)に対してもあまのじゃくになるとしたら、その人はできるだけ自分だけで生きてゆこうとする人です。実際はそんなことは無理であっても、そういう姿勢(しせい)をとろうとするわけで、どこかで人間嫌い(ぎら )になる原因があったのでしょう。
 (中略)
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 8動物であれば、吠え(ほ )たり、さえずったりして、自分の存在(そんざい)を周囲に訴える(うった  )ところを、なにかと他人と違う(ちが )意見を主張することによって自己(じこ)顕示(けんじ)するというあまのじゃくもいます。
 9つまり、あまのじゃくにはいろいろの原因があるわけですが、原因はなにであれ、それが集団の歩調を乱す(みだ )という意味では迷惑(めいわく)なことです。あまのじゃくが仁王(におう)様にふみつけられるはめになるのはそのためでしょう。特に、日本人は自他の一体性が強いので、あまのじゃくを嫌う(きら )ようです。
 0しかし、なれあいや妥協(だきょう)も度を過ごすと、自分独自の考えがなくなり、個性が薄れ(うす )てしまいます。特に、創造(そうぞう)的な活動を必要とする場合は、それではまずいということになります。「逆転の発想」ということばもあるように、天動説が支配的な状況(じょうきょう)の中で、地球が動いているのではないか、と考えるような態度が大きな発見につながってゆきます。創造(そうぞう)性の強い人の中には「変人」といわれる人が少なくありません。部分的にはあまのじゃくとされることも多いでしょう。つまり、他人と歩調をそろえる心得も持ちながら、自分の意見をしっかり持っているというバランスが必要なのです。

(『ヒトはなぜ夢を見るのか』千葉康則)
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 1考えることが得意でない風に見える人々がいる。たとえばほとんど口をきかず、毎日にこにこと店でトンカツばかり揚げ(あ )ているようなおやじは、そう見えるかもしれない。しかし、このおやじのトンカツがとびきりうまいとしたら、この人ほどものを考えている人間は少ないかも知れない。2とりあえずは、そう仮定しておく必要がある。私(わたし)たちは、こういう人の存在(そんざい)に実に鈍感(どんかん)になった。鈍感(どんかん)になって、いつもひりひりとした自負心、嫉妬(しっと)、焦燥(しょうそう)、退屈(たいくつ)にさいなまれるようになった。3誰(だれ)もかれもが、得体の知れないこの時代にともかくも遅れ(おく )まいとし、遅れ(おく )ていない外見を作ることに忙しく(いそが  )なった。それで私(わたし)たちは、一体何を考えているのだろう。
 トンカツ屋のおやじは、豚肉(ぶたにく)の性質について、油の温度やパン粉の付き具合についてずいぶん考えているに違い(ちが )ない。4いや、この人のトンカツが、こうまでうまいからには、その考えは常人の及ば(およ )ない驚く(おどろ )べき地点に達している可能性が大いにある。このことを怖(おそ)れよ。この怖(おそ)れこそ、大事なものである。
 むろん、私(わたし)はうまいトンカツの重要性について述べているのではない。5では、何の重要性について述べているのか。それを簡単(かんたん)に言うことは、どうも大変難しい(むずか  )。けれども、大事なことはみな、このように難しい(むずか  )のである。だから、トンカツ屋のおやじは黙っ(だま )てトンカツを揚げ(あ )ている。6彼(かれ)は学問を軽んじているのでも、思想を軽蔑(けいべつ)しているのでもない。ただ、彼(かれ)は自分の仕事が出会ういろいろなものの抵抗(ていこう)で、それらの抵抗(ていこう)を克服(こくふく)する工夫で、いつも心をいっぱいに満たしているから、余計なことを考える暇(ひま)も必要もないのである。7こういう男のトンカツが、いつのまにか万人の舌を説得している、このことにこそ人間の大事があると、私(わたし)は思っているに過ぎない。
 ここに中学生の男の子がいるとしよう。この子は、学校の勉強以外、学ぶということを一切したことがない。8したがって、トンカツ屋のおやじを怖(おそ)れるだけの知恵(ちえ)がない。だから、怖(おそ)れ気もなくこ
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う尋ねる(たず  )。おじさん、なぜ人を殺してはいけないの? おやじは、まずこんな質問には耳を貸さないだろう。じゃまだから、あっちに行ってろと言うだけだろう。9それでおしまいである。何の騒ぎ(さわ )も起こらない。この子が中学を出て、高校などには行かず、トンカツ屋のおやじのところに見習いに入ったとしよう。そこで、同じ質問をする。お前は見込み(みこ )がないから、ほかで仕事を探せ(さが )と言われるだろう。0しかし、このおやじがもっと親切なら、見習い坊主(ぼうず)は張り倒さ(は たお )れる。それでおしまいである。
 怖(おそ)れのないところに、学ぶという行為(こうい)は成り立たない。遊びながら楽しく学ぶやり方は、元来幼稚園(ようちえん)の発明だが、今の日本の学校はそれが大学まで普及(ふきゅう)し尽くし(つ  )てしまった。日本だけではなかろう。二十歳(はたち)を過ぎてもまだ遊んでいる人間が数えきれずいる国では、やがてそういうことになる。遊ぶことと学ぶこととが、どう違う(ちが )のかわからない。子供(こども)たちは何も怖く(こわ )ないから、勝手に教室を歩き回るようになる。
 怖(おそ)れることができるには、自分よりけた外れに大きなものを察知する知恵(ちえ)がいる。ところが、このけた外れに大きなものは、けたが外れているが故に、寝そべっ(ね   )ている人間の眼には見えにくい。見習い坊主(ぼうず)もまた、パン粉を付けてみるしかない。それは、初めちっとも面白い仕事ではないだろう。怖(おそ)れる知恵(ちえ)がまだ育っていない者に、心底面白い仕事などあるわけがない。だが、知恵(ちえ)は育つのだ。豚肉(ぶたにく)やパン粉があり、怖い(こわ )おやじがいる限りは。

(前田英樹(ひでき)『倫理(りんり)という力』)
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 1私(わたし)はゲオルク・ジンメルという約百年前ドイツで活躍(かつやく)した社会学者の研究を専門(せんもん)にしていて、数年前に『ジンメル・つながりの哲学(てつがく)』(NHKブックス)という本を書きました。その作業中、まさに百年前にドイツで生きたジンメルという人間と、「どうなの? これどうなの?」という会話をしている実感があったのです。2たしかにそこまでのめり込む(   こ )には相当な集中力を要します。でも、真剣(しんけん)にある程度耳を傾けよ(かたむ  )うとすれば、「いま・ここ」にはいない筆者と、いつのまにか直接対話しているような感覚を味わえることもあるのです。
 3みなさんでしたら、大好きな小説家、詩人、歴史上の人物でもいいでしょう。本の世界に没頭(ぼっとう)していくと、文字を通して、書き手や登場人物の肉声がなんとなく聞こえてくるような感覚、コミュニケーションがだんだん双方向(そうほうこう)になっていく感覚が生じてくることがあるのです。
 4もちろん本を読めばいつでも、というわけにはいきません。でも、私(わたし)が『つながりの哲学(てつがく)』を書いていたときは、「ジンメルだったら今の日本をどういうふうに見るんだろうな」というようなことを、ずっと考えながら執筆(しっぴつ)していたので、5なんとなく彼(かれ)がいつのまにか今の時代にタイムスリップしてきて、今の日本を見ながら私(わたし)に語りかけてくれているような気分になっていました。
 コミュニケーションの本質って、じつはこういうところにあるんじゃないかと思います。
 6具体的な人との関係でも、漫然と(まんぜん )言葉を交わしているだけではだめなのです。
 ちょっと心地よくなると、すぐその場を放棄(ほうき)できてしまう言葉がいくつも準備されていて、自分の感覚的なノリとかリズムとか、7そういうものの心地よさだけで親しさを確認(かくにん)していると、やはり関係は本当の意味で深まっていきません。料理でいうと「苦み」のない、ただ甘い(あま )だけの料理を求めてしまう感じですね。
 ノリとリズムだけの親しさには、深みも味わいもありません。8そればかりか、友だちは多いのに寂しい(さび  )とか、いつ裏切ら(うらぎ )れるかわからないとか、ノリがちょっと合わなくなってきたらもうダメだと
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か、そういう希薄(きはく)で不安定な関係しか構築できなくなるのではないかと思います。
 9読書のよさは、一つには今ここにいない人と対話をして、情緒(じょうちょ)の深度を深めていけること。しかも二つ目として、くり返し読み直したりすることによって自分が納得(なっとく)するまで時間をかけ理解を深めることができること(実際の会話では「えっ、今なんて言ったの。もう一度言ってみて」、なんて何度も聞きなおすことはできませんものね)。0あと三つ目としては、多くの本を読むということは、いろんな人が語ってくれるわけですから、小説にしても評論(ひょうろん)にしても、「あ、こんな考え方がある」「ナルホド、そういう感じ方があるのか」という発見を自分の中に取り込める(と こ  )ということ。実際のつき合いではそんなにいろいろなキャラクターの人とコミュニケーションすると「人疲れ(づか )」するころがありますよね。でも本を読む上では作者でも登場人物でも、いろいろな性格の人と比較的(ひかくてき)楽に対話することができます。その結果、少しずつ自分の感じ方や考え方を作り変えていくことができるわけです。そういう体験を少しずつ積み重ねることは、多少シンドイ面もありますが、慣れてくると、じつはとても楽しい作業になるのです。

 (菅野仁()『友だち幻想(げんそう) 人と人の「つながり」を考える』(ちくまプリマー新書)
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