a 長文 1.3週 he2
 物の命と人間の心が結び合って一つになる。の強い人には友達ができがたいように、おたがいの心が結び合ってこそ友人になるのである。河井かわい寛次郎かんじろう先生が、物を自分や友人に見立てて「物を買って来る、自分を買って来る」とか、物を親しい友人として「自分の家に連れて来る」というように表現されていたことを思い出すのである。そのように考えると、美しい物は何か人の心に与えるあた  ものを持っている。したがって、物と心が結び合う時、自分の水準が高められる。それゆえ、美を味得する道は人によって違うちが のである。一般いっぱん的に、生まれながら情操じょうそう的な人と理知的な人があるように、だれでも同じようにはいかないが、情操じょうそう的な人ほど友人が多くできるように、美しい物との出会いは多い。そういう人ほど直感力が強いといえる。
 さて、この直感力を強くする道は、修業によらなければならないが、やなぎ先生は参考として役に立つ二つの実際的方法を示唆しさして、練習の資にきょうしたいと言われている。一つは標準法で、他は擬人ぎじん法である。物は程度の差はあっても、いろいろな条件によってそれぞれ異なっこと  ているもので、作った人の性質、境遇きょうぐう、意志、取りあつかい方などが直接できあがった物に影響えいきょうしてくる。これは人間性の反映はんえいである。それゆえ人間と同じように見ていくことはその理解を早める一つの道である。例えば、工芸品の一つを例として取り上げると、色とか模様もようとかデザインなどが派手はでにすぎていたら、ぜいたくな人間の性質と同じように見えるだろう。ぜいたくという言葉は道徳の世界から見れば、必ずしもぜんではないし、華美かびというものと真の美とはどうしても反発する傾向けいこうがある。
 今度は別に装飾そうしょくはなくても、落着いた形、確実な材料や機能、おだやかな色調などを見る時、かざり気のない実直な人のほうがどれだけ人に信頼しんらいされるかということに通じる。物としても、そのような人に通じるものがあることを考えないわけにはいかない。物としてもそのような美しさを持っている物があるといえよう。また細々とやせて、きゃしゃな形を見ると、やはりそれは健康体とはいえない。(中略)
 また例えばそまつな材料や、粗雑そざつな仕事でありながら、上っ面ば
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かりよく見せかけていても、その仕事やそれを作る人間のようなうそのある物とは、共に暮すくら 気持にはなれないのが普通ふつうである。どんな人間が信用できるか、また頼りたよ になるか、友達として長く付き合えるかというように、物にも一様の道徳観がある。一時はだまされても、不道徳な人や物は、はっきりわかってしまえば、どうなるか考えなくてもわかる。これを見ぬく見識は、真に美しい物を常に求めている者が持てるのである。
 また、気品のある物、品格のある物、着実な物、健康な物、温かみのある物、うるおいのある物、深味のある物、静けさのある物、こういう性質のある物は、美しさに結びつきやすいえんを持つといえる。ただ注意すべきは人間の世界にごまかしが多過ぎるように、物の場合にもよくあることである。これは巧みたく 技巧ぎこうをこらした物、器用さで作った物など、その作為さくいにごまかされて、それを美しさと誤認ごにんする場合が多い。技巧ぎこうと美、器用と美の混同される場合も多いが、これらと一緒いっしょ暮しくら ている間には、いつかボロが出て来て必ずいやになるものである。これは、結局はごまかし物ということになる。これに反して不器用でも実直な物、田舎くさくても、素朴そぼくでも着実な物の価値かち忘れわす てはいけない。
 愛され、尊敬そんけいされる人間と同じで、それを早く見ぬくことが大切である。このように、見かけの美しさと真の美しさとはちがうもので、これを人間に例えて考える判定の仕方が擬人ぎじん法である。

(池田三四郎さんしろう『美しさについて』)
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