a 長文 2.3週 he2
 「一を聞いて十を知る」
 十のうちの一を聞いただけで全体を知る。つまり、賢いかしこ ことを意味している。まるで日本の格言のようになってしまっているが、じつは「論語ろんご」に記された言葉である。弟子である顔回の聡明そうめいさを、師の孔子こうしがそう評したのだ。
 だが、ぼくはこの言葉こそ、日本文化の性格を端的たんてきに言い当てた表現とみなす。と言っても、日本人が無条件に賢いかしこ 、というわけではない。日本人の発想形式を、この言葉が見事に言い当てている、というのである。どのように?
 日本人は多弁や説明を嫌うきら 。日本の詩を代表する俳句はいくをみれば、それがよくわかろう。たった十七文字で詩的世界を表現しよう、などという文学の形は、世界のどこを探しさが てもない。このような形式が成立するところに、「一を聞いて十を知る」日本的性格が遺憾いかんなく示されているではないか。
 日本的風土からもっとも遠いのは、おそらく砂漠さばく地帯だろう。湿潤しつじゅんで四季に恵まれめぐ  た日本とは正反対の乾きかわ きった広大なすなの世界。ぼくは、その砂漠さばくへ何度となく足を踏み入れふ い た。そして、その都度、あらためて日本的風土を強く意識することになった。
 ある夏。オアシスでの午後のこと。真昼の、悪魔あくまのような太陽を避けさ て、わずかなナツメ椰子やし木陰こかげに身を寄せて横になった。 ぼくは退屈たいくつしのぎに、日本から持ってきた文庫本のページを繰っく ていた。そんなぼくの姿すがたをめざとく見つけて、トゥアレグ人がやってきた。彼らかれ も時間をもてあましていたのである。
「それは何だ? コーランか」と、そのうちの一人が聞いた。
「いや、日本の、有名な詩人の詩集だよ」と、ぼくは答えた。ぼくが手にしていたのは「芭蕉ばしょう俳句はいく集」だったのである。日本とまったくちがった風土で、日本を感じさせるものを読むのが、ぼく流の旅の仕方なのだ。
「ほう、どんな詩かね」と、もう一人が聞いた。
 彼らかれ はフランス語と片言かたことの英語をしゃべる。ぼくは弱った。が、無理をして「古池や(かわず飛びこむ水のおと」を、なんとか訳しやく 
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てやった。みな、うなずいた。どうやら通じたのだ。
 しかし、そのあとがいけなかった。というのは、「それで?」と目を輝かかがや せて、彼らかれ はつづきを待っていたからである。
「それだけさ」と、ぼくは言った。だが、彼らかれ 納得なっとくしない。かえるが水に飛び込んと こ で水音がした、ということは了解りょうかいしたのだが、彼らかれ にしてみれば、それはたんなる事実にすぎず、詩などとは、とうてい受けとれないからである。(中略)
 なにも、サハラのおくだけではあるまい。たぶん、世界中どこへいっても、こうした芭蕉ばしょうの句は同じような反応を引き起こすことだろう。なぜなら、ほとんどの民族は、十の説明から一つのものを導き出す、というのが普通ふつうなのだから。(中略)
 これは俳句はいくにかぎったことではない。日本的会話、日本的論議ろんぎ、すべてにわたって言えることだ。そこで、日本人は一を言って、相手に十の理解を求めることになる。
 だが、世界は、こうした日本的な直感的思考とは、ほど遠いところにある。それなのに、グローバル・コミュニケーション時代のいまに至っいた てもなお、日本人は直感形式のコミュニケーションですませようとしてしまう。
 重ねて言うが、西欧せいおうはじめ、日本以外の文化けんでは、「一を聞いて十を知る」ではなく、「十を聞いて一を知る」のである。それは、理解力が足りない、ということではない。人間同士の関係において、それだけ「十分な説明」が重要されている、ということなのだ。
 言葉をつくして、自分の考えを相手に理解させ、相手からも十分な言葉によって情報を得る。それが日本以外の、世界のルールである。この点で、日本はたしかに「異質いしつ」だと言える。では、どうすべきか。
 日本人が説明上手になるしかない。いままで一ですませてきたものを、十の言葉で説明して相手に理解させることだ。言葉のかべは、こうした文化的背景はいけい違いちが にある。だから、ぼくたちがどれだけそうした差異さいを自覚して相手に接するか、ということにつきよう。
(森本哲郎てつろう『この言葉!』)
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