a 長文 3.1週 he2
 本について語られる言葉のおおくには、少なからぬうそがあります。だれもが本についてはずいぶんとうそをつきます。忘れわす られない本があるというようなことを言います。一度読んだら忘れわす られない、一生心にのこる、というほめ言葉をつかいます。こんないんちきな話はありません。人間は忘れわす ます。だれだろうと、読んだ本をかたっぱしから忘れわす てゆく。中身をぜんぶ忘れるわす  。読んでしばらく経ってから、これは読んだっけかなあというような本のほうがずっとたくさんあるはずです。
 本の文化をなりたたせてきたのは、じつは、この忘れるわす  ちからです。忘れわす られない本というものはありません。読んだら忘れわす てしまえるというのが、本のもっているもっとも優れすぐ たちからです。べつに人間が呆けぼ るからではないのです。読んでも忘れるわす  忘れるわす  がゆえにもう一回読むことができる。そのように再読できるというのが本のもっているちからです。
 ですから、再読することができる、本は読んでも忘れるわす  ことができる、忘れわす たらもう一回読めばいいという文化なのです。また忘れわす たらさらにもう一回読めばいい。本というのは読み終わったら終わりではないのです。図書館という大きな建物があって、図書館には本があるのは、一回読んだらあとは捨てるす  ためにあるわけではありません。読んでも読んでも忘れるわす  人間のために取っておくしかないから、図書館は必要なのです。
 そうすると、本の文化というものを自分のなかに新鮮しんせんにたもってゆくために、つねに必要なことは、そういう再読のチャンスを自分で自分にあたえてやる、ということです。あの本をまた読もうかなと思いだしたときに、読む。読んで忘れわす た本に再読のチャンスを自分であたえることで、読書という経験を、自分のなかで、絶えず新しい経験にしてゆくことができる。
 正月がくるたび、ある本を読むと決める。それだけでも、心の置きどころができるのが、本です。たとえば、教会というのは、聖書せいしょという本のある場所のことです。教会に行って、聖書せいしょを開いて、読む。毎回読む。何度もまた読む。毎日曜日、教会に行って、何度も何度も読んだ聖書せいしょをまた開いて読んでゆく。再読という習
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慣がもっとも大切な行為こういとして、信仰しんこうのなかにたもたれています。
 再読は、忘却ぼうきゃくとのたたかい方でもあれば、必要な言葉を自分にとりもどす方法でもあるのです。本の文化を自分のものにできるかどうかの重要な分かれ目は、その再読のチャンスを自分のなかに、生活のなかに、日常のなかに、自分の習慣として、人生の習慣としてそれをつくってゆくことができるかどうかだと思うのです。
 生まれたところから離れはな 暮らしく  て、そのあと過ごしたところの方がずっと長くなっても、生まれたところに対して、ずっと故郷こきょうという愛着をもちつづけるように、親しんだ本を再読するときには、そこに帰郷ききょうしたような感覚をもちます。たとえまったく覚えていなくても、しかしこれは自分が呼吸こきゅうした空気であるということを、よみがえらせてくれる本があります。そういう本の記憶きおくをどれだけ自分のなかにもっているかいないかで、自分の時間のゆたかさはまるで変わってきます。
 本の文化は、技術の文化のように、新しさや最先端さいせんたんがすべてではありません。今ある時間にむきあえるもう一つの言葉をもつことができなければ、そのもう一つの言葉の側から今という時間を新しく読みなおしてゆくということはむずかしいし、そのためにたずねられなければならないのは、もう一つの言葉をもつ、自分にとっての友人としての本という、本のあり方です。どの本がよい、というのではなく、本が自分の友人としてそこにあるというあり方を、自分たちの時間のなかにつくってゆく方法を育んでゆくということが、今、わたしたちにはとても大事ではないでしょうか。

(長田ひろし『読書からはじまる』)
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