a 長文 3.4週 he2
 わたしはゲオルク・ジンメルという約百年前ドイツで活躍かつやくした社会学者の研究を専門せんもんにしていて、数年前に『ジンメル・つながりの哲学てつがく』(NHKブックス)という本を書きました。その作業中、まさに百年前にドイツで生きたジンメルという人間と、「どうなの? これどうなの?」という会話をしている実感があったのです。たしかにそこまでのめり込む   こ には相当な集中力を要します。でも、真剣しんけんにある程度耳を傾けよかたむ  うとすれば、「いま・ここ」にはいない筆者と、いつのまにか直接対話しているような感覚を味わえることもあるのです。
 みなさんでしたら、大好きな小説家、詩人、歴史上の人物でもいいでしょう。本の世界に没頭ぼっとうしていくと、文字を通して、書き手や登場人物の肉声がなんとなく聞こえてくるような感覚、コミュニケーションがだんだん双方向そうほうこうになっていく感覚が生じてくることがあるのです。
 もちろん本を読めばいつでも、というわけにはいきません。でも、わたしが『つながりの哲学てつがく』を書いていたときは、「ジンメルだったら今の日本をどういうふうに見るんだろうな」というようなことを、ずっと考えながら執筆しっぴつしていたので、なんとなくかれがいつのまにか今の時代にタイムスリップしてきて、今の日本を見ながらわたしに語りかけてくれているような気分になっていました。
 コミュニケーションの本質って、じつはこういうところにあるんじゃないかと思います。
 具体的な人との関係でも、漫然とまんぜん 言葉を交わしているだけではだめなのです。
 ちょっと心地よくなると、すぐその場を放棄ほうきできてしまう言葉がいくつも準備されていて、自分の感覚的なノリとかリズムとか、そういうものの心地よさだけで親しさを確認かくにんしていると、やはり関係は本当の意味で深まっていきません。料理でいうと「苦み」のない、ただ甘いあま だけの料理を求めてしまう感じですね。
 ノリとリズムだけの親しさには、深みも味わいもありません。そればかりか、友だちは多いのに寂しいさび  とか、いつ裏切らうらぎ れるかわからないとか、ノリがちょっと合わなくなってきたらもうダメだと
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

か、そういう希薄きはくで不安定な関係しか構築できなくなるのではないかと思います。
 読書のよさは、一つには今ここにいない人と対話をして、情緒じょうちょの深度を深めていけること。しかも二つ目として、くり返し読み直したりすることによって自分が納得なっとくするまで時間をかけ理解を深めることができること(実際の会話では「えっ、今なんて言ったの。もう一度言ってみて」、なんて何度も聞きなおすことはできませんものね)。あと三つ目としては、多くの本を読むということは、いろんな人が語ってくれるわけですから、小説にしても評論ひょうろんにしても、「あ、こんな考え方がある」「ナルホド、そういう感じ方があるのか」という発見を自分の中に取り込めると こ  ということ。実際のつき合いではそんなにいろいろなキャラクターの人とコミュニケーションすると「人疲れづか 」するころがありますよね。でも本を読む上では作者でも登場人物でも、いろいろな性格の人と比較的ひかくてき楽に対話することができます。その結果、少しずつ自分の感じ方や考え方を作り変えていくことができるわけです。そういう体験を少しずつ積み重ねることは、多少シンドイ面もありますが、慣れてくると、じつはとても楽しい作業になるのです。

 (菅野仁『友だち幻想げんそう 人と人の「つながり」を考える』(ちくまプリマー新書)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534