1わたしは四歳のときに小児マヒにかかった。幸い重症ではなかったが、それでも左足にマヒが残っているのでびっこを引いている。わたしを形成した最大の先生はこの足だと思っている。
2そのため、さまざまなことを味わってきたが、わたしに限らず、身障者にとっていちばんの願いはできるなら自分が不具(身体が不自由なこと)であることを、相手が心の底から忘れてくれることである。ごくふつうの人間として扱ってくれることである。
3いつだったか、わたしは電車のなかで青年から席を譲られたことがあった。かれは立上がるとわたしの顔を見ながら、はっきりした声で「おすわりなさい。あなた足が悪いんでしょう」といったのである。4かれの善意、親切はわかったが、わたしはその時、いささか憂うつであった。
反対に一つの席をねらってお互いにダッシュする時がある。これは勝っても負けてもうれしいのである。相手はわたしを一人前の相手と認めているのだから。
5群馬県の高崎に心身障害者のための国立コロニーができるということである。コロニーとは、いわば、障害のために、社会的・職業的に一人だちできない、そういう人間が日々を生きていくための村とでもいうべきものである。
6今の社会の現状では、実際問題として、このようなコロニーはなくてはならないだろう。
そのことは認めた上でのことなのだが、わたしにはひとつの気がかりがある。7それは、この種の構想が社会にとってあまり有用でないものをまとめて「隔離」する、というような気持とどこかで関係がなければいいが、ということである。
それは、おそらくひねくれた見方であろう。8しかし、実際の生活のなかでそのような差別意識が生きていることもまた事実である。精神に障害のない肢体(手足または身体)不自由な者などの場合、そのような厄介者意識・差別意識と出会うことの苦悩はひとしお大きい。
9たとえば社会復帰の不可能なもの、ということであるが、これ
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