a 長文 8.2週 hi2
 いやいやがまんするのではなくて、進んで行なう、これが心地よさの基礎きそである。ところが、砂糖さとう菓子がしは口のなかで溶かしと  さえすれば、ほかに何もしなくともけっこううまいものだから、多くの人々は幸福を同じやり方で味わおうとして、みごとに失敗する。音楽は聞くことだけしかせず、自分では全然歌わないのなら、たいして楽しくはない。だから、ある頭のいい人は、音楽を耳で鑑賞かんしょうするのではなく、のどで味わうのだ、と言った。美しい絵からうける楽しみでさえ、下手でもいいから自分で描いえが てみるとか自分で収集しゅうしゅうするとかしなければ、休息の楽しみであって、熱中の楽しさは味わえない。大切なのは、判断するだけにとどまらず、探究たんきゅうし、征服せいふくすることである。人々は芝居しばいを見に行き、自分でいやになるくらい退屈たいくつする。自分でつくり出すことが必要なのだ。少なくとも自分で演ずることが必要なのだ。演ずることもまたつくり出すことなのだ。わたしは人形しばいのことばかり考えてすごした幸福な数週間のことを思い出す。だが、ことわっておくが、わたしは小刀で木の根に、高利貸だの、兵隊だの、むすめだの、老婆ろうばだのを刻んきざ でいたのである。ほかの連中がそれらの人形に衣装いしょうを着せた。わたしは観客のことなど眼中になかった。批評ひひょうなどというとるに足らぬ楽しみは観客どもにまかせておいた。いくらかでも自分で考え出したという点では、批判ひはんもまた楽しみではあるのだが。トランプをやっている連中は、たえずなにかを考え出し、勝負の機械的な進行に手を加える。だが、それにしても、ゲームを学ばなければならない。なにごとにおいてもそうだ。幸福になるには、幸福になるなり方を学ばなければならない。
 幸福はいつもわれわれから逃げに てゆくものだ、といわれる。人から与えあた られた幸福を言うのなら、それは正しい。与えあた られた幸福などというものはおよそ存在そんざいしないからである。しかし、自分でつくる幸福は、決して裏切らうらぎ ない。それは学ぶことであり、そして人はたえず学ぶものだ。知れば知るほど学ぶことができるようになる。ラテン語学者の楽しみもそういうものだ。そこにはきりというものがなく、むしろ進んだだけ楽しみが増える。音楽家であることの楽しみも同様である。だからこそ、アリストテレスはつぎのよ
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うな驚くおどろ べきことを言う。真の音楽家とは音楽を楽しむ人であり、真の政治家とは政治を楽しむ人である、と。
「楽しみとは能力のあらわれである」と、かれは言っている。その理論りろんなど忘れわす させてしまう用語の完璧かんぺきさをもつ素晴らしいことばだ。いかなる行動においても、真の進歩のしるしは、人がそこに感じうる楽しみにほかならない。したがって、仕事こそが心を楽しませる唯一ゆいいつのものであり、しかもそれだけでじゅうぶんなのだ。わたしの言う仕事とは、力のあらわれであると同時に、力を生み出す源泉げんせんでもある自由な仕事のことだ。くりかえしていうが、大切なのはがまんすることではなく、行動することである。
 だれでも見たことがあるように、石工たちはゆっくり時間をかけて小さな家をつくる。かれらが一つ一つの石を選んでいる様子を見て欲しいほ  。この楽しみはどんな手仕事にもある。職人はいつでも考え出しては学んでいるからである。ところが、職人が自分のつくった物となんらの関係ももたず、自分の物を所有することもなく、さらに学ぶために使用することもなく、たえず同じことをはじめからくりかえす場合には、きわめていい加減なことになる。機械的な完全さが退屈たいくつをうむことは、もちろん言うには及ぶおよ まい。これに反して、仕事の継続けいぞく、作物が次の作物を約束すること、それが農夫を幸福にする。もちろん自由で自立している農夫のことだ。ところが、たいへんな労苦によってあがなわれるこういう幸福に対してだれもがみんなさわがしく反対する。人から与えあた られた幸福を味わいたいなどというけしからぬ考えがはびこっているからだ。ディオゲネスがいうとおり、苦しみの方がいいのだ。だが、精神はこの矛盾むじゅん背負っせお て行きたがらない。この矛盾むじゅんにうちかつことこそ大切なのだ。

(アラン『幸福ろんそう左近やくより)
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