a 長文 8.3週 hi2
 わたしが考えてみたところでは、自分には生きがいがあるかどうか、とか、生きがいとは何か、などと人が考えるのは、青年期にいろいろな人生問題を悩むなや ときか、またはすっかり年とって心身ともにおとろえ、自分でも生きているのがつらくなり、他人にも迷惑めいわくでないか、さりとて、どうしたらいいか、などと悩むなや ときが多いような気がします。そうでなければ、人生の途上とじょう、何かたいへんつらい目にあったりして、生きて行く望みを失ったときに、ああ、もう自分は生きがいがない、などと思い悩むおも なや ものだろうと思います。つまり、生きがいということばが、ふつうの人の頭に浮かびう  あがってくるのは、まさに生きがいが奪わうば れそうになったり、ある生きがいが失われたりしたときなのだろうと考えられるのです。
 そもそも生きがいということばの意味は何でしょうか。辞書をひいてみると、「生きているだけのねうち」とか「生きている幸福・利益」などと書いてあります。この二つの定義がならべてあるところをみると、この二つはたがいに無関係ではなく、幸福とか利益とかいっても、それは「ああ生きていてよかったなァ」「生きているだけのことがあったなァ」と感じるよろこびの心を内容としているものだろうと思われてきます。ですから生きているだけのねうちといっても、それは自分で自分に向かってみとめるものであって、他人がみとめるものとは限らないといえましょう。
 ここが生きがいについてのたいせつなところだと思います。万人がうらやむような高い地位にのぼっても、ありあまる富を所有しても、スター的存在そんざいになれるほどの美貌びぼうや才能を持っても、本人の心の中で生きるよろこびが感じられなければ、生きがいを持っているとはいえないわけです。
 こうみてくると、生きがいある生涯しょうがいを送るためには、何かしら生きがいを感じやすい心を育て、生きがいの感じられるような生きかたをする必要があるのではないか、と思われてきます。もちろん、人間の心はたえず生きがいを感じるようにはできていないので、一生のうち何べんか、「ああ、生きていてよかったなァ」と感じられるような瞬間しゅんかんがあればありがたいとすべきでしょう。たえず生きがいを感じて喜んでいるというのは、むしろふつうでないのではないかと考えられます。
 さて、こういうことを承知のうえで、生きがいを感じる心とはど
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んな心かと考えてみますと、それは結局、感受性のこまやかな謙虚けんきょな心、何よりも、「感謝を知る心」だろうと思われます。欲深よくふかい、勝気な心の正反対です。感謝を知るというのは、何か特に他人が自分によくしてくれた場合だけでなく、自分の生というものを深くみつめて、どれだけの要素がかさなりあって自分の存在そんざいが可能になったのかを思い、大自然にむかい、ありがとう、と思うことをいっているのです。
 次に、生きがいが感じられるような生きかたとはどんなものかを考えてみましょう。生きがいとは生きているだけのねうちということでしたが、この「ねうち」が、自分にもっともはっきり感じられるときのひとつは、自分の存在そんざいが何かのために、だれかのために必要とされていると自覚されるときでしょう。それも、ただ飾りかざ のようなぐあいに必要とされるのではなく、他人では代用できない任務や責任を負った者として必要とされるときに、一ばん強く意識されるでしょう。
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