a 長文 9.1週 hi2
 『学校の怪談かいだん』という本がかくれたベストセラーと言っていいほど、よく売れているそうである。どこかの教室に幽霊ゆうれいが居た、というようなよくある話が書かれているようだが、これが意外と子どもたちに人気があり、おどろくほどの売れゆきを示していると言う。
 ある幼稚園ようちえんの先生に次のような相談をされたことがある。子どもたちが話をしてくれ、とよくせがむので、むかし話など自分が覚えている話をしてやると、子どもたちは非常に喜ぶ。テレビのアニメなどで、もっとおもしろい話を見ていると思うのだが、先生の話を予想外に喜んで聞く。そして、そのなかで魔女まじょが出てきたりするところなど、こわいところがあると、「こわい」とさけんで耳を手でふさいだり、となりの子どもにしがみついたりしている。これはよくなかったかな、と思っていると、子どもたちが、「先生、あのこわい話をして」とせがむのである。
 先生が疑問ぎもんに思われるのは、「どうして、子どもは『こわい、こわい』とさわぎながら、何度も聞きたがるのでしょう」ということである。そして、そもそも子どもにそれほどこわい話をしていいものだろうか、ということである。子どもたちは何度も同じ話を聞いて、こわいところはもうすでに知っている。そして、それを心待ちしているようにさえ見えるが、そこに話がくると、「キャー」とさけんだりする。何とも不思議な現象だ、と先生はいぶかしがられるのである。
 人間にはいろいろな感情がある。喜怒哀楽きどあいらくなどというが、それはもっとこまかく分けられる。その感情を体験し、自分がそのような感情のなかにいるということを意識するのは、六さいくらいまでの子どもでも可能であり、それを体験することは子どもの情緒じょうちょの発達にとって非常に大切なことである。
 ただ、悲しみや怒りいか などの感情があまりに強いときは、子どもがそれにたえられず、情緒じょうちょの発達というより、むしろ破壊はかい的な結果になってしまう。その上、親としては、子どもに悲しみや恐怖きょうふなどはなるべく味わわせたくない気持ちがあるので、そのような体験をさせないようにする。しかし、このあたりが難しいむずか  ところで、子どもが十分に育ってゆくためには、そのような否定ひてい的な感情を体験することも必要なのである。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 


 子どもの心が自然に流れるかぎり、「こわい」感情体験もしたくなるのは当然である。そのようなマイナスの感情を体験してこそ感情が豊かになってゆくのだ。しかし、マイナスの感情が強くなりすぎると危険きけん性が高くなる。そこで、子どもたちの信頼しんらいする大人にこわい話をしてもらうことは、信頼しんらい関係によってマイナスの感情を消しながら、「こわい」体験ができる──時にはそれを楽しめる──というわけで、これは子どもにとって非常に好都合の状況じょうきょうなのである。したがって、子どもは自分の好きな大人にこわい話をせがむことになる。
 このように考えると、子どもたちにこわい話をしてとせがまれるのは自分が子どもたちに信頼しんらいされていることの証拠しょうこだとわかるし、喜んでそれに応じてやればよい。こんな話は「教訓的」ではないとか、こわい話ならもっとすごいのがテレビでも映画えいがでもあるのに、などと余計なことを考える必要はないのである。これは特に、おじいさん、おばあさんなどが、自分のような「古くさい」話はだめだと勝手にきめてかかっているのに対しても言えることである。古くてもいいから思い切って「おはなし」してみることである。
 子どもたちはこんなわけで「こわい話」を自分たちの好きな大人にしてほしいのだが、そんな機会は急激きゅうげきに少なくなってしまった。そこで、『学校の怪談かいだん』などという本を読んで楽しむより仕方なくなってきたものと思われる。心細い思いで子どもたちに一人で「こわい」体験をさせるのではなく、この際、大人たちはもう少し子どもに「おはなし」する機会をつくるようにしてはどうだろうか。

(河合隼雄はやお「おはなし おはなし」による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534