a 長文 9.2週 hi2
 この数年、おりおりに森を歩いている。
 日本列島で森といえば山のことだが、わたしのは登山ではなくて森あるきだ。頂上ちょうじょうをめざしてひたすら登るという年齢ねんれいではなく、そんな体力もないのだが、山のすそや中腹ちゅうふくの森をゆっくり歩いていると気が安まり心が満ちてくる。
 谷川の石河原で寝そべっね   てみたら若葉わかばのざわめきと水の音と鳥の声につつまれている心地よさに、半日を過ごしてしまい、日暮れひぐ どきになってそのまま帰って来たこともある。紅葉こうようのブナの森を歩いていたら、その前から立ち去りがたい大きな木があちらにもこちらにもあって、そのときも気がつくと半日が過ぎていた。その日予定していた別の森には行かずじまいだった。なにも数多くの森をせっせと歩きまわることはない。訪ねたず た森の数や歩いた距離きょりをだれかと競うわけではないのだから、森の豊かな時間のなかに身を置いて、森の大きないのちの鼓動こどうを静かに聴きき つづける。時を忘れわす させる森では足はおのずとゆっくりになり、しばしば立ちどまってしまう。
 そういう森で見かけるのが、倒木とうぼくだ。三人がかえ四人抱えがかという大きな木が倒れたお ている。何百年かを生きてきて、半ば朽ちく て立っていた木が、ある日強い風に倒さたお れたのだろう。太い幹の途中とちゅうから折れて上部が地上に横たわっている。倒れたお たときの衝撃しょうげきでいくつかに分かれてたて並んなら でいる倒木とうぼくもある。
 古くなった倒木とうぼくにはこけが生えている。倒木とうぼく割れ目わ めにたまった土に若木わかぎが育っていたりする。倒れたお た木そのものがもう半ば土のようになって、そこに育った木が倒木とうぼく同様に太くなり、倒木とうぼくをかかえて天にそびえているのも見かける。森はそういう生と死をはらんで大きないのちを生きつづけている。
 わたしの知るかぎり、時を忘れわす させるほどに豊かな森は、倒木とうぼくのある森だ。人工林には倒木とうぼくがない。伐採ばっさいされて搬出はんしゅつを待っている木が寝かさね  れているだけで、自然の倒木とうぼくが次の世代の木を育てているということはない。日本庭園にも倒木とうぼくを見かけることはまれで
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ある。自然の森をしてあり、半ばは自然の森になっている庭園もあるのだが、ほんとうの森とちがうのはそこに倒木とうぼくのないことだ。若木わかぎを育てたり虫たちが巣くっている倒木とうぼくがない。まして、公園には倒木とうぼくがない。台風で倒れるたお  こともあるだろうが、何日かしたらクレーン車などがやって来て取り除いと のぞ てゆくだろう。人工林にも日本庭園にも公園にも、自然の森に流れているあの豊かな時間はない。
 ある森で、三人抱えかか では足りないほどの大きなブナの木が、上半分が折れ倒れたお て、下半分ばかりが立ち枯れか ているのに出会った。立っている幹は大きく割れわ ていた。近づいてみると割れ目わ めの上下に黒く焦げこ た線が走っていた。落雷らくらいでやられたのだろう。巨木きょぼくのこういう死もあるのだなと思いながら太い幹のうらにまわってみると、おどろいたことに一本の太枝が張り出して豊かな葉を茂らしげ せていた。
 生と死がさまざまなかたちを見せているのが森というものだ。生と死を精妙せいみょうに織りなして、森という大きないのちが息づいている。

──高田 ひろし 東京新聞(3・1・13)「生命 はぐくむもの」のらんによる──
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