a 長文 9.3週 hi2
 実はわたしにもまったく同じ経験があったのである。それは四国の山々をヘリコプターで視察しさつしたときのことであった。四国は日本有数の地すべり地帯である。吉野川よしのがわの上流や仁淀川によどがわ流域りゅういきなど、近寄ることもむつかしいような山崩れやまくず 地帯が至るいた ところにあって、しばしば大水害を起こしている。そうした自然の脅威きょういとたたかいながら過疎かその山村の人たちが、治山、砂防さぼうにとり組んでいる様子を空から調査する、二日間のフライトであったが、その帰りのことであった。四月末であった。ヘリコプターが山の斜面しゃめんにそって高度を下げ、高知の空港へ向かっている。そのとき眼下に広がって見えたのは、山の斜面しゃめんも平野も波打ちぎわに至るいた まで、一面の水、水、水。折から午前の太陽を反射はんしゃして、大地はことごとく鏡を張ったようであった。土佐とさ特有のこの美しい風景は空からでなくとも望めるので、是非ぜひ皆さんみな  にもおすすめしたいが、以来わたしは以前にも増して、「水田はダム」との確信をもつようになった。以前にも増してお米の大切さを訴えるうった  ようになった。テレビのそのディレクターもわたしも、「水」という一点に視点してんをあわせてみれば、はたと思い当る風景は、同じだったのである。
 ところでその水田地帯を歩くばあい、わたしは次のような見かたをする。まず用水の施設しせつを見る。かつてのあの「ふるさとの小川」ののどかな風景は、いまではなくなってしまったけれど、ともかくも用水の水路やせきなど水の施設しせつを見る。水路が放置され、雑草が茂っしげ ていたり、ふちが欠けていたり、水面がゴミだらけだったりすると、「ああ、ここの農民はやる気がないな」と悲しくなり、逆に水路の手入れが行きとどいていれば、「この困難こんなんな時代に、がんばってるなあ」と、うれしくなる。日本の農業と水とはまさにそうした関係にある。
 同じようにして山を見るばあいには、つぎのように見る。金色の稲穂いなほ波うつその水田風景が、平野から山すそへ、さわあいの段々畑だんだんばたけへとはい上がっているようなばあいには、ひょいと上を見れば山もまた、まがりなりにも森林が守られている。その逆に、昔の谷地田
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が放置され、雑草におおわれているようなばあいには、ひょいと山を見上げれば、山もまた放置され、荒れあ ている。日本の山は米が作っているからである。
 その理由はこうである。日本列島の森林を支えている林業。その林業は独立しては成り立ちにくい産業である。自分の植えた木は自分の生きている間は伐れき ず、孫子の代でなければ収入しゅうにゅうにならないからだ。山村の人たちは、さわあいの段々畑だんだんばたけの、その農作業の合間を見て山に入った。炭焼きも植林も農業と一体であった。山村で農業がやって行けないようで、どうして林業がやって行けるだろう。それゆえわたしは常にこういいつづけてきたものであった。日本の森林は米のもと、水も土も作ってきた。でもその森林を作ったのは米であった、と。
 いま、緑、緑と世間も専門せんもん家もかけ声ばかりはにぎやかである。けれども日本の農業をどの方向にもっていくべきかという、そんなところにまで眼をすえて、緑を語ろうとする者は残念ながら、いない。せめて読者の皆さんみな  だけは、風景を見る眼が変わってきて下さると、わたしは思っている。
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