1誰もがよく知っているお伽噺「桃太郎」は、「ある日おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」という語り出しから始まっている。2このお伽噺が昔から変わることなく子供たちをひきつけてきたのは、波乱に富んだ冒険談の幕あけを、かつての日本人にとってもっともありふれた日常生活の一場面に置いた、その巧みな語り出しにあるのではなかろうか。
3年寄りが行けるような身近な所に、薪採りのできる林があり、また、家のすぐそばには洗濯のできるきれいな小川が流れているといった、この素朴な集落の光景は、日本人にとっての一つの原風景といってもよいだろう。4東アジアの季節風地帯に属し、気候が湿潤であるために豊かな森林と川に恵まれたこの国では、住民の生活は、この森と川の恩恵のもとに営まれてきたのであった。
(中略)
5そこで思いあたるのは、この国のもともとの集落形成が、多くの場合、扇状地から始められてきたことだ。扇状地は、山地の渓流が平野に注ぎ込む地点で砂礫が堆積して作られた、なだらかな地形である。
6背後に山を背負い前には平野をのぞむこの扇状地は、水はけのよい土に恵まれ、またその末端のあちこちからは、一度伏流した谷川の水の一部が再び穏やかな小川となって流れ出している。7それは、日本の自然のなかでもっとも人間にやさしい部分といってよいだろう。人びとはここに拠ることによって「荒々しい湿潤」がその反面に持つ豊穣を享受してきたのであった。
8おじいさんは山に、おばあさんは川に、という描写は、まさにこのような集落の情景を表している。9ここでは、集落をとりまく山麓の森林は薪炭材、日用材や農用材のほか、緑肥、木の実、山菜から家畜飼料などに至るまで、さまざまな生活資源を引き出せる宝の山であり、また、そこから流れ出す川は、良質な生活用水を供給する母なる川だったのだ。
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