a 長文 11.4週 hu
 ぼくは一度だけじゅくに通ったことがある。
 小学校の六年生から中学の一年生の春までの間で、場所は北海道の帯広だった。じゅくの名前は正式の名称めいしょうがあったはずだが、今や覚えているのはたぬきじゅくという通称つうしょうのほうだけだ。(別名ぽんぽこじゅく呼ばよ れていた)何故そのじゅくに通いだしたのかは忘れわす てしまった。多分同級生がそこへ通っていたからだろう。あのころぼくには三人の仲間がいた。
 ありもり、おのだ、まなべ、の三人である。ぼく含めふく て四人は学校が終わると毎日自転車をとばしてじゅくへ通うのだった。雨の日も風の日も僕らぼく は自転車でそこへ通っていた。競争するように競って、びゅんびゅん風を切って走っていたのである。
 そうだ、今思い出した。ぼくがそこへ彼らかれ と通うようになったのには、ちょっとした理由があったのだ。同じクラスのあやべさんという女の子がやはり通っていたからだ。ぼく彼女かのじょのことがきっと好きだったのである。どうもまだ愛とかこいとかその手の感情に鈍感どんかんな時期だったので、あれがそういう感情のものだったかどうかちょっと自信がないのだが、授業中彼女かのじょのきりりとした横顔を見るのがすきだったことは確かだった。その横顔をもっと見たくて勉強の嫌いきら ぼくじゅく通いを決心したのである。あやべさんは帯広の大きな病院の令嬢れいじょうで、ゴトウクミコにまさるともおとらない美形(いや、これは信じて頂くいただ しかないのだが)な才女だったのだ。学校では当然人気者で、ぼくなどそうやすやすと近づくことさえできなかったのである。だから、ぼく彼女かのじょと同じじゅくへ通うことにしたのだ。(中略)
 僕らぼく じゅく帰りに、途中とちゅうの国道沿いぞ の雑貨屋で肉饅にくまんを買って食べる習慣があった。季節が変わり寒くなりはじめると湯気の昇るのぼ を食べることがすごく楽しみになるのだ。北海道の夜空は星が高く、きらきらと散りばめるように灯っていて吸い込ます こ れそうだった。僕らぼく は肉を口いっぱいにほおばりながら、その神秘しんぴ的な輝きかがや を見
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つけていた。大きな星空を見ていると、自分たちの存在そんざいの小ささに気を失いそうになった。
 僕らぼく 微妙びみょう年頃としごろであった。こいを知り、物事をわきまえ始める年齢ねんれいであったのだ。
「なあ、ニック。君はだれか好きな女の子はいるのかい」
 ジョンはかんコーヒーをすすりながらそういった。
 ぼくは思わず食べていた肉のど詰まりつ  そうになって、一度咳払いせきばら をするのだった。
「なんだよジョン、いきなりそんなことききやがって」
(帯広はあまり方言らしい方言がなく、ほとんど標準語であった。それから僕らぼく 年齢ねんれい子供こどもたちはテレビの影響えいきょうもあって、東京風の言葉を使うのがかっこいいとされていたのである。ぼくは直ぐに土地の言葉や習慣になれる才能を持っていたのだ。それがないと転校生は余所よその土地では生き残ってはいけないからだ)
「お、顔が赤いぞ。さては図星君だな」
 ジョンがそういってぼくかた叩くたた ので、ぼくは思わず目を伏せふ てしまった。
「だれだよ、ニックはだれが好きなんだ」
 ロバーツがあおる。
「ひゅー、ひゅー」
 サムはポケットに手を突っ込んつ こ だままマフラーに首をすくめてぼくを冷やかした。(中略)
 ぼくは夜空を見上げた。星の瞬きまばた がキャサリンのウインクのようでむねがときめいていた。沢山たくさん初恋はつこいを経験していたが、多分あのときの感情がぼくの本当のこいの第一歩ではなかったかと思うのだ。むねがときめくということを知ったのはまず間違いまちが なく(断言はできないが)キャサリンが最初の女性であった。

つじ仁成ひとなり「キャサリンの横顔」)
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