a 長文 10.1週 hu2
 1私(わたし)には一つ、自分の好奇(こうき)心を呼び覚ます(よ さ  )発見があった。お茶室というものが時代を経る中で、広い書院からだんだん小さく縮ん(ちぢ )でいって、最後は一坪(つぼ)だけの空間に至る(いた )という、その縮小(しゅくしょう)の流れを見つけてハッとしたのだ。2このお茶室の面積が縮小(しゅくしょう)していく流れが、ある不思議な引力をもって見えたのである。
 前から気になっていたことだが、懐石(かいせき)料理というものは、何故大きな器にホンの少々の食品を載せる(の  )のだろうか。
 3同様に、生花というものもおうおうにして、大きな器にホンの一輪の花をすっと斜め(なな )に生けたりする。そんなことが何故か気にかかっていた。
 懐石(かいせき)料理がほんの一口の分量を大きな器に入れてあること、それを経済(けいざい)要素から見れば貧乏性(びんぼうしょう)である。4大きな花器に花一輪も同じことだと思う。ヨーロッパでは花はたくさんあるほど美しく、それが豊かさの表現となっている。それに対して一輪の花で満足しようというのだから、これは貧乏性(びんぼうしょう)の美学というより、むしろ貧しさの美学、といった方がいいのかもしれない。5しかしお茶室の縮小(しゅくしょう)していく流れには、ただ経済(けいざい)からの解釈(かいしゃく)による貧乏性(びんぼうしょう)とは違う(ちが )別の引力があるのではないか、という印象があるのだった。
 懐石(かいせき)料理というものは、利休たちの茶の湯の世界が究められていく過程で生れたものだ。6つまりお茶を飲むために、その事前運動として料理を食べる。
 私(わたし)たちがいまふつうに飲む煎茶(せんちゃ)にしても、まず食事をすませたその後に、ゆっくりと飲むものである。まして茶の湯でいうお茶とは抹茶(まっちゃ)である。7お茶の葉を摺っ(す )て粉にしたものを、そのままお湯に溶かし(と  )て飲むのだから、ずいぶん濃い(こ )。それでも薄茶(うすちゃ)と濃茶(こいちゃ)とあって、お濃茶(こいちゃ)というのはほとんどドロドロである。カフェインであるから、空っ腹(すきっぱら)には相当こたえる。8何か食べたあとの満たされたお腹( なか)でなければ受けとめられない。そこでお茶の前には必ずお茶受けのお菓子( かし)が出るわけで、そのお茶受けをさらに強化したものとして懐石(かいせき)料理があらわれてくる。
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 9つまり食欲(しょくよく)を満たすための食事ではなく、あくまでお茶に至る(いた )ための食事であるから、分量的には最低限のものでいいわけである。しかしそうやって生れた極小の懐石(かいせき)料理が、お茶という最終目標を失ったところでもなお美しい料理として崇め(あが )られていく。そういう美意識がこの国にはあるのだった。
 0その極小を愛でる美意識が、貧乏性(びんぼうしょう)と重なってあるのである。そもそもディテールへの愛というものが、基礎(きそ)的な感性としてあるのだ。
 たとえば大和心のシンボルともいわれるサクラというもの、漢字ではこれを櫻(さくら)と書く。嬰()という字には、まとう、めぐらす、とりまくという意味があるという。中国ではサクラの花がぐるりと木をとりまいて咲く(さ )全体像を見て櫻(さくら)という文字が出来ているのだ。
 それでは漢字が伝わってくる前、サクラという和音による呼び名(よ な)にはどのような意味があるのか。日本語の古訓でサクの音のものは裂()、割(わり)、刳(く)、その他、いずれも「二つに分かれる」という意味を持っているという。
 おそらく桜を見てサクラと発音していた古代の日本人たちは、桜の花びらを見つめていたのであろう。ご存知( ぞんじ)のように桜の花びらの先端(せんたん)には小さな切れ込み(き こ )があり、M字形となっている。花びらの先が二つに分かれる。つまり大陸の人々は茫洋(ぼうよう)とピンクの固まりに包まれた桜の木の総体を見ていた。そして列島日本人は、散った桜の花びらの一つを掌(てのひら)に載せ(の )て、その先端(せんたん)部分に見入っていたのである。
 そもそも日本人の崇める(あが  )神さまたちは、自然の風物の樹(き)や、石や、動物の一つ一つに宿っているわけで、自然のディテールを愛でる感性はこの列島の条件として備わっていたものなのだろう。
 おそらくそのような感性は、この国の人々に、自然に、無自覚的にあったのだと思う。

(赤瀬()川原平『千利休 無言の前衛』〈岩波新書〉)
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a 長文 10.2週 hu2
 1自分のよさを見つけていくというのは、案外に、他人のよさを見つけていくことよりも、難しい(むずか  )。だれでも、多少はうぬぼれはあるものだが、自分のよさを見つけていくのは、それとまた別だ。
 2たいていは、よいところといやなところは、重なりあっているものだが、他人については、そのよさが目だってうらやましく、自分のほうでは、いやな部分が目について、それを他人にかくしたくなる。
 3なにごとにも、よいことと悪いこととが重なっていると言っても、それを恐れ(おそ )て、なにもしないのは、もっと悪い。自分に、よさと悪さが重なっていても、それを人に見せまいと思ってかくしているのは、もっと悪い。
 4中学生あたりでは、自分にはイヤな性格があると思いこみ、それを他人に見せまいとイイコぶるのに疲れはて(つか   )ていることが、よくある。イヤなところを見せては、他人にきらわれるのではないかと、それがこわくて内にひきこもっていることもある。5実際はたいてい、イヤなところを見せるより、イヤなところを見せまいと引きこもってるほうが、よほど他人にきらわれる。
 それに、そのイヤなことというのは、自分が思うほどには、他人にいやがられるものではない。6かりに、本当に他人にきらわれるとしても、そこをさらけだして、あの人はいやな人だ、しかし、おもしろい人だ、とまでならなくては、一生イジイジし続けねばならない。7そして、なんのイヤミもないと他人に好かれる、というのは、あまりないし、あってもたよりない感じで、イヤなところがあるが気に入った、といった目で見られるようになるほうが、ずっと味のある人柄(ひとがら)になる。
 8だれにも悪口を言われないようにしている人というのは、そのこと自体で、みんなからよく思われない。9他人を意識しはじめた中学生のころに、他人の悪口が特別に気になるのは仕方がないにしても、悪口を言われないようにしようという、その態度自身が他人の悪口の材料になりやすい、という事実には早く気づいたほうがよい。
 0少し楽観的なのかもしれないが、人間というものは、本来はそれぞれの性格を持ち、それぞれの才能や容姿(ようし)を持ち、それはいいところと悪いところが重なりあって、他人から見れば好かれたりきらわれたりしながらも、それがそのまま生きていれば、たいへんおもしろいものだ、とぼくは考えている。人間がその人らしく生きているさまというのは、すべておもしろい。
 自分は、自分のようにしか生きられない。そして、本当にそのよ
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うに生きているのは、おもしろい。他人よりもまず、自分が自分をよく見ることができれば、自分にとっておもしろい。そして、これがぼくの一番楽観的なところかもしれないが、本当に自分を楽しんでおもしろく生きている人は、他人が見てもおもしろい。そして、他人だって、おもしろいからには、きみを好ましく思ってくれるはずだ。
 才能や容姿(ようし)だって、自分自身を出したほうが、ずっとよい。たとえば、アメリカの黒人は、昔は白人のようになろうと、肌(はだ)を白くしようとしたり、髪の毛(かみ け)をまっすぐしようとしていたが、それは少しも美しくなかった。黒人が美しくなりだしたのは、ブラック・イズ・ビューティフルと、自分自身を出しはじめてからである。そしていまでは、テレビのコマーシャルでも、黒人が魅力(みりょく)的な姿(すがた)を見せている。自分を出しているものは、美しいのだ。
 いろんな才能だって、その人にしかない味が出せるのが最高だろう。日本の昔の芸人などで、芸が好きでその道に入ったものの、不器用で才能がないと言われ続け、それでも芸から離れ(はな )られずにいるうちに、ふと気づいてみると、他のだれとも違っ(ちが )た味を持った名人と言われるようになっていた、なんて話がある。それをべつに、努力精進のかいあって、なんて芸道物語にする必要もあるまい。その人の味が、その人の芸と一体化してきたとき、不器用で才能がないように見えても、みんなが感心するような芸人になってしまっていたのだ。
 もちろん、若い(わか )間は、普通(ふつう)の意味で才能があったり、普通(ふつう)の意味で容姿(ようし)がととのっていたり、普通(ふつう)の意味で性格がよかったりしたほうが、楽に世がわたれる。しかし、一生がそうというわけでもない。
 それに、かりにいま、そうした点で本当に他人から低く見られているとしても、その自分を出して、自分にしかないタイプで進んだほうが、自分の才能はよりよく開花する。自分自身の容姿(ようし)の特性を生かしてくらしたほうが、より美しくなれる。自分の性格をかくすことなく他人とつきあったほうが、他人がきみをもっと認め(みと )てくれるようになる。

(森 毅(つよし)「まちがったっていいじゃないか」より)
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a 長文 10.3週 hu2
 1一九八〇年代に入ると、日本では「国際化」の必要性が非常に大きく叫ば(さけ )れるようになりました。一九九〇年代から新世紀にかけては「グローバリゼーション」とのかけ声がどこでも聞こえます。
 2国際化が、どちらかと言えば日本なら日本一国の変化を指し、それが他の国々も互いに(たが  )国際化をしなくてはならないといった傾向(けいこう)が強かったのに対し、グローバリゼーションは、地球全域(ぜんいき)での変化に重きを置いた言葉です。3国際化はやはり国と国といった関係が中心の考え方というべきでしょう。グローバリゼーションには国という枠(わく)にとらわれない見方が含ま(ふく )れています。4実際、インターネットや衛星放送が世界中で見られることを含め(ふく )て情報化が進行し、経済(けいざい)がボーダーレスになり(企業(きぎょう)活動の場が全地球的になること)、中国やロシアが積極的に市場経済(けいざい)の仲間入りをするという現象からも、グローバリゼーションが加速していることは事実だと思います。
 5そこでグローバリゼーションとは何か、とその内実を考えてみると、少なくともその変化を表面的に覆っ(おお )ているのは、現代アメリカの作り出した大衆(たいしゅう)文化あるいは生活様式です。6高層(こうそう)ビルもハンバーガーも、二〇世紀アメリカの経済(けいざい)力によってつくり出されたものであり、それが世界中に発信され、どの国の大都市にも波のように押し寄せ(お よ )ているのだと思います。
 7アメリカ大衆(たいしゅう)文化の表現形式は、特に二〇世紀後半の世界の国々には非常に受け入れやすいということがありました。8いくらアメリカが政経軍事にわたる超(ちょう)大国といっても、また文化の産業化の力が強大といっても、その文化そのものに魅力(みりょく)がなければ世界に広まるわけはありません。9ハリウッド映画(えいが)やポピュラーミュージック、コカ・コーラ(     )やハンバーガーなどの食文化を含め(ふく )たライフスタイルなどが世界の多くの人に好まれるから広まるわけです。
 0アメリカの消費経済(けいざい)とそこに広まる文化のグローバリゼーションの波には抵抗(ていこう)しがたいものがあります。かつてインドのムンバイ(旧ボンベイ)では、人民党(とう)のコカ・コーラ(     )追放運動なども起きました。しかし、いまではデリーにもファストフードの店がありま
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す。フランスのように、アメリカ映画(えいが)の輸入本数を制限するなど、アメリカの「文化侵略(しんりゃく)」に対する防衛策(さく)を講じる国もあります。しかしそういう抵抗(ていこう)も効果的ではありません。パリではハリウッド映画(えいが)からファストフード店まで人が群がっています。
 こうしたグローバリゼーションを政治権力(けんりょく)で禁じることは難しい(むずか  )でしょう。というのは、情報化の時代には、テレビやインターネットなどの通信伝達手段(しゅだん)によってどこに何があるのか誰(だれ)でも知ってしまうからです。そして同じものをほしがったり同じことをしたくなるからです。そういう消費欲望(よくぼう)を起させるところがアメリカ的な文化のグローバリゼーションの強みなのです。
 ただ、この文化のグローバリゼーションによって、やがて世界の文化が均質化してしまうのかというと、それも違い(ちが )ます。戦後憲法(けんぽう)や学校制度に始まり、アメリカ化の影響(えいきょう)を受け続けた日本ですが、アメリカから見るとまだ「日本異質(いしつ)論(ろん)」が出てくるぐらい、彼我(ひが)の文化の違い(ちが )は依然として(いぜん   )消えていないのです。確かに、食生活やファッション、経済(けいざい)や社会の制度まで、グローバリゼーションによって変わるものはたくさんあります。しかし同時に、文化的社会的に残るものは残っています。英語が情報通信の第一言語として世界を覆っ(おお )ていることは事実としても、タイ語もネパール語ももちろん日本語もしっかりと存在(そんざい)しています。アメリカ的なファストフード支配の傾向(けいこう)はあっても、回転寿司(すし)もあり、和食の伝統は残っています。それが消え去るとも思えません。こういう事実を見ても、私(わたし)は、それぞれの文化が全て画一化してしまうとは思いません。しかし、他方でそれも楽観的にすぎるかもしれないと感じたりもします。実はこうしたグローバル化の勢いは、人々に自文化への関心を薄め(うす )させ、子どもや若い(わか )世代に伝統や歴史についての関心を弱くさせる働きがあるのも事実だと思うからです。
 本来は文化のグローバリゼーションと異(い)文化は必ずしも対立関係にはなく、グローバリゼーションも受け入れながら異(い)文化は異(い)文化として存在(そんざい)するというあり方になるのが一番良いのではないでしょ
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長文 10.3週 hu2のつづき
うか。

(青木保「異(い)文化理解」より)
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a 長文 10.4週 hu2
 1では「美」とは何か、どういうものか、これは大学で学ぶ「美学」というものがあるほどの大テーマですから簡単(かんたん)には言えませんが、それが知りたくて読んだ岸田劉生(りゅうせい)の『美の本体』(講談社学術文庫)という、むかしよく読まれた本があります。2その中で、「『美しい』と『きれい』とはちがうのだ」という一行だけが印象に残っています。その言葉のためにある本のようなものでした。「きれいなもの」もいいけれど、そのうち飽き(あ )てきます。3いつまでも、あるいはいつ見ても心に響く(ひび )ということは少ないでしょう。
 その本が文庫本になっていたので、最近読み直して、若い(わか )ときに、こんな難しい(むずか  )ものをよく読んだなと思いました。そして「絵描き(えか )は美の使徒である」という言葉に出会って少し苦笑しました。4それは自分でそう言い聞かせて、自分を駆り立て(か た )ているのだと、好意的に読むことはできました。絵描き(えか )が「ぼくは美の使徒だ」と言うのは自由だけれど、他人が言うのでなければ信憑(しんぴょう)性がありません。
 5今はどうか知りませんが、旧ソ連では、絵描き(えか )であることが尊ば(たっと )れたそうです。「あの人は芸術家だから」とか「あの人はバレリーナだから、配給より少しよけいに食べさせてやらないとかわいそうだ」ということがあったといいます。6ニューヨークでも、アーチストのためのマンションというのがあります。職業はみんな平等なのに、アーチストと名のつく仕事についている人は優遇(ゆうぐう)されて安く住むところが用意されているのだそうです。
 7日本では、優遇(ゆうぐう)どころか、たとえば義務教育の教科の中から、美術の時間は無くなるか、もしくは減らされています。国策(こくさく)として科学的発見を願う時代に、「美」などは迂遠(うえん)なことのように思われ、直接コンピューターの教育を徹底(てってい)すれば足りる、と考えられているようですが、わたしにはそう思えません。8科学的にも、芸術的にも「美しいものを創造(そうぞう)しよう」とする感性と執拗(しつよう)な努力が両輪となって、新しい境地を開くのです。努力は金のためであったとしても、その努力を続け得るのは、美しいものに魅せ(み )られる感性のた
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めです。9そんな意味で美術教育の時間が減らされたことは惜しま(お  )れます。
 「『美しい』と『きれい』とはちがう」……これは傾聴(けいちょう)すべきことばです。「きれい」というのは「汚い(きたな )」の反対語ですが、「美しい」というのは醜悪(しゅうあく)な部分までも含ん(ふく )でいます。0たとえば、グリューネヴァルト()の作になる、コルマール(フランス)の教会の祭壇(さいだん)画に描か(えが )れたキリストは、目を覆う(おお )ほどのおできや腫れ物(は もの)で覆わ(おお )れています。また金子光晴の「大腐乱(ふらん)頌()」という詩も、人間が死んで腐乱(ふらん)していく、大自然の過程をたたえる詩として歌っています。このように一見したところは醜悪(しゅうあく)なものでも、心を打たれずにはおられません。満開の桜も美しいけれど、秋の枯れ葉(か は)の褪せ(あ )た色も美しい。「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは(桜の花は、満開のものだけを、月は満月だけを見るべきものだろうか、いやそうではない。)」(兼好(けんこう)法師「徒然草」第一三七段(だん))というのはこのことです。
 「美しい」と感じる感覚は、一口にいうと、心を動かされることです。自然や芸術作品に、人の心を動かすだけの力が無くてはかないませんが、それを見る人の感性のありかたというものがあろうと思います。「きれい」なものに心を動かされても悪くはありません。しかしさらに深く働きかけて、見る者が「美しさ」を見つけ出すこともあるわけです。つまり「美」という厄介(やっかい)なものは、対象に備わっている美しさというより、むしろそれを見る自分の感性の責任でもあるといえます。

 (安野光雅()「絵のある人生―見る楽しみ、描く(えが )喜び―」(岩波新書)より。)
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a 長文 11.1週 hu2
 1おとうさんとか、おかあさんとか、兄弟とか、仲のよい友だちとか、そういう近しい間柄(あいだがら)の人たちでさえ、時によると、私(わたし)たちのしたこと、いったことをほんとうにわかってくれなかったり、まちがえて悪く思ったりすることがあります。2そのためにおたがいの仲がまずくなるということも、よくある例です。
 こういう場合には、誤解(ごかい)が私(わたし)たちを不幸にします。3誤解(ごかい)を受けた私(わたし)たちばかりでなく、誤解(ごかい)したおとうさんやおかあさんや友だちにだって、それは不幸なことです。4だから、こういう場合には、おたがいの不幸をとりのぞくために、誤解(ごかい)を残しておかないようにつとめなければなりません。ほんとうのことをわかってもらうように、よく話をしなければいけないと思います。
 5ところが、みなさんならば学校での大勢の友だち仲間、またおとなならば世間の人々など、そういう特に近しい間柄(あいだがら)でない人たちが、私(わたし)たちについていろいろいったり考えたりしていることに対しては私(わたし)たちは、たとえそれが耳にはいっても、いちいちいいわけをしないですませるようにならなければいけないのです。6というのは、大勢の人を相手に、いちいちいいわけをしたらきりがないという理由からばかりではありません。7いちいちいいわけをせずにはいられないという気持ちが、つい私(わたし)たちに、もっともっと大切なもののあることを忘れ(わす )させてしまうという、大きな危険(きけん)があるからです。8もともと私(わたし)たちにとってかんじんなことは、自分という人間がほんとうにどんな人間かということ、自分のしたことがほんとうにまちがっていなかったかどうかということであって、他人がそれをどう見るかということではないでしょう。9むろん、だれにしたって人からどう思われるかは気になることですが、あんまりそれを気にする人たちは、他人の目に自分がどううつるか、そればかりに心を使って、ほんとうの自分がどんな人間かということを、いつのまにかお留守にしてしまいがちです。0みなさんがだんだんおとなになると、他人の目によく見られたい、偉(えら)そうに見られたい、親切らしく見られたい、金持ちらしく見られたい……などと、いろいろ自分でないものに見られようとして、そればかり気にしている人間がじつに多いことを知ってくるでしょう。もちろん、そんな人間にろくな人はないのですが、当人も世間もそれにだまされている場合が少なくないのです。しかし、考えて見れば、立派(りっぱ)な
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ハガネが多くの人からナマリだと思われても、それでハガネがナマリになってしまうわけではありません。また、ナマリがハガネだと思われたって、ナマリはどこまでもナマリではありませんか。ハガネをナマリだと思うのは、そうまちがえた者の恥(はじ)です。また、ナマリがハガネだといわれても、むろん、ナマリの真の名誉(めいよ)にはなりません。
(中略)
 リンカーンがアメリカの大統領になってからのことで南北戦争中のことですが、「戦争指導委員会」という委員会の人たちが、リンカーンのしたことについて、重大なあやまちがあるといって彼(かれ)を攻撃(こうげき)したことがありました。その時ある役人が、ちょうど問題になったことについて委員会のいいぶんをくつがえすだけの正式の証拠(しょうこ)を持っていたので、ほんとうのようすを新聞に発表して弁明したいと思うが、いいでしょうかと、リンカーンにたずねました、すると、リンカーンはこう答えたというのです。
 「いや、いけない。少なくともいまのところはいけない。私(わたし)に加えられているいっさいの攻撃(こうげき)にすべて目をとおしていたら、ましてそれにすべて答えたりしていたら、私(わたし)のかんじんの仕事が休業になってしまう。私(わたし)は自分の知っている最善(さいぜん)のことをやっているのだ。自分にできる最善(さいぜん)をつくしているのだ。そして私(わたし)はそれを最後までやりつづけてゆくつもりでいる。もしも、その最後になって私(わたし)が正しかったとわかれば、いま私(わたし)に加えられている非難(ひなん)などは物の数でもなくなるだろう。また、もしもその最後になって、私(わたし)がまちがっていたら、十人の天使がわたしを正しかったといってくれても、なんにもなりはしないからね。」

(吉野(よしの)源三郎(げんざぶろう)「八つの小さな話」より)
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a 長文 11.2週 hu2
 1価値(かち)が変動し、混乱(こんらん)していくなかで、健康な体というのは、ひとつのよりどころにはなるでしょうが、健康な体、たくましい体だけがあればいいのかといえば、そうではないことは当然です。
 2前にC・W・ニコルさんから南極かどこかへ探検(たんけん)に行ったときの話を聞いたことがあるのですが、彼(かれ)はこんなことを言っていました。
 3南極などの極地では、長いあいだテントを張って、くる日もくる日も風と雪と氷のなかで、じっと我慢(がまん)して待たなければいけないときがある。そういうときに、どういうタイプの連中がいちばん辛抱(しんぼう)づよく、最後まで自分を見失わずに耐え(た )ぬけたか。4ニコルさんに言わせると、それは必ずしも頑健(がんけん)な体をもった、いわゆる男らしい男といわれるタイプの人ではなかったそうです。
 5たとえば、南極でテント生活をしていると、どうしても人間は無精になるし、そういうところでは体裁(ていさい)をかまう必要がないから、身だしなみなどということはほとんど考えなくてもいいわけです。6にもかかわらず、なかには、きちんと朝起きると顔を洗っ(あら )てひげを剃(そ)り、一応、服装(ふくそう)をととのえて髪(かみ)もなでつけ、顔をあわせると「おはよう」とあいさつし、物を食べるときには「いただきます」と言う人もいる。7こういう社会的なマナーを身につけた人が意外にしぶとく強く、厳しい(きび  )生活環境(かんきょう)のなかで最後まで弱音を吐か(は )なかった、というわけです。これはおもしろい話だと思います。
 8礼儀(れいぎ)、身だしなみ、こういうことは極限状態のなかでは最後に考えることのような気がします。しかし実際には、そういうなかで顔をあわせたときにきちんと「おはよう」とあいさつのできるような人、「ありがとう」と言えるような人、9あるいは朝、ほんのわずかな水で顔を洗い(あら )、ひげも剃(そ)って、それなりに服装(ふくそう)をととのえ、そして他人と礼儀(れいぎ)を忘れ(わす )ずに接するという、小さいときからの自分の生活態度をずっと守りつづけたようなタイプの人のほうが、最後までがんばりぬいて弱音を吐く(は )ことがなかった、という。0そんな話を聞いたりすると、うーん、それも新しいサバイバルの方法であるな、という感じがします。
 同じようなことは、今世紀最大の悲劇(ひげき)と語りつがれるアウシュヴィツの強制収容(しゅうよう)所でもいえそうです。
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 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人を連行し、そして強制的な収容(しゅうよう)所をつくり、そのなかでもっとも残虐(ざんぎゃく)な殺戮(さつりく)が行われたのがアウシュヴィッツ()です。
 その地獄(じごく)から奇蹟(きせき)の生還(せいかん)をしたフランクルという人が、そこで起こったことを記録にまとめ世に出します。それが翻訳(ほんやく)されて日本では『夜と霧(きり)』というタイトルの本になり、多くの人びとに、人間存在(そんざい)の残酷(ざんこく)さと、そのなかで宝石(ほうせき)のように光る生の尊厳(そんげん)を静かに訴え(うった )て、いまでもロングセラーとして読まれつづけています。
 ほとんどの人が死んでゆくなかでフランクルがどのようにその極限状態を生きぬいて奇蹟(きせき)の生還(せいかん)をとげたか、ということが、ぼくにとっては興味の的だった。いろんなことがあります。
 精神科医だったフランクルは、人間がこの極限状態のなかを耐え(た )て最後まで生きぬいていくためには、感動することが大事、喜怒哀楽(きどあいらく)の人間的な感情が大切だ、と考えるのです。無感動のあとにくるのは死のみである。そして自分の親しい友だちと相談し、なにか毎日ひとつずつおもしろい話、ユーモラスな話をつくりあげ、お互いに( たが  )それを披露(ひろう)しあって笑おうじゃないか、と決めるのです。
 あすをも知れない極限状態のなかで笑い話をつくって、お互い( たが )に笑いあうなんていうことになんの意味があるのか、と思われそうですけれども、そうではないのです。あすの命さえも知れないような強制収容(しゅうよう)所の生活のなかでユーモアのあるジョークを一生懸命(いっしょうけんめい)に考え、お互い( たが )に披露(ひろう)しあって、栄養失調の体で、うふ、ふ、ふ、と、力なく笑う。
 こういうことをノルマのように決めて毎日実行したというのですが、むしろそういうことも、ひょっとしたらフランクルが奇蹟(きせき)の生還(せいかん)をとげる上での大事な役割(やくわり)を果たしていたのではないか、と思います。
 ユーモアというのは単に暇つぶし(ひま   )のことでなく、ほんとに人間が人間性を失いかけるような局面のなかでは人間の魂(たましい)をささえていく大事なものだ、ということがよくわかります。
 また、同じように――風景というものに対して非常に感受性のつよい人間がいる。そして、たとえば強制労働のなかで水たまりに
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長文 11.2週 hu2のつづき
映っ(うつ )た冬の枯れ枝(か えだ)の風景を眺め(なが )て、あの、レンブラントの絵のようだ、なんていうことを考えたりする人がいる。こういう感じかたをする人のほうがじつは強制収容(しゅうよう)所の非人間的な生活のなかでは、むしろ強く、生き延びる(い の  )ことができたのです。

 このエピソードは、人間が健康とか体力だけで厳しい(きび  )条件に耐え(た )られるものではない、ということを如実(にょじつ)に表現しているような気がしないでもありません。

(五木寛之(ひろゆき)の文章より)
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a 長文 11.3週 hu2
 1「作戦を練る」という表現があるが、これは「作戦を立てる」ということとはニュアンスが異なる(こと  )。「作戦を立てる」は、ただ一つの作戦を案出する場合にも用いることができる。2これに対して「作戦を練る」は、数多くの作戦を比較(ひかく)吟味(ぎんみ)し、それぞれのよい点を組み合わせながらより良質な作戦へとみがきあげていくことを意味する。練りあげられた場合の作戦は、たとえ単数であっても、その背後(はいご)には吟味(ぎんみ)された数多くの作戦がある。3練るという動詞(どうし)は、あえて困難(こんなん)をぶつけて柔軟性(じゅうなんせい)をもたせ、きたえるということを意味している。4この場合も、作戦がうまくいったケースではなく、うまくいかなかったケースという困難(こんなん)な場合をさまざまにシミュレーションし、その想像上の難局(なんきょく)に柔軟(じゅうなん)に対応しうるものへと案をみがきあげていくのである。5練るという行為(こうい)は、数多くのアイディアをとけこませるということでもある。
 「考えを練る」や「文章を練る」という表現における「練る」も同様である。6よく練られた考えや文章は、単純(たんじゅん)な思いつきで変更(へんこう)することのできない奥行き(おくゆ )をもっている。考えや文章にねばり強さをあたえるのは、こうした吟味(ぎんみ)を続けることのできる精神のねばり強さである。7練るという言葉の存在(そんざい)が、こうしたねばり強さが育つのを助ける。「技を練る」という言葉があるように、「練る」は反復練習をして身につけるという意味をもっている。
 8かつては日常生活の中で練るという行為(こうい)は数多くあった。水飴(みずあめ)は、二本の割りばし(わ   )でぐるぐると練っていくうちにやわらかくなった。うどんもねばりけのないただの粉から、水をくわえてくり返し練ることでねばりが出てくる。9うどんやめんの場合は、このねばり強さを「コシがある」と表現する。腰(こし)のイメージは、土俵際でもねばれる相撲(すもう)取りの「ねばり腰(ごし)」のように、しなやかで強いイメージである。0追いこまれたときにぽっきりと折れてしまう硬(かた)さではなく、ぎりぎりのところでしなやかに受け止めて持ちこたえることのできるのが「ねばり腰(ごし)」であり、それをつくるのが練るという作業である。相撲(すもう)のけいこは鉄砲(てっぽう)や四股(しこ)など一見単純(たんじゅん)なものが中心となっているが、これは、からだとりわけ足腰(あしこし)を練ることを目的と
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しているからである。
(中略)
 やわらかくしてねばり強くするという「練る」本来の意味をからだの動きとして実感しやすかったのは、私(わたし)の場合、太極拳(たいきょくけん)の練習であった。太極拳(たいきょくけん)はゆっくりと動くわけだが、低い姿勢(しせい)を維持(いじ)することも多く、からだをやわらかくねばり強くすることをうながす。片足(かたあし)で立って重心をゆっくりと動かしていく動きも多いので、軸(じく)の感覚がしなやかで強靱(きょうじん)でないとバランスをくずす。しかも、形をまねしただけでは、いわば「仏作って魂(たましい)入れず」になってしまうので、からだのすみずみにまで気を行きわたらせることも求められる。
 じょうずな人の太極拳(たいきょくけん)の動きを見ていると、よくのびる練り物のようであり、とどこおりがない。しかも、たんに水が流れるがごとくというだけではなく、実際に腰(こし)が決まっていることもあって、コシのあるうどんのような芯(しん)の強さを感じさせる。うどんは水をくわえて練るまではバラバラな粉である。練り続けていくうちに、それぞれが結びついて一つのものとしてつながってくる。太極拳(たいきょくけん)は、自分のからだをうどんに練りあげていくイメージと私(わたし)の中では重なるところがあった。からだのいろいろな部分がバラバラであるようにはじめ感じられたのが、やっていくうちに足の先から手の先までつながっている身体感覚に変わっていった。一瞬(いっしゅん)に終わる早い動きではなく、ゆっくりした動きなので、自分のからだの各部の状態をゆっくりと内側から感じることができやすかった。
 練るは、一回性のできごとではない。目的意識を長く持続させ、一見たいくつな動きのくり返しをあきたりなまけたりすることなく行うことである。そのくり返しの間、感覚は鋭敏(えいびん)に保たなければならない。これは根気のいる息の長い身体の文化である。
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a 長文 11.4週 hu2
 1簡単(かんたん)にいえば、「義」とは、打算や損得のない人としての正しい道、つまり「正義」である。「道義」「節義」の意味もこれにあたる。
 新渡戸(にとべ)博士がいうように、なんと厳しい(きび  )「掟(おきて)」であるか。なぜなら、簡単(かんたん)に「人としての正しい道」といっても、それは個人的な観念であり、いわば「道徳」である。実行しなければ罰(ばっ)せられるといった「法律(ほうりつ)」とは違う(ちが )。2法律(ほうりつ)ならば「してはいけないこと」が法文化されていて明確にわかるが、自己(じこ)の観念にもとづく道徳は人間の内面に据え(す )られた「良心の掟(おきて)」であり、その基準は個人によって違う(ちが )からである。
 3道徳(モラル)と法律(ほうりつ)(ルール)の本質的な違い(ちが )は、道徳は良心の掟(おきて)である以上「不変」なものだが、法律(ほうりつ)は社会の都合で「変化」させることができるもの、とされている。
 4たとえば交通法規などは社会の都合にともなって、それに即応(そくおう)したものに変えられるが、「嘘(うそ)をつくな」「弱い者をいじめるな」といった良心の掟(おきて)は、いかに社会が変わろうとも変わるものではないからだ。
 5では、良心の掟(おきて)とされる普遍(ふへん)的な道徳とは何か。一般(いっぱん)にはそれが儒教(じゅきょう)のいう「五常」、すなわち「仁()・義・礼・智()・信」とされている。6簡単(かんたん)にいえば、その基本は先に少し触れ(ふ )たように、「人に優しく(やさ  )あれ」「正直であれ(嘘(うそ)をつくな)」「約束を守れ」「弱い者をいじめるな」「卑怯(ひきょう)なことをするな」「人に迷惑(めいわく)をかけるな」などがあげられ、人が人として行なわなければならない良心のことだ。だから、これらを犯すとき、われわれは「良心の呵責(かしゃく)」に襲わ(おそ )れるのである。
 7キリスト教ではこの良心の掟(おきて)を「神の声」としているが、儒教(じゅきょう)は神を語らない。それに代るものとして「天」を置いた。儒教(じゅきょう)を学んだ武士も、その良心の相手を「天」となし、天が見ているものとして守ったのである。8そのことを示す有名な言葉が、
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老子の「天網恢恢疎(てんもうかいかいそ)にして漏らさ(も  )ず」(天道は厳正(げんせい)で悪事には早晩(そうばん)かならず悪の報いがあるとの意)である。要するに武士道では、個人の道徳律(りつ)、人倫(じんりん)の道として、現実社会の法律(ほうりつ)を超越(ちょうえつ)した「天道」に従う(したが )ことが義務づけられたのである。
 9ところで、ここが重要なところだが、武士道は「五常」の中でも、とくに「義」を最高の支柱に置いている。
 なぜか。その理由の第一は「人としての正しい道」である「義」が、他の徳目とくらべてみて、もっとも難しい(むずか  )ものだからである。0というのも、この「義」は武士のみならず、いかなる人間においても、どのような社会にあっても人の世の基本であるからだ。この「義」(正義)が守られなければ平穏(へいおん)な社会は築けない。これは現在の社会とて変るものではない。歌の文句ではないが、「義理(正義)がすたれば、この世は闇(やみ)」である。
 それゆえにこそ為政者(いせいしゃ)側の武士は、江戸(えど)時代あたりから軍人的性格より行政官としての任務をもつようになると、「庶民(しょみん)の手本」となることが要求され、「義」を美学として生きることが義務づけられたのである。武士道では徹底的(てっていてき)に、何が正しいかの「義の精神」を教え、彼ら(かれ )の行動判断の基準をこの「義」と定め、その行動の中に「義」があるかないかを常に問われたのである。

 (岬龍一郎()『日本人の品格』〈PHP文庫〉)
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a 長文 12.1週 hu2
 1人間には、身体的なエネルギーだけではなく、心のエネルギーというものもある、と考えると、ものごとがよく了解(りょうかい)できるようである。2同じ椅子(いす)に一時間座っ(すわ )ているにしても、一人でぼうっと座っ(すわ )ているのと、 客の前で座っ(すわ )ているのとではつかれ方がまったくちがう。3身体的には同じことをしていても「心」を使っていると、それだけ心のエネルギーを使用しているのでつかれるのだ、 と思われる。
 このようなことはだれしもある程度知っていることである。そこで、人間はエネルギーの節約につとめることになる。4仕事など必要なことに使うのは仕方ないとして、不必要なことに、心のエネルギーを使わないようにする、となってくると、人間が何となく無愛想になってきて、生き方にうるおいがなくなってくる。5他人に会うたびに、にこにこしていたり、相手のことに気をつかったりするとエネルギーの浪費(ろうひ)になるというわけである。ときに、役所の窓口(まどぐち)などに、このような省エネの見本のような人を見かけることがある。6まったくもって無愛想に、じゃまくさそうに応対をしているのである。そのくせ、つかれた顔をしたりしているところが、おもしろいところである。
 7これとは逆に、エネルギーがあり余っているのか、と思う人もある。仕事に熱心なだけではなく、趣味(しゅみ)においても大いに活躍(かつやく)している。他人に会うときも、いつも元気そうだし、いろいろと心づかいをしてくれる。8それでいて、それほどつかれているようではない。むしろ、人よりは元気そうである。
 このような人たちを見ていると、人間には生まれつき、心のエネルギーをたくさんもっている人と、少ない人とがあるのかな、と思わされる。9いろいろな能力において、人間に差があるように、心のエネルギー量というのにも生まれつきの差があるのだろうか。これは大問題なので、今回は取りあげないことにして、もう少し他のことを考えてみよう。
 0他との比較(ひかく)ではなくて、自分自身のことを考えてみよう。たとえば、自分が碁(ご)が好きだとして、碁(ご)を打っているために使用される心のエネルギーを節約して、もう少し仕事の方に向けようと考えてみるとしよう。そこで、友人と碁(ご)を打つ回数を少なくして、仕事に力を入れようとして、果たしてうまくゆくだろうか。あるいは、今まで運動などまったくしなかったのに、ふと友人にさそわれてテニスをはじめると、それがなかなかおもしろい。だんだんと熱心にテ
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ニスの練習に打ちこむようになる。そんなときに、仕事の方は、前より能率が悪くなっているだろうか。あんがい、以前と変わらないことが多い。テニスの練習のために、以前よりも朝一時間早く起きているのに、仕事をさぼるどころか、むしろ、仕事に対しても意欲(いよく)的になっている、というときもあるだろう。
 もちろん、ものごとには限度ということがあるから、趣味(しゅみ)に力を入れれば入れるほど、仕事もよくできる、などと簡単(かんたん)には言えないが、ともかく、エネルギーの消耗(しょうもう)を片方(かたほう)でおさえると、片方(かたほう)で多くなる、というような単純(たんじゅん)計算が成立しないことは了解(りょうかい)されるであろう。片方(かたほう)でエネルギーをついやすことが、かえって他の方に用いられるエネルギーの量も増加させる、というようなことさえある。
 以上のことは、人間は「もの」でもないし「機械」でもない、生きものである、という事実によっている。
 人間の心のエネルギーは、多くの「鉱脈」のなかにうずもれていて、新しい鉱脈をほり当てると、これまでとは異なる(こと  )エネルギーが供給(きょうきゅう)されてくるようである。このような新しい鉱脈をほり当てることなく、「手持ち」のエネルギーだけにたよろうとするときは、確かに、それを何かに使用すると、その分だけどこかで節約しなければならない、という感じになるようである。
 このように考えると、エネルギーの節約ばかり考えて、新しい鉱脈をほり当てるのをおこたっている人は、宝(たから)の持ちぐされのようなことになってしまう。あるいは、ほり出されないエネルギーが、底の方で動くので、何となくイライラしていたり、時にエネルギーの暴発現象を起こしたりする。これは、いつも無愛想に、感情をめったに表に出さない人が、ちょっとしたことで、カッとおこったりするような現象としてあらわれたりする。
 自分のなかの新しい鉱脈をうまくほり当ててゆくと、人よりは相当に多く動いていても、それほどつかれるものではない。それに、心のエネルギーはうまく流れると効率のいいものなのである。他人に対しても、心のエネルギーを節約しようとするよりも、むしろ、上手に流してゆこうとする方が、効率もよいし、そのことを通じて新しい鉱脈の発見に至る(いた )こともある。心のエネルギーの出しおしみは、結果的に損につながることが多いものである。
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a 長文 12.2週 hu2
 1先ごろ世間で流行した「ノウと言えない日本人」は、日本人ならだれでも思いあたる節があって、広く話題になった。もちろん、くやしい。しかし仕方がない。それこそ、こうバカにされても、「ノウ」と言えなかったのである。2だから、この納得(なっとく)と反発をたくみについて、「ノウ」と言える人物として、新しい都知事が選挙戦をたたかい、みごと圧勝した。
 日本人はそれほど「ノウ」と言えないから、「ノウ」と言う人は勇気があるとされる。3「ノウあるタカ」というジョークも聞かれた。
 しかし、考えてみると、何事にせよ、イエスかノウかはごくごく基本の判断だから、内容によってもっとも単純(たんじゅん)に下されるはずのものだ。4それなのに、「ノウ」と言う人が勇敢(ゆうかん)な人だというのは、とてもおかしい。無心な赤ちゃんがイヤイヤをすると勇敢(ゆうかん)だなどということにはならないから、イエス・ノウがはっきりしている人は、もしかしたら、赤ちゃんに近い人かもしれない。5そうであるにもかかわらず「日本人は『ノウ』となかなか言えない」という命題は、今日も生きつづけている。日本人の生き方の、ごくごく根幹にある、大きな問題らしい。
 そこでおもしろいことを思い出す。
 6もう五十年以上前になったが、第二次世界大戦でシンガポールを陥落(かんらく)に追いこんだ日本の山下奉文(ともゆき)大将(たいしょう)がイギリスのパーシバル将軍(しょうぐん)と停戦協定を結ぼうとしたときに、大将(たいしょう)は将軍(しょうぐん)にむかって、「イエス」か「ノウ」かと大喝(だいかつ)したという。
 7戦争中、もてはやされた武勇伝だった。この話は絶対に優位(ゆうい)にたった人間が相手に判断をうながすとき、いっさいのあいまいで情緒(じょうちょ)的なことは考慮(こうりょ)の外において、明快に答えを要求した、という話である。
 8もしイエス・ノウをはっきりさせるというのなら、いつも複雑な心の動きを捨てる(す  )ことになる。将軍(しょうぐん)がイエスと言えば力に屈し(くっ )て言ったのだし、ノウと言えば力に反抗(はんこう)して言ったことになる。9明快なイエス・ノウは力の関係から出てくるらしい。反対に、あいまいにイエスでもノウでもない答えは、心がちらつく加減から発せられるらしい。
 日常生活でもそうだ。たとえば借金を申し込ま(もう こ )れる。ニベもなく
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「断る。」と言えるのは相手が絶対に弱いときだ。0そこを、「この人も困っ(こま )ているだろうナ。」などと考えはじめると、貸したくもないのに、ついつい「いやです。」とはすぐに言えずに、グダグダ言いはじめてなかなか「ノウ」とは言えない。アメリカに対して日本が「ノウ」と言えない関係も、第一に力の大きさが違い(ちが )すぎることがあるが、日本人は「アメリカが日本が断ることで困っ(こま )てしまうのではないか。」などと考えて、すくには「ノウ」と言えない。そうなると、イエス・ノウをはっきりさせるというのは、明快というよりごく単純(たんじゅん)な表現だというべきだろう。イエス・ノウという単純(たんじゅん)な二極分類は、判断が浅いにすぎない。
 むしろ、すぐに「ノウ」と言わない日本人の伝統的な表現は、相手の立場も十分考え、単純(たんじゅん)な力関係でイエス・ノウを判定することをせず、イエスとノウという両極の間の程よい位置を見定めようとする態度ではないのか。イエスとノウとの間には、じつはたいへんな距離(きょり)がある。その間のどこで答えを出すか、それを考えることこそが、いま大切なのだ。
 これをイエスでもない、ノウでもない「第三の返事」と呼ん(よ )でおこう。熟考(じゅっこう)のうえだから聡明(そうめい)な返事だ。ウンウンかイヤイヤではないのだから、成熟(せいじゅく)した大人の返事だ。ただ、あいまいだと受けとられると困る(こま )。自分が何を考えているか、相手にはっきり言う必要がある。熟慮(じゅくりょ)が十分伝わらなければ意味がない。
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a 長文 12.3週 hu2
 1道具との距離(きょり)が遠くなったことはそのまま自然がわれわれから遠くなったことでもある。かつてなにをすべきかという人間の疑問(ぎもん)に答えたのは自然だった。2自然の解答は時としておそろしく苛酷(かこく)で矢つぎばやで、人はそれを遂行(すいこう)するに忙しく(いそが  )、時には遂行(すいこう)しきれないで死ななくてはならないこともあった。3だがなにをすればよいかわからないなどという馬鹿げ(ばか )た宙ぶらりん(ちゅう    )なみじめな状態を人は知らなかった。今ではみんなが途方(とほう)にくれている。自然との関係において自分を人間にしたてあげてゆくような者はもういない。4人間はもうこの世界から絶滅(ぜつめつ)しかけている。自然は死んだとメアリ・マッカーシーは言うが、死んだのは人間にとっての自然、と言うより自然の前における人間の方なのだ。5今、数を誇っ(ほこ )ている奇妙(きみょう)なこの生物をどんな名で呼ぶ(よ )べきだろうか。
 彼等(かれら)は最近気まぐれな女々しいノスタルジアから手づくりの道具云々(うんぬん)と口走っている。6だが自然からかくも離れ(はな )てしまった彼等(かれら)、物を加工するにあたって不可欠な形と質と重さと強度の感覚を養成することを怠っ(おこた )てきた彼等(かれら)にいったい何が作れるというのか。7一枚(まい)の板がどれだけの荷に耐え(た )、どれだけの荷でしなうか、それを材料工学によってではなく感覚的に知る者はいない。従って(したが  )おそらく彼等(かれら)が手で作る物はすべて醜く(みにく )、使用に耐え(た )ず(あるいは使用目的さえ明らかでなく)要するにガラクタに過ぎないだろう。8あるいは料理にしても、料理Aを作るために材料a・b・cを集めることは知っているが、まず材料aを与え(あた )られてそこから出発するという自然な順序では何一つできない。自然の中で生命を維持(いじ)することは生物の基本的条件だが、大半の人間はそれを満たしていない。9ロビンソン・クルーソーの資格をもつものはほとんどいないだろう。
 道具についてもう少し考えてみよう。道具はどのようにして作られ、どのような関係を人とのあいだに結ぶか。自然に近い場で暮らす(く  )者にとって斧(おの)は大変便利な道具である。0そのような場所ではある年齢(ねんれい)に達した男子はみな自分の斧(おの)を持ち、どこへ行くにもそれを携える(たずさ  )。ある少年がやっとその年齢(ねんれい)に達したとしよう。父親は
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息子を呼ん(よ )で「斧(おの)を持つべき時が来た」と多分もったいぶった口調で宣言(せんげん)する。そして翌日(よくじつ)、父親と少年は僅か(わず )な食料を持って山に入り、密林(みつりん)をぬけ、川を渡っ(わた )て特殊(とくしゅ)な石を産する山奥(やまおく)のある場所へ行く。そこに転がっている石同士を打ちあわせて割り(わ )、適当な劈開(へきかい)面の出ている破片(はへん)を選び出す。そしてほかの石で一部を注意深く欠いたり、岩に根気強くこすりつけたりして形を整える。柄(え)を作るにはまた別の場所へ行ってしかるべき種類の木の特定の枝ぶりのところを切ってこなくてはならない。あるいはそれを火にあぶって少々曲げ、掌(てのひら)になじむようにするかもしれない。枝に割れ目(わ め)をいれて石片(へん)をはさむようにすることも考えられる。これらの作業を息子は熱心に見ている。この次にはそれを自分一人でやらなくてはならないのだから。石片(へん)を柄(え)に縛りつける(しば    )には藤蔓(ふじづる)を切ってきて乾かし(かわ  )、裂い(さ )てしごいて丈夫(じょうぶ)な繊維(せんい)を取り出さなくてはならない。これだけの手間をかけて作り、いつも持ち歩いて使用し、時にはそれによって危険(きけん)から脱し(だっ )たりもする斧(おの)となれば、持ち主にとって貴重(きちょう)なものであるのもうなずける。貴重(きちょう)ではあるがそれは宝石(ほうせき)などのような経済(けいざい)の法則が勝手に決めたあやふやな価値(かち)ではなく、使われるが故の単純(たんじゅん)な価値(かち)である。道具は作られ、使われ、次第に手になじみ、時にはこわれ、修理され、ゆっくりとある特定の変化をとげてゆく。またすべての道具が自作で粗末(そまつ)で原始的である必要はない。サン=テクジュペリにとっての飛行機は、まさに農夫にとっての鍬(くわ)のように、道具だった。飛行機が人間について万巻(まんがん)の書よりも多くを教えるからだと彼(かれ)は言う。だから晩年(ばんねん)あまりに複雑になりすぎた飛行機を操縦(そうじゅう)するようになってからの彼(かれ)はもう飛行機のことは書かなかった。
 道具が道具になってゆく過程と対応してその前で一人の人間が作られてゆく。それが珍しい(めずら  )ことになってからもうずいぶん長い時間がたった。人がものを大事にしなくなったから、ものの方も居心地悪げで、折を見ては逃げだそ(に   )うと待ちかまえている、とリルケが書
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長文 12.3週 hu2のつづき
いたのは今世紀初頭のことだ。それ以来人と物との関係は劇的(げきてき)な速度で悪化した。われわれはみな甘やかさ(あま   )れて駄目(だめ)になった子供(こども)たち、鉛筆(えんぴつ)をけずることさえできない子供(こども)たちの時代に属している。
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a 長文 12.4週 hu2
 1以前、私(わたし)は政府の国語審議(しんぎ)会の委員を三期つとめたことがある。そこでの大きな課題の一つは、敬語(けいご)の表現をどう考えるかであった。敬語(けいご)が日本語にはたくさんあって、複雑で、外国人泣かせであることは、よく知られている。
 2もちろん外国語にも、相手を尊敬(そんけい)した表現はたくさんあって、日本語だけのものではない。委員のなかには「敬語(けいご)は日本語独自の美風だ」などと言う人がいて、私(わたし)はぎょう天した。
 3じつはつい最近、私(わたし)はヨーロッパの小旅行の途中(とちゅう)、バスの座席(ざせき)に幼子(おさなご)を座ら(すわ )せようとして、父親が「プリーズシットダウン」というのを小耳にはさんで、気持よかった。ただ「シットダウン」だけでもいいのに。
 4また、上等な人ほど表現は丁ねいである。人にものをたのむときも遠回しに言い、プリーズばかりか「for me」を加えたりする。
 だから日本語に敬語(けいご)が目立つというのは人種が上等なだけだ(!)。
 5さてその上等ぶりは、どんな内容なのか、いろいろあるなかでまずとり上げるものとして、「〜させていただく」という言い方がある。「どうぞ、どうぞ」と椅子(いす)をすすめられると「ありがとうございます。座ら(すわ )せていただきます」と言う。「じゃ座り(すわ )ます」などとは言わない。
 6「いっしょに帰りませんか」。「はい、おともをさせていただきます」。要するにこれは相手の行動によって自分がそうさせてもらうという意味だ。自分を椅子(いす)に座ら(すわ )せるのも相手。相手といっしょに帰っても、対等に行動をともにしているのではなくて、相手は自分を供(とも)として従える(したが  )。7そのように自分をさせる、と考えるのである。
 あくまでも相手が主で、自分はそれに従っ(したが )ているにすぎない。
 これは、自分から進んでやるばあいでもそうだ。「本日司会をつとめさせていただきます田中です」と言って、司会は自分から口を切る。8とつぜん客席から声があがって「つとめさせたのはだれだ」と聞くわけでもない。みんな当然のように聞いている。
 いや、いちいち聞きさえもしないほど、あたりまえの表現であろ
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う。つまり、それほど相手をたてるのが日本語だということになる。9先ほどから問題にしている高級さとか上等さとかの中身は、じつはこの相手への尊重(そんちょう)であった。
 そこで念のためだが、相手への尊重(そんちょう)を、封建(ほうけん)的なものとか、階級意識とかと誤解(ごかい)しては困る(こま )。
 0そもそも日本語の敬語(けいご)は、最初は親愛の気持をあらわす方法だった。八世紀のころはそうである。
 それがやがて敬愛(けいあい)の気持をあらわすようになり、やがて尊敬(そんけい)の気持の表現となった。
 そのうえでも、尊敬(そんけい)するかどうかは個人の自由だから、階級と見合うものではなかったが、一部で階級と敬語(けいご)が一致(いっち)してしまった。
 そのばあいでも、心のなかで尊敬(そんけい)してもいないのに敬語(けいご)を使うと、それこそ、いんぎん無礼になる。
 だからあくまでも敬語(けいご)は相手を愛する気持の表現方法なのだ。愛は尊敬(そんけい)がなくては生じない。尊敬(そんけい)の気持のない愛があったら、お目にかかりたい。それがごく自然に出ているのが本来の敬語(けいご)、さっき親愛をあらわすといったものだ。
 だからそもそもの敬語(けいご)は女性に対して発せられた。そもそも日本人の女性のあつかいは、愛と尊敬(そんけい)にみちていたのである。

 (中西進『日本人の忘れもの(わす   )』(ウェッジ))
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