a 長文 4.1週 ma
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
 1白いラブラドール・レトリバーが横断歩道のところで、おとなしくおすわりをしていた。信号が青になると、すっと立ち上がり、急ぐでもなく遅れる(おく  )でもなく、横にいる人と同じペースで静かに歩き出した。2若い盲導犬(もうどうけん)の訓練風景を見たとき、こういう犬がいることによって外出が可能になる人も多いのだろうと感心した。盲導犬(もうどうけん)の訓練は、人間に忠実な犬の性格があるからこそできる。その証拠(しょうこ)に、ペットとして猫(ねこ)を飼っている人は多いが、盲導(もうどう)猫(ねこ)というのは聞いたことがない。3獰猛(どうもう)猫(ねこ)ならたまにいるが。頼れる(たよ  )動物という点では、犬の右に出るものはいない。私たちは、この「頼る(たよ )」ということをもっと生活に生かしていく必要がある。
 その理由は第一に、頼る(たよ )ことで自分の本当にしたいことの能率が上がるからだ。4コンピュータ・プログラミングの世界では、「車輪を作るな」ということが言われる。人類の歴史で最初に車輪を発明した人は、最初に文字を発明した人と同じように、その後の人類の歴史に大きな貢献(こうけん)をした。車輪は、現在の交通手段のほとんどに欠かせないものだ。5しかし、荷車を作る人が、自分のオリジナルなものを作りたいからといって車輪を作ることから始めたら、人間の歴史は進歩しなかっただろう。先人が既に(すで )発明した車輪を前提にして、その土台の上に仕事をすることが能率のよい発展につながったのだ。
 6頼る(たよ )ことを生かすという第二の理由は、頼り(たよ )たがらないときの心理が往々にして、消極的な気持ちから来ているからだ。自信のない人ほど人に聞くのを恥ずかし(は   )がるということがある。よくわからないことは素直に聞くということが自分の向上にもつながる。7アウト・ソーシングという手法は、自分の苦手なことは他人に任せるという考えに基づいている。サッカーのようなチーム・プレーでも、自分ひとりでゴールをねらうのではなくチーム全体として勝つという発想が必要だ。
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 確かに、自分の力でやりぬくという気迫(きはく)も人生には必要だ。8小さい子供は、失敗を恐れ(おそ )ずに何でも自分の手でやりたがる。しかし、それは、自分の手でやることが本人の成長に結びついているから必要なのだ。私たちは、自分の手でやりとげるためにこそ、他人の手を生かすという考え方をする必要がある。9盲導犬(もうどうけん)が必要な人も確かにいる。しかし、それは、その人が自分の目的を達成するために頼る(たよ )方法なのであって、決してラブラドールが主人なのではない。最後の一歩を自分の足で歩くために、途中(とちゅう)の行程はさまざまな手段に頼る(たよ )ということなのである。0

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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長文 4.1週 maのつづき
 1脳の研究をしていてしばしば尋ね(たず )られることの一つが、頭の良さは遺伝で決まるのか、それとも環境(かんきょう)で決まるのか、といういわゆる「氏か育ちか」の問題である。
 一卵性双生児(いちらんせいそうせいじ)を対象とした研究などによれば、知能指数といった指標で測られる知性に与える(あた  )遺伝子の影響(えいきょう)は大体半分くらいらしい。2しばしば、保守的な人は遺伝子の、リベラルな人は環境(かんきょう)の影響(えいきょう)を重視する傾向(けいこう)があるが、そう簡単に政治的立場だけで決めつけられる問題でもない。遺伝子の影響(えいきょう)が全くないはずはないし、育てられ方で変わらないはずもない。3天才科学者の子どもが必ず天才になるわけではないし、親が勉強嫌い(ぎら )でも、子どもは向学心に燃える、ということはある。氏と育ちは、半々くらい、というのは、私たちの常識的なセンスに照らしてみても、妥当(だとう)な線である。4別の言い方をすれば、今の科学の水準では、そのような「常識的なセンス」を越える(こ  )ような結論は得られないということになる。
 それにしても、「頭の良さは、遺伝か、それとも育てられ方か?」と質問されて、「氏と育ちは半々である」と答えるだけでは、あまりにも芸がない。5何よりも、学問としての深みがない。何かもっとうまい答え方はないものか、と折に触れ(ふ )て考えていた。
 先日、漫画(まんが)家の萩尾(はぎお)望都さんと対談した時のことである。打ち合わせの時に、萩尾(はぎお)さんが、「今日は茂木(もぎ)さんに、遺伝子と環境(かんきょう)、どっちが重要なのか、お尋ね( たず )したいと思っています」と言われた。6さて、これは困った、と思った。何時ものように、「半々なのですよ」と答えるのでは、あまりにも芸がない。萩尾(はぎお)さんのようなカリスマ漫画(まんが)家には、もう少し気の利いたことを言いたい。何とかしなければ、と思いながら廊下(ろうか)を歩いているうちに思いついた。7人間、追いつめられると何とかなるものである。
 人間の知性の本質は、その「終末開放性」(open ended ness)にある。そのことが、「氏か育ちか」ということを考える上で、本質的な意味を持つと直覚した。8このアイデア一つの向こうに、様々な問題群が広がっていることもすぐにわかり、私
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はほっとすると同時に嬉しかっ(うれ   )た。「半ばは遺伝で、半ばは環境(かんきょう)である」といった回りくどく「政治的に正しい」言い方の不自由さにはない、学問的広がりがそこにあるように感じたからである。
 9人間の脳は、心臓と同じで、休むことがない。それに伴っ(ともな )て、脳内の回路は一生学習をし続ける。大人になっても、脳の組織が完成して固定化してしまうことなどなく、神経細胞(さいぼう)のシナプス結合のパターンは生涯(しょうがい)の間変化する。ここまで回路ができあがったら、それで完成ということはないのである。0
 従って、人間の脳の回路が、遺伝子によって決まっていたとしても、その「完成形」は原理的に存在しないことになる。たとえその最終的な「落ち着きどころ」(物理的に言えば、「熱力学的準安定状態」)が存在したとしても、せいぜい百年の寿命(じゅみょう)しかない人間の生涯(しょうがい)では、そのような最終形を取るには至らない。人間の才能が、仮に遺伝子によって完全に決定づけられていたとしても、私たちはその最終的帰結を見ないままに、死んでいってしまう。内なるポテンシャルを十全に発揮しないうちに人生が終わってしまう無念は、アインシュタインやモーツァルトのような天才も、凡夫(ぼんぷ)も変わることがないのである。
 人間の知性は、いつまで経っても完成形を迎える(むか  )ことのない「終末開放性」をその特徴(とくちょう)としています。だから、たとえ、遺伝子によってかなりの部分が決まっていたとしても、実際的な意味では決まっていないのと同じなのです。遺伝子によって決まっているという運命論など気にすることなく、前向きに生きれば良いのです。
 対談中、そのように萩尾(はぎお)さんに申し上げたら、「ああそうですか」とおっしゃる。それから、「じゃあ、茂木(もぎ)さんのクローンを百代続けて作れば、遺伝子に書き込ま(か こ )れていた帰結が見えるのかしら」と畳みかける(たた    )。それはそうかもしれないが、単純にクローンを作成するだけでは、脳回路はリセットされてしまうから、最初からやり直さなければならない。本格的にやろうとすれば、クローンをつくる時に百歳(さい)の私の脳回路を「コピー」しなければならないが、そんな技術はもちろん存在しません。そう申し上げて、対談を切り抜け(き ぬ )た。
 (茂木(もぎ)健一郎(けんいちろう)『欲望する脳』)
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a 長文 4.2週 ma
 1ふだん私たちは、コインを丸いものと見なしている。そして、百円玉、十円玉などと言う。もちろん、「丸い」とか「玉」と言っても、それは決してビー玉のような球形ではなく、つまり、正確には円盤(えんばん)形のことだと、誰(だれ)でも承知している。2コインをテーブルなどの上に置いたとき、あるいは床(ゆか)や地面に落としたとき、見おろすと丸く見えるということだ。コインが自然に安定しやすい姿勢で置かれているとき、人間の視線の自然な角度から見ると、丸い。そこで、私たちは、「コインは円形だ。」という文を承認する。
 3けれども、もちろんコインは、年じゅう円形に見えるわけではない。水平方向から眺めれ(なが  )ば、あきらかに、薄い(うす )長方形に見えるはずだ。短い棒状に見えるはずだ。そして私たちには、そんなことはわかりきっているように思われる。4しかし、ものはためしに「コインは長方形だ。」という文を口に出して言ってみると、なぜか、まことに異様な発言をしているような気がする。
 私たちは日常において、いつもある視点からある光景を見る。5視点だけではなく、人間の認識一般(いっぱん)は、ある立場からの有限のアプローチである。その有限性は、たいてい、言語表現に反映してあらわれる。ある位置にあぐらをかいたまま、腕(うで)を組んで眺め(なが )ているだけでは、ものの真相はよく見えない。6自分の認識が――したがって自分のことばが――有限で一面的だと、いつも承知している人は、やがて、実験的に自分の視点を変え、多様なアプローチをこころみることになる。
 文学作品などにおいても、おなじひとつの事実を、きわめてことなることばで言いあらわすことがある。7視点がちがう。そのちがいは、おなじひとつのコインに対して「円形である」および「長方形である」という、まるで別の見かたが成立した事情と似ている。そして、そういった表現は、ヨーロッパに古くから伝えられた、たくみに表現する技術体系であるレトリックと深い関係にある。
 8レトリックは、私たちの認識と言語表現の避け(さ )がたい一面性を自覚し、それゆえに、もっと別の視点に立てばもっと別の展望がありうるのではないか……と探求する努力のことでもある。創造力と想像力のいとなみである。
 9たとえば、枝からはなれた果実が地面へ落ちるという事態を目撃(もくげき)したとき、たんに「りんごが地面へ落ちた」と考えるだけでは満足しないことである。0ことによると、「りんごに向かって地面が突進(とっしん)してきた」とも考えられはしないか、あるいは「りんごと地
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面はたがいに引きつけ合った」と考えるべきではないか……と、さまざまな想像力を働かせることであろう。レトリックとはそのように多角的に考え、かつ多角的なことばによって表現してみることである。レトリックは発見的な認識への努力に近い。
 こんにち、価値の多様化ということがしばしば問題になる。それは、ものの見かたの多様性という問題でもある。ひとつの事実を眺め(なが )、表現するにあたって、すべての人が、まるで統制を受けたかのように、おなじ視点からおなじことばで語る、という時代ではあるまい。人と人とが理解し合うことも、容易ではない。自分の視点と自分のことばづかいだけが正しいと信じきっている人は、想像力ないし創造力を欠いているために、自分とはことなる立場から見える景色を思いえがくことができない。肝心(かんじん)なのは、相手の立場、別の視点に立ってみればどんなぐあいにものが見えるか、ということを思いえがいてみる能力である。
 このように考えてみると、レトリック感覚は、発見的な認識には欠くことができない上に、人をできるだけよく理解するためにこそ必要なのだ、ということになる。新しい視野を獲得(かくとく)するためにも、また、相互(そうご)理解のためにも、こんにちほどレトリック感覚の必要とされるときは、かつてなかったように思う。

(佐藤(さとう)信夫「レトリックの記号論」による。)
(注)アプローチ=接近すること。
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a 長文 4.3週 ma
 1いつから世の中が矛盾(むじゅん)を恐れる(おそ  )ようになったのか知らないが、頭から悪いものと決めてかかっている人が多い。白が黒であって、空腹のときはものを食わない、などという話が横行してもはた迷惑(  めいわく)であろうが、雨が降れば天気が悪いといった理に合いすぎた命題でいっぱいになってもことである。
 2どうも、矛盾(むじゅん)には、良いものと悪いものがあって、嫌わ(きら )れる、いわゆる矛盾(むじゅん)は、良いものを除外して考えているようである。劇薬には病気を治すものがたくさんあるが、不用意に使えば命とりになりかねない。3どれもこれも毒として敬遠した方が安全である、というのにいくらか似たところがある。
 同じ平面の上を、反対方向から進んで来た二つの同じ力がぶつかれば、両者は互いに(たが  )相殺(そうさい)し合って、運動のエネルギーは消滅(しょうめつ)してしまう。避け(さ )なくてはならない矛盾(むじゅん)とはこの相殺の論理のことであろう。4数学的に言えば、プラスとマイナスの和である。プラス5とマイナス5を加えるとゼロになる。無為(むい)無能の状態である。こういう結果を招くような対立と矛盾(むじゅん)がつまらぬものであるのははっきりしている。
 5こうして、一度、矛盾(むじゅん)が不毛だと知れると、われもわれもと論理性へ走る。かくして、論理はかくれた信仰(しんこう)の一つにすらなっていると言えそうである。
 論理が前提としているのは、同一次元での一貫(いっかん)性のある連続である。6飛躍(ひやく)はいけない。テーマの錯乱(さくらん)もこまる。一筋に論理の糸がつながっているのが純粋(じゅんすい)で、美しいと感じられる。これなら、対立や撞着(どうちゃく)もしのびこむ余地がなくて安心である。
 7しかし、このように戦々恐々(せんせんきょうきょう)として一筋を守らなくては乱れてしまうのであるとしたら、いわゆる論理とは何と貧寒なものだろう。論理的一貫(いっかん)性とは、裏返してみれば、同類同質的なものが猫(ねこ)の子一匹(ぴき)も通さぬような近接状態で数珠つなぎ(じゅず   )に並んでいることにすぎないではないか。
 8人々は、しかし、いわゆる論理なるものが塩の入らぬしるこのように間の抜け(ぬ )たものであることを直観で感じてはいる。口に出し
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て言うのをはばかっているにすぎない。芸術では、この単純な合理にいろいろと仮名をつけて、そっとお引き取り願っている。9この平面論理という暴れん坊(ぼう)に踏み込ま(ふ こ )れたら、いかなる芸術の花も台なしになってしまうからである。詩における理屈(りくつ)はその一例であるにすぎない。月並みの句などということばは、かすかな平面的連続を敏感(びんかん)にかぎつけて、それを嫌っ(きら )たものと見ることができる。0

(外山滋比古(とやましげひこ)「省略の文学」から)
撞着(どうちゃく)…前後が食い違っ(く ちが )てつじつまが合わないこと
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a 長文 4.4週 ma
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 妹が隆(たかし)に、あんなのほしかったなあ……と、小さな声で言ったのは、夏も終わりのころのことであった。隣(となり)の屋根でのんびり寝そべっ(ね   )ている野良猫(のらねこ)を見てのことばである。「母さんの猫(ねこ)嫌い(ぎら )は知ってんだろ」。「ううん、違う(ちが )の。お祭りのときお店で見かけた招き猫(まね ねこ)なの」。「どの店だよ? 」。「七味とうがらしの出店」。「……そりゃ、今さら無理だよ」。「だからもういいの」。これだから困るのである。隆(たかし)は招き猫(まね ねこ)探しにでかけることにした。
 招き猫(まね ねこ)を飾っ(かざ )てある店は見かけても、売っている店はたいそう少なかった。土産物店で見つけても、いやに小さくて貧相なのである。やっぱり秋祭りまで待つしかないか・・・・・と、隆(たかし)は思った。しかし、珍しく(めずら  )妹がほしがったことを考えると、隆(たかし)は何とか早いとこ見つけて持ち帰り、妹を驚か(おどろ )せてやりたかった。自分も気に入り、妹も一目で気にいるやつを早いとこ見つけたかった。
 それが、ないのである。招き猫(まね ねこ)にも、実にいろんな人相(?)のものがあることに、隆(たかし)は初めて気がついた。大きさ、姿、表情、色……と四拍子(しびょうし)そろって、一目ぼれできる招き猫(まね ねこ)となると、売り物どころか、見かけるのだってむずかしいことに、隆(たかし)はやっと気がついた。
 思いあぐねて明(あきら)のやつに相談することにした。話を聞いた明は、隆(たかし)の顔をまじまじと見つめた。「招き猫(まね ねこ)だなんてお前、どういう趣味(しゅみ)なんだ。おれの親友だとは思えん。ほしがるにこと欠いて、そんなおじんくさいもの、目をつけやがるなんて」。「すまん、じつはほしがっているのは妹なんだ」。そう打ち明けると、明の態度はがらりと変わった。
 妹の趣味(しゅみ)まで何か言われそうだとかまえていた隆(たかし)は肩(かた)すかしをくらった感じだった。同時にもう一つの何かも感じていた。「いっしょに探してやるよ」。明のやつは急に親切になった。

(今江祥智(いまえよしとも)『今日も猫(ねこ)日和』)
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 1じつは私は二〇代前半まで、旅行好きというには程遠かった。身体を動かすことは大嫌い(だいきら )で、部屋にこもって音楽を聴い(き )たり本を読んだりするのを好む人間だった。旅らしいことといえば、東京から大分までの帰省を毎年三回ほどするくらいだった。
 2ところが、大学院でフランス文学を勉強しはじめたころから、フランスに行ったことがないのでは話にならないという気になりはじめた。そこで、奨学(しょうがく)金を貯め、親にも援助(えんじょ)してもらって、一九七七年の三月、初めてフランスを訪れた。3まだ成田空港は開港しておらず、パリもまだオルリー空港を使っていたころだ。格安料金の大韓航空(だいかんこうくう)機を利用して、ソウル、アンカレジ周りで二四時間以上かけてパリに行った。ついでに、ドイツ、オーストリア、イタリアにも足を伸ばす(の  )ことにした。
 4そして、ヨーロッパでしばらく過ごすうち、フランスという国に関心を持つという以上に、旅行そのものに目覚めてしまったのだ。
 旅行の最大の楽しみ、それは「驚き(おどろ )」と「うろたえ」だ。
 外国の観光地を見る。生活を見る。そこで行動して、人間に触れる(ふ  )。5これまでと違っ(ちが )た価値観に遭遇(そうぐう)する。日本にいて予想していたのとまったく違う(ちが )光景、まったく違う(ちが )反応に出会う。そして、驚き(おどろ )、うろたえる。
 日本人としては、それでもなお日本式の生活をしようとすることもある。だが、そうすればするほど、困った事態に陥る(おちい )。6だが、それがまた楽しい。それまで絶対的に真実と思っていたことが揺らぎ(ゆ  )、これまでの価値観が揺り動かさ(ゆ うご  )れる。
 最初の旅行でまず驚い(おどろ )たのは、道を歩くのは、きれいに着飾っ(きかざ )た白人のパリジャンやパリジェンヌばかりではないということだった。7そもそもパリは白人だけの都市ではなかった。私はモンパルナスの一つ星の安ホテルを基点にしてパリ見物をはじめたが、歩く場所によっては、目に入る人間の一〇〇パーセントが有色人種だということも珍しく(めずら  )なかった。8地下鉄に乗っても、有色人種のほうが多いということがしばしばあった。しかも着飾っ(きかざ )ている人は少ない。ジーンズに革ジャン姿が圧倒的(あっとうてき)に多い。日本で予想していたような上品な白人はめったに見かけない。
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長文 4.4週 maのつづき
 数日後、フォブール・サントノレを歩いた。9日本でいえば銀座のようなところだ。そこで初めて頭の中で想像していたパリの光景に出会えた。エレガントなパリジェンヌがいた。
 そこで気がついた。貧乏(びんぼう)学生である私がほっつき歩いていたのは、貧しい地域だったのだ。0そこには、貧しい白人や有色人種が多かった。フランスは階層社会だったというわけだ。しかも、すでにフランスにはアラブ系、アフリカ系の移住者が押し寄せ(お よ )、その人たちが新たな下層社会を作り上げていた。(中略)
 最初のヨーロッパ旅行で、私はこのような光景を見るうち、旅というものの楽しさを知ったのだ。そして、それが病みつきになり、その後、時間とお金に少し余裕(よゆう)ができてからは毎年のように海外旅行に出かけた。
(中略)
 ときには異文化のなかにかつての日本と同じような光景を見かけて、人間の普遍(ふへん)性を痛感することもある。日本とまったく文化の異なるフランスでも、日本人と同じような反応にしばしば出会った。一九九四年には友人とラオスに行って、メコン川の川原で凧(たこ)揚げ(あ )をして遊ぶ子供たちを見て、四〇年前、九州の片田舎の川原で遊んだ自分の姿が重なった。
 私は、旅行での様々な驚き(おどろ )やうろたえや失敗の経験を書き綴っ(つづ )てきた。
 もちろん、この程度の旅で大旅行家などとはいえない。私はたかだか三〇ヵ国(かこく)を旅行したに過ぎない。私よりもたくさんの旅行をし、たくさんの経験をした人は多いだろう。
 だが、私は幸い、ほかの人よりも自由な仕事についていたため、勝手気ままにあちこちを動き回ることができた。冷戦時代の東欧(とうおう)六ヵ国(かこく)を含む(ふく )六〇日間の新婚(しんこん)旅行、朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく)(北朝鮮(きたちょうせん))旅行、カンボジア旅行などにも出かけることができた。しかも、好奇(こうき)心旺盛(おうせい)で、なおかつおっちょこちょいときているので、あちこちで少々危険な目にあった。そして、そのおかげで、自分の目でその時代その時代の社会を見て、様々な経験をし、驚き(おどろ )、うろたえることができた。今となっては、これは私の財産といえるものだ。
 (樋口(ひぐち)裕一(ゆういち)『旅のハプニングから思考力をつける!』)
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a 長文 5.1週 ma
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 1体育の先生のどなり声が飛んだ。集合するときの集まり方がだらしなかったということで、私たちは全員正座をして先生の説教を聞くことになった。2目をつぶって聞くようにと言われたが、私は途中(とちゅう)からそっと薄目(うすめ)をあけてみんなの様子をうかがった。すると、話をしている先生の顔が見えた。先生は、意外と穏やか(おだ  )な顔で、声の調子だけは厳しいまま話を続けていた。
 3私がこの怖い(こわ )先生の気持ちがわかったのは、自分が先輩(せんぱい)という立場になり、後輩(こうはい)を叱る(しか )場面を経験するようになってからだ。叱る(しか )ということは、叱る(しか )側に気迫(きはく)がないとできない。4その気迫(きはく)は、相手に対する思いやりから来ている。よく子供を叱れる(しか  )のは親だけだというが、それは親が心から子供のことを考えているからだろう。5その点で、他人の子供を自分のことのように叱れる(しか  )怖い(こわ )先生は、貴重な存在だということができるだろう。
 吉田(よしだ)松陰(しょういん)は、獄中(ごくちゅう)から門下生に激を飛ばす激しい一面があるとともに、どのような人にも優しい態度を貫い(つらぬ )た教育者だった。6松陰(しょういん)の捕らえ(と  )られた獄舎(ごくしゃ)には、世間から見捨てられた犯罪人ばかりがいたが、それらの人々がやがてみんなで松陰(しょういん)の講義を聴く(き )ようになった。
 7優しい先生ということでは、ヘレン・ケラーを教えたサリバン先生も挙げられる。障害を持って生まれたために甘やかさ(あま   )れ、わがままに成長したヘレン・ケラーを、サリバンは心を込め(こ )て導いた。
 8このように考えると、怖い(こわ )先生、優しい先生といっても、それが何のための怖(こわ)さであり、何のための優しさであるかと考えることが重要だ。怖(こわ)さと優しさは表面的には正反対のように見えるが、その底にあるのは相手に対する思いやりだ。9その思いやりの根本には、その人の確かな人生観がある。問われるのは、相手が怖い(こわ )か優しいかということではなく、それを受け止める自分自身の生き方である。どなり声の向こうにある本当の心を見ていくことが大切なのだ。0

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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 1数年前、森林関係の研究所に勤務している研究員のところに、ある村の村長が訪ねてきた。その村の森には、それほど多くはないけれど、いまでは希少価値になった天然のヒノキが大きく育っているのだという。2そのヒノキをいちばん高く売るにはどうするのがよいのかが村長の問いだった。研究員はいろいろしらべたうえで、後日その方法を教えた。それは玄関(げんかん)の表札にして売るのが有利だというものだった。
 ところがそう話したら、村長はきわめて不愉快(ふゆかい)そうな顔をした。3樹齢(じゅれい)二百年を超え(こ )た大木が、柱になった後も堂々と建物を支えつづけ、生きつづける姿を思い描い(おも えが )ていた村長には、それが細切れにされることなど、容認できることではなかったのである。商品価値を高めることが、木を侮辱(ぶじょく)することであってはならないと思った。
 4「それがあの頃(ころ)いちばん高く売る方法だったのに」
 研究員は私にその話をしてから、「しかし、村長の気持ちもわかるし」と言って楽しそうにわらった。自分の提案が拒否(きょひ)されたことは、彼(かれ)にとっても愉快(ゆかい)な出来事だったのである。
 5木が本来もっている価値を生かすことと、商品として木を高く売ることは、必ずしも一致(いっち)しない。いまでは天然のスギの銘木(めいぼく)は、紙のような薄い(うす )板にされ合板に張りつけられて、天井板(てんじょういた)などになることが多い。6それが天然スギをいちばん高く売る方法でもあるし、そのことによって天然スギのもっている木目を比較的(ひかくてき)安い価格で、だれもが楽しめるようになったと評価する意見もある。しかし、それでもなお私は、山奥(やまおく)の路上で合板にされるために乾かさ(かわ  )れている天然スギをみかけると、私は村長と同じような気持ちをいだくのである。
 7今日では山の木が建築物に変わるまでの間には、次元の異なる二つの過程が重なりあっているのであろう。それは使用価値と商品価値の違い(ちが )によって生ずるズレ、といってもよいのだけれど、木自体がもっている価値を生かすか、商品としての木の価値を優先するかをめぐって、木にたずさわる者たちもまた動揺(どうよう)してきた。8そしてそのことは、ときに力強く木の育った美しい森と経営効率を優先させた森の違い(ちが )となってあらわれ、製材や建築の過程では、職人的な仕事と商品をつくるだけの労働の違い(ちが )となってくる。
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長文 5.1週 maのつづき
9たとえば、製材工場を訪ねても、スギやヒノキなどの国産材をひく工場と、輸入材をひく工場とでは、雰囲気(ふんいき)がずいぶん違う(ちが )。国産材は、どこにノコギリの刃(は)をあてるかで木目の出方も変わり、木の価値も商品価値も変わってくるから、木目の出具合を読む職人の経験やカン、コツが工場を支えている。0ところが、輸入材は木目も一定のものが多く、しかも大壁(おおかべ)工法などの柱のない家の部材になることが多いから、部品をつくる自動化工場のようである。最近では労働力不足に対応して、コンピュータ製材が関心を高めているけれど、それも職人の腕(うで)を必要としなくなった輸入材専門工場での話にすぎない。国産材の工場はいまも職人の世界である。
 山の木を単なる商品にしてしまわないためには、職人的な腕(うで)が生きていなければいけない。確かに、山の木は、林業家から製材業者へ、工務店から消費者へと、商品として流れていく。ところが、この流れのなかに、美しく、大きく森を育てていこうとする村人の腕(うで)や、製材職人の腕(うで)、木の特性を生かしていこうとする大工の腕(うで)などが健在である間は、木と人間は一体化して、木の文化をもつくりつづけることができる。
 木の文化は、天然のヒノキが細切れの板にされるのをかわいそうだと感じる、あの村長の気持ちに支えられてきた。そして、その気持ちを仕事のなかで実現させる職人たちの腕(うで)とともにあったのである。

(内山節(たかし)「森にかよう道」より。一部省略等がある。)
(注)大壁(おおかべ)工法=断熱材等でできている壁(かべ)板を、柱をおおうように張っていく建築法。
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a 長文 5.2週 ma
 1生物界の中でヒトという種を特徴(とくちょう)づけてみると、優れた学習能力がほぼ一生にわたって維持(いじ)される、ということが第一に挙げられるであろう。
 2例えば、クジラやライオンのような大型哺乳類(ほにゅうるい)について言えば、クジラは水中生活に便利なように体型が変化しており、またライオンやトラは、筋肉が発達し、敏捷(びんしょう)で、しかも鋭い(するど )牙(きば)や爪(つめ)を備えている。したがって、ある環境(かんきょう)条件下では餌(えさ)を手に入れ、種族を維持(いじ)していくことが容易である。3反面、これらの大型哺乳類(ほにゅうるい)は、限られた環境(かんきょう)下においてのみ繁栄(はんえい)しうる。クジラはもはや陸上で生活することはできないし、ライオンやトラは比較的(ひかくてき)大きな草食獣(じゅう)が手に入らなくなったらおしまいである。
 これに対して、サルの仲間は、そういった身体上の特徴(とくちょう)を持っていない。4さらにまた、生まれつきの行動の仕組みが比較的(ひかくてき)少なく、加えて雑食性でもあるところから、様々な環境(かんきょう)に適応しうる。いわば、他の大型哺乳類(ほにゅうるい)が特殊(とくしゅ)化するという方向で進化してきたのに対し、サルの仲間はむしろ、環境(かんきょう)に対する柔軟性(じゅうなんせい)において進化してきた、ということができるであろう。
 5したがって、サルの仲間では、経験に基づいて外界についての知識を身に付けることが、個体の生存にとっても、また種の維持(いじ)にとってもそれだけ重要になってくる。つまり、サルはもともと学習する種である、と言い換える(い か  )ことができる。6外界についての知識を得ること――それによって、どこが安全か、どのようにしたら食物が手に入るか、などを的確に判断できることが生存のために不可欠なのである。
 しかし、このような事情は、ヒトにおいてより一層顕著(けんちょ)に認められる。7ヒトは他の類人猿(るいじんえん)と比べてさえ、生まれつきの行動の仕組みが少ない。このために、チンパンジーの子供とヒトの子供とを双生児(そうせいじ)のように育ててみると、初めの数か月間は、むしろヒトの子供の方が知的にも劣っ(おと )ているという印象を与える(あた  )ほどなのである。
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 8さらにヒトの場合には、それぞれの個体が自らの直接の経験に基づいて知識を集積するばかりでなく、他の個体の経験を言語などを媒介(ばいかい)とすることによって利用することもできる。つまり、学習が社会的な性格を持つに至っている。9ヒトの個体の生存や種族維持(いじ)は、それぞれの個体ごとの経験に基づく知識にばかりでなく、文化という形において集積された他の個体の経験を摂取(せっしゅ)しうる(自分のものとしうる)ことにも依存(いぞん)している、とさえ言ってよいであろう。こうして集積された知識がなければ、ヒトはいかにも無力な動物なのである。0
 ここで、学習とか知識とかいう用語が、必ずしも日常的用語と、意味において一致(いっち)していないことを注意しておこう。ここでの学習とは、単に学校などでする学習というだけの意味ではなく、様々な経験に基づいて外界についての知識を獲得(かくとく)することとほぼ同義である。また知識というのも、個別的な事実についての知識(いわゆる断片的な知識に近い)や、判断・実行の手続きについての知識ばかりではない。ここでいう知識は、外界の事物、自分自身、及び(およ )その関係についてのある程度体系だった情報も含む(ふく )。ヒトは、このような情報の体系を持つことによって生きのびてきたのだし、また、現在の社会でもこうすることによって初めて有能に行動しうるのである。
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a 長文 5.3週 ma
 1話し上手の人がいます。しかし、その人をおしゃべりとは呼ばないでしょう。そのことを私なりに考えてみますと、饒舌(じょうぜつ)の人は、とかく「間(ま)」をとることに気が回らなかったり、「間」の必要を感じていない場合が多いのに対して、話し上手とよばれる人は、意識して、あるいは無意識のうちに、うまく「間」をとり入れている違い(ちが )があるように思います。
 2「旅は道づれ」と言いながら、おしゃべりの人といっしょの長旅には疲れる(つか  )という人は少なくないでしょう。
 また、相手とのあいだの沈黙(ちんもく)の時間に耐えがたく(た    )て、「サーヴィス()」の気持ちから何とかおしゃべりして「間を持たせる」というときも確かにあります。
 3相手が何と思おうとわたしゃ知らぬとばかり構えて口を閉じていられる人はいいのですけれど、心遣い(こころづか )がこまやかであると、とかくこういう場合、口数が多くなります。
 4しかし、困るのは、「サーヴィス()」のつもりがいつのまにか自己弁護や自己顕示(けんじ)になり、果ては自己陶酔(とうすい)になっているのにも気づかずという場合です。
 5いかなる名言、名文句も、同類のものがただすきまもなく積み重ねられるだけでは効果乏しく(とぼ  )、文章の力みも、ただそればかりでは弱みに転じてしまうのは苦い教えです。
 6適宜(てきぎ)、風を吹か(ふ )せながらの饒舌(じょうぜつ)であれば、聞き逃さ(のが )れることも少なく、風のあいだに相手が連想し想像し思考する余裕(よゆう)を与え(あた )ておいて、更に(さら )たたみかけるのもいいでしょう。7風も通さない饒舌(じょうぜつ)は、聞いているほうも苦しくなり、終わった時には、さて、何を聞いたのかということにもなりかねません。
 8余韻(よいん)とか余情、ふくみ、それらはすべて、「間」のいかし方にかかわっているように思われます。思わせぶりな「間」は、いい余韻(よいん)にも余情にもならないでしょう。とすると、自然に「間」を必要とするのは、必要とするだけの実質をそなえているもの、ということになるのでしょうか。
 9荻須(おぎす)高徳(たかのり)のパリの風景画で、忘れられない油彩(ゆさい)があります。号数を正確には言えません。畳(たたみ)三分の一帖(じょう)くらいと思ってくださ
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い。空も建物も道もうす暗いパリの町角。ただ一点、遠景の塔(とう)らしきものに朱(しゅ)が入っていて、そこに向かって画面が収斂(しゅうれん)されていくのです。
 「間」のことを思う時に、私はよくこの朱色(しゅいろ)を見ています。0

(竹西寛子(ひろこ)『国語の時間』による)
饒舌(じょうぜつ)…多弁なこと。おしゃべり。
自己陶酔(とうすい)…自分自身にうっとりすること。
適宜(てきぎ)…その場合・状況(じょうきょう)にぴったり合っていること。
荻須(おぎす)高徳(一九〇一〜一九八六)…洋画家。
号数…絵画作品の大きさを示すのに用いる番号。
収斂(しゅうれん)…一点に集まること。
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a 長文 5.4週 ma
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 働きはじめた記念に、腕時計(うでどけい)を買ってくれたのは、兄であった。それに寿命(じゅみょう)がきて、自分のふところから次の時計を購っ(あがな )た。そのころ流行らなかったアラビア数字の文字盤(ばん)のを選んだのは、父の古い懐中時計(かいちゅうどけい)に対するあこがれが、心の底に残っていたからだろうと思う。安価なものだったが、寿命(じゅみょう)は長かった。いまのは四代目になるが、例の液晶(えきしょう)時計である。毎日ネジを巻いてもやらないのに、健気にも正確に動いている。何だか、自分自身、そして、この世に在る働き好きの男や女に似ているようで、つらくなる。
 働いて働いて、その行くさきが、働く同士のしあわせならいうことはないが、その逆になるのだったら、これは困る。
 そんな、時計の針を逆まわりさせるようなことに、私の時間を使いたくないし、使われたくない。
 村の駅にあったあの振子(ふりこ)時計は、戦場に送られるたくさんの若者と、白木の箱になって帰ってきたたくさんの若者をしっかりと見ていた。その時計は、いまははずされて、電気時計にかわっている。けれども、そのあたらしい元気ものの駅の時計に、古い振子(ふりこ)時計が見たものと同じものを見せたくない。
 私たちの時計、目に触れる(ふ  )あらゆるまちの時計に、かつて犯した人間にそむく歴史の時間をふたたびきざませていいものか。
 時計は何故(なにゆえ)、時をきざむか。
 私たちは、何故に時間を恵まれる(めぐ   )のか。つまり私たちは、何故こうして生きて、暮らしているのだろうか。よくはわからないけれどもただひとつ言えることは、人の命を奪っ(うば )たり奪わ(うば )れたりする戦争なんかのためではない、ということである。私たちが、これからどう生きるか、それを時は見守っている、と思う。私たちのあらゆる時計に、あやまった歴史をきざませてはなるまい。

(増田れい子『インク壺(つぼ)』)
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 1昔の人の脳と、いまの人の脳は、どう違う(ちが )か。
 昔の人の骨と、いまの人の骨、これはどう違う(ちが )か。私が現物について、いくらか知っているのは、骨のことでしかない。その骨から考えるなら、四、五万年前このかたの人類は、根本的にはいまの人と同じ骨をしている。2だから、その頃(  ころ)から現代まで、人は同じような脳をしていたに違い(ちが )ない。そういう結論になる。
 それ以前の人は、どうか。それなら、人類学でいう旧人、すなわちネアンデルタール人のことになる。これはもう、いまの人とは、骨がはっきり違っ(ちが )ている。3実際に旧人は、われわれとは、脳がかなり違っ(ちが )ていたのではないか。私はそう疑っている。
 では、旧人と、いまのわれわれ、すなわち新人は、どこが違う(ちが )か。最大の違い(ちが )は、新人におけるシンボル体系の存在と、その豊富さであろう。4要するに、お金とかお守りとか、賭け事(か ごと)とかバクチとか、科学とか宗教とか、芸術とか演劇とか、それ自体は実用に役に立たず、約束事で成立するもの、そういうものが、旧人にはあまりなかったと思われる。
 5われわれが常識としているような種類の言語、これも旧人では欠けていたか、不十分だった可能性が高い。そう私は考えている。ことばは、シンボル体系の典型だからである。
 見てきたわけでもないのに、そんなことが、なぜわかるか。6それは、それに関する遺物が、旧人の遺跡(いせき)からは出てこないからである。クロマニョン人、すなわち新人になると、突然(とつぜん)、洞窟(どうくつ)の壁画(へきが)が出てきたりする。あんな見事な絵は、私にはとうてい描け(えが )ない。あるいはお守りらしい、わけのわからぬ細工ものが出る。7それが旧人だと、石で作った刃物(はもの)の類ばかり。これは実用性が高い。道具を見るかぎり、ある程度以上古い時代の人たちは、たいへん実用的だったということになる。
 それでは面白くない。昔の人には、いまの人にない超(ちょう)能力でもなかったのか。8それは、さまざまなマンガに描か(えが )れているから、そういうものを見てくださればいい。いまの人が超(ちょう)なんとかを好むのは、いつも思うのだが、自然への感受性を失ったからであろう。自然を見ていれば、それ自体がほとんど超(ちょう)能力に見える。9
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長文 5.4週 maのつづき
よく考えてみれば、不思議なことばかりなのである。もしその具体例を、自分の経験から思いつけないとすれば、あなたはすでに自然への感覚をほとんど失っている。自然がもはや不思議とは思えなくなっているからである。0
 さてそれが、同じ新人のなかでの昔の人といまの人、そのいちばん大きな違い(ちが )であろう。自然の実在と、自然の不在。いまの人はおおかた人工環境(かんきょう)に住む。これはなんでもないようだが、人間の思考をすっかり変えてしまうはずである。そこには自然がない。あるのは、人の作ったものばかり。まわりがすべてそれなら、人はそれだけを考えるようになる。それしか、ない。
 そうなると、脳はどうなるか。わが世の春であろう。人工環境(かんきょう)とは、脳が作ったものだからである。脳は脳のなかに住む。それ以外のものは、邪魔(じゃま)だ。こうして、われわれ現代人の持つ脳は、脳のなかに置かれた脳、それだけになった。
 じつはそれは、脳だけではない。同じ新人でも、古い骨を見ると、ずいぶんと使い込ん(つか こ )であることがわかる。たとえば噛む(か )ことに関係する部分は、昔の人では、たいへんよく発達している。それに比べて、現代人はほとんど「家畜(かちく)」といってもいいであろう。固いものなど、子どもの頃(ころ)から噛ま(か )ない。
 現代人は、水や食物を探しに行く必要はない。ただ冷蔵庫をのぞけばいい。したがって、そういうものの、自然の「ありか」に対する感覚はない。気温は調節されてしまう。だから身体が調節する必要はない。そうした生活でできあがるのが、われわれの脳である。それはきまりきった生活に慣れた、家畜(かちく)の脳であろう。
 人は多くの動物を家畜(かちく)化した。次はもちろん人間の番である。私は頭骨を二つ、机の上にいつも置いている。一つは野蛮(やばん)人のもので、もう一つは、家畜(かちく)人のものである。長いあいだ置いておくと、どうしても野蛮(やばん)人の骨のほうが、骨として見事だという気がしてくる。だから、私が贔屓(ひいき)するのは、野蛮(やばん)な脳である。私の感覚が、おそらく野蛮(やばん)なのであろう。

 (養老孟司(たけし)『脳のシワ』)
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a 長文 6.1週 ma
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 1机の横にコピーに使った紙が積んである。裏の白いところを生かしてメモ用紙にしているのだ。何か用事を思い出すと、さっとメモをとる。計算用紙のかわりにもなるし、作文の構成用紙のかわりにもなる。2折りたたんで暗唱用紙のかわりにすることもできる。一枚の薄い(うす )紙が、いろいろな形で役に立つ。この紙にひとまとまりの文字を載せる(の  )と、文章の書かれた紙となる。手紙やレポートは、だれかに自分の考えを伝える道具だ。3その道具をいちばんの土台で支えているのが、この紙とペンである。私は、この紙のように、さまざまな情報を載せる(の  )ことのできる教養の大きな受け皿になりたい。
 そのためには第一に、白紙のように、何でも素直に受け入れる心を持つことだ。4日本の昔話に「わらしべ長者」がある。一本のわらにアブをつけて持っていた男が、そのわらしべをミカンと交換(こうかん)する。やがて、そのミカンを反物と交換(こうかん)し、反物を馬と交換(こうかん)し、馬と交換(こうかん)に家をもらう、という話だ。自分自身の教養を高めるためには、このように何でも素直に受け入れる心が欠かせない。5世の中には、相反する意見や情報も多い。それらを先入観なく受け止める心の広さが必要なのだ。
 第二の方法は、逆に、素直に受け入れたものの中から、自分に必要なものを選択(せんたく)する勇気だ。6日露(ろ)戦争は、日本の命運を決める戦争だったが、この戦争を遂行(すいこう)した日本のリーダーたちが共通して持っていたものは、困難な選択(せんたく)を敢えて(あ  )する勇気だった。日本が立ち上がることによって初めて東アジアはロシアの支配をはねのけ自立することができた。7また、日本の勝利は世界の有色人種の自覚を促し(うなが )、その後の世界史の流れを変えた。何でも受け入れる素直な心は、選択(せんたく)し決断する勇気と組み合わされることによって初めて価値あるものとなる。
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 確かに、自分の得意な特定の専門分野を持つことも必要だ。8それは、紙で言えば、自由に書き込める(か こ  )白紙ではなく既に(すで )印刷された紙だろう。情報が印刷された紙には、それなりの価値がある。しかし、それは、その特定の目的以外に使うことができない。9新聞紙の場合は、印刷されていても、弁当の包み紙に使うこともできるが、それは本来の用途(ようと)とは言えない。私たちに必要なのは、たくさんの古新聞ではなく、たくさんの白紙だ。机の横に積まれたメモ用紙を生かして、自分らしい広い教養を育てていきたい。0

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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長文 6.1週 maのつづき
 1人間の生涯(しょうがい)は物事を学び続ける果てしない旅である。この世に生まれた瞬間(しゅんかん)から、人間は学び始める。いや、それ以前、母親の胎内(たいない)ですでに学習は始まっているらしい。そして、人生八十余年を迎え(むか )ても、何事かを学ぼうとする。
 2ある学者は、研究報告書のなかで、人間が最もすばらしい学習能力を発揮するのは生まれてからの数年間であるとのべている。なにしろ、子供は、言葉という、ホモ=サピエンスがつくりあげたもののうちで最も複雑なものを、わずかな期間で習得してしまう。3言うまでもなく、赤ん坊(あか ぼう)は決して本能によって言葉をしゃべるのではなく、学習して覚えていくのであり、置かれた状況(じょうきょう)しだいで、世界中のどの言語でも覚えてしまうのである。このような幼児期における言語の習得を出発点として、幼年期から青年期へ、中年期から老年期へと、生涯(しょうがい)にわたって学習は続く。
 4何事かを学ぶことができるというのは、生物として優れた能力をもっているしるしである。猫(ねこ)や犬もものを学ぶという優れた能力をもった動物ではあるが、彼ら(かれ )は、生涯(しょうがい)の早い時期に学ぶことをやめてしまっているように思われる。5人間が他の動物と比較(ひかく)して異なることの一つは、いつまでも学び続けるという点にある。
 ものを学ぶとは、何か新しいことを知ったり、何か新しい能力を身につけたりすること、そして、それらをさらに深めたり高めたりすることである。6人間が生涯(しょうがい)にわたって学び続けていくには、エネルギーとなる何かがなければ、それは容易なことではない。では、そのエネルギーとなるものは何か。たとえば、花の名前を一つ知ったとする。すると、野原一面に咲き乱れる(さ みだ  )花の中から、その花を探す楽しみが生まれ、見つける喜びが生まれる。7もっと多くの花の名前を知れば、探す楽しみや見つける喜びは増大することになる。つまり、このような楽しみや喜びが、エネルギーとなるのである。
 8それぞれ、学び方や学びとるものの違い(ちが )はあれ、このエネルギーが、さらに学習意欲をかきたてる。学校や家庭での勉強だけが勉強ではない。人生のさまざまな場面で、さまざまな状況(じょうきょう)のなかでいつも勉強がある。9学ぶエネルギーを実感するためにも、人間は、いつまでも学び続ける人生を送るのである。人間が味わう
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充足(じゅうそく)感や感動の大半は、ものを学ぶことから生まれるのではなかろうか。0

(注)ホモ=サピエンス…人間の動物学上の名称(めいしょう)
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a 長文 6.2週 ma
 1見テ 知リソ
 知リテ ナ見ソ
 見てから知るべきである、知ったのちに見ようとしないほうがいい、という意味でしょうが、じつはもっと深い意味があるような気がする。つまり、われわれは「知る」ということをとても大事なこととして考えています。2しかし、ものごとを判断したり、それを味わったりするときには、その予備知識や固定観念がかえって邪魔(じゃま)になることがある。だから、まず見ること、それに触れる(ふ  )こと、体験すること、そしてそこから得る直感を大事にすること、それが大切なのだ、と言っているのではないでしょうか。
 3ひとつの美術作品にむかいあうときに、その作家の経歴や、その作品の意図するものや、そして世間でその作品がどのように評価されているか、また有名な評論家たちがどんなふうにその作品を批評しているか、4などという知識が頭の中にたくさんあればあるほど、一点の美術品をすなおに、自分の心のおもむくままに、見ることが困難になってくる。それが人間というものなのです。
 5実際にものを見たり接したりするときには、これまでの知識をいったん横へ置いておき、そして裸(はだか)の心で自然にまた無心にそのものと接し、そこからうけた直感を大切にし、そのあとであらためて、横においていた知識をふたたび引きもどして、それと照らしあわせる、こんなことができれば素晴らしいことです。6そうできれば、私たちのうる感動というものは、知識の光をうけてより深く、より遠近感を持った、豊かなものになることはまちがいありません。しかし、実はこれはなかなかできないことです。
 7では、われわれは知る必要がないのか、勉強する必要もなく、知識をうる必要もないのか、というふうに問われそうですが、これもまたちがいます。そのへんが非常に微妙(びみょう)なのですが、柳(やなぎ)宗悦(むねよし)が戒め(いまし )ているのは、知識にがんじがらめにされてしまって自由で柔軟(じゅうなん)な感覚を失うな、ということでしょう。8おのれの直感を信じて感動しよう、というのです。どんなに偉い(えら )人が、どんなに有名な評論家が、自分とまったく正反対の意見をのべていたり解説をしていたとしても、その言葉に惑わさ(まど  )れるなということです。
 9作品と対するのは、この世界でただひとりの自分です。自分には自分流の感じかたがあり、見かたがあります。たとえ、百万人の人が正反対のことを言っていたとしても、自分が感じたことは絶対なのです。0しかし、また、その絶対に安易によりかかってしまう
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と人間は単なる独断と偏見(へんけん)におちいってしまう。
 自分の感性を信じつつ、なお一般(いっぱん)的な知識や、他の人びとの声に耳をかたむける余裕(よゆう)、このきわどいバランスの上に私たちの感受性というものは成り立たねばなりません。それは難しいことですが、少なくとも柳(やなぎ)宗悦(むねよし)の言葉は、私たちに「知」の危険性というものを教えてくれます。

(五木寛之(ひろゆき)「生きるヒント」)
(注)見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ…柳(やなぎ)宗悦(むねよし)の言葉。
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a 長文 6.3週 ma
 1落ちて来たら
 今度は
 もっと高く
 もっともっと高く
 何度でも
 打ち上げよう
 美しい願いごとのように
 
 この詩は、作者がある雑誌の依頼(いらい)で、子どもが紙風船で遊んでいる一枚の写真につけたものだそうです。2紙風船は打ち上げてもまたふわりふわりと落ちてきます。宇宙船の船内なら上がったままでしょうが。願いごとも多くの場合、すーっと落ちてきます。
 この詩のいのちは、
 美しい願いごとのように
というすばらしい「比喩(ひゆ)」にあると言えるでしょう。
 3作者は、この詩について「風船はどんなに高く打ち上げても、それは地に落ちる」「願いごとの多くはむなしい」というニュアンスから、どうしたら抜け出す(ぬ だ )ことができるかに努力したと述べています。4この詩を読むと、いつも光さす空を見ていよう、紙風船が落ちてくるのに目をとめるより、何度も打ち上げるそのことに生きる証を見つけよう、というような祈り(いの )に似た詩の心が伝わってきて、励まし(はげ  )さえ感じます。
 5いつだったかテレビの料理番組で、料理の先生が「なるべく(産地が)遠くの味噌(みそ)をあわせて(まぜて)使うと、おいしい味噌汁(みそしる)ができる」と話しているのを聞いて、言葉も同じだなと思いました。
 「月とスッポン」ということわざがあります。6二つの物があまりに違い(ちが )すぎる、不相応だという意味ですが、このことわざ自体、月とスッポンという非常に遠い物を結びつけて、「月とスッポンのようだ」としているために、長くわたしたちの印象に残ることとなったとわたしは思います。
 7比喩(ひゆ)を、日常の会話でも効果的に使うと、表現が生きてきます。「赤ん坊(あか ぼう)が激しく泣く」というより「赤ん坊(あか ぼう)が火がついたように泣く」、といったほうが印象の強い表現になります。また、比喩(ひゆ)は詩歌で古来重要な働きをしてきました。
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 8ところでいつだったか、これもテレビで見たのですが、スポーツ評論家のSさんが、こんな話をしていました。
「フォークボールの投げ方を選手に教えるのに、球をこう握っ(にぎ )てこうして投げるんだよと、動作で見せるばかりでなく、カーテンのヒモを下へ引っ張るように――という例えで話してやると、印象強く、よりよく伝えることができる」
 9驚き(おどろ )ました。フォークボールを投げるというような肉体的な技術は、その動きをやってみせることが最上の、それ以外にない教え方だと思っていましたが、そこに比喩(ひゆ)が大きな働きをするなんて!0

(川崎(かわさき)洋「教科書の詩を読みかえす」から)
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a 長文 6.4週 ma
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 近頃(ちかごろ)、いろいろな分野で「二世」が目立つ。スポーツ界をはじめ、芸能界や政界にまで、二世の活躍(かつやく)する場は及ん(およ )でいる。人間のさまざまな能力について、「遺伝」と「環境(かんきょう)」のどちらが影響(えいきょう)を与える(あた  )のかというテーマは、古くから議論されてきたものである。二世の活躍(かつやく)などを見ると、人間の容姿や才能、性格などを決めるのに、やはり遺伝のほうが育った環境(かんきょう)より重要と言っていいのだろうか。
 いや、必ずしもそうとはいえない。ここでは、生まれてすぐに人間の手を離れ(はな )て育った「野生児」の例を取り上げてみよう。一九二〇年にインドの森で見つかり、カマラ(八歳(さい)半)とアマラ(一歳(さい)半)と後に名付けられた二人の少女は、オオカミに育てられた子供として知られている。発見当時、二人ともオオカミの住んでいる穴から出てきて、オオカミと同じように行動した。
 もしくは、四足歩行をおこない、舌を垂らしたままで何度もくり返し吠える(ほ  )のである。また、光を怖がる(こわ  )一方で、夜は活動的になり、毎日四時間ほどしか眠ら(ねむ )なかった。飲み物はペチャペチャなめ、食べ物は肉食に偏っ(かたよ )ていて、うずくまった姿勢で食べた。行動ばかりか、体の形にまで野生生活の影響(えいきょう)が現れていた。手のひらや肘(ひじ)、膝(ひざ)、足の裏の皮膚(ひふ)が、厚く硬い(かた )かたまりになっていたのである。
 二人は見つかってから孤児(こじ)院で育てられたが、二足歩行するまでに六年もかかるなど、ゆっくりとしか個性は現れなかった。
 この野生児の例をみると、容姿には遺伝が深く関わっているが、行動や性格の発達に関しては、生後まもなくからの、子供の置かれた環境(かんきょう)がきわめて重要なことがわかる。

(大石正道『遺伝子組み換え(く か )とクローン』)
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 1ところが、そのキツネザルにすら、「ことば」もどきは存在する。例えば彼ら(かれ )の天敵にあたるような捕食(ほしょく)動物が近づいてきた場面を思い描い(おも えが )てみよう。そういうとき彼ら(かれ )は独特の声を出す。この声を耳にすると、周辺にいる仲間(同種個体)はただちに自らの身を守る防御(ぼうぎょ)反応を行う。2結果として群れに危険の接近を周知する機能を実行しているところから、警戒(けいかい)音と命名されている。
 ただし、天敵の種類はさまざまである。大別しても、空からやって来るものと、地表から来るものとがある。それによって防御(ぼうぎょ)の手段の講じ方も、おのずと異なってくる。3空からの場合は、地表近くへ身を伏せ(ふ )た方がよい。だが、もし地表から危険が迫っ(せま )てきているのに、空からのときのように逃避(とうひ)を企てる(くわだ  )と、とんでもないことになる。
 そこで淘汰(とうた)圧が働き、キツネザルは複数のタイプの警戒(けいかい)音を出すにいたったのだった。4例えばAとBという二種類の声が存在するとしよう。空から捕食(ほしょく)動物がやってくるとAの声を出す。すると、聞いた仲間は地表へ逃げる(に  )。他方、地表から敵が来るとBの声を出す。その際は、仲間は木の上へと逃れる(のが  )。
 5AもBも、警戒(けいかい)警報である。ただしAは空からの危険、Bは下からの危険を意味している。これは、ほとんど単語による表現に近い。そういう観点では、彼ら(かれ )も記号的コミュニケーションを行っていることになる。
 6それどころか、彼ら(かれ )の方が人間よりも、厳密に仲間の発する音声を記号的にとらえているのである。ヨーロッパの昔話で、いつもいつも「狼(おおかみ)が来た」とウソを村人に伝えて驚か(おどろ )せては喜んでいた少年の物語というのをご存知だろう。7村人たちは、はじめは信じこんでびっくりしていたが、そのうち誰(だれ)も信じなくなった。あげくのはてに、本当に狼(おおかみ)が来ても誰(だれ)にも助けてもらえず、羊を食べられてしまった少年のエピソードである。
 ああいうことは、キツネザルでは起こらない。8彼ら(かれ )だったら極端(きょくたん)なケースとして、一〇〇万回「狼(おおかみ)が来た」といわれても、やはり逃げる(に  )ことだろう。警戒(けいかい)音の認識に、音以外の手がかりは
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長文 6.4週 maのつづき
介入(かいにゅう)しない。ともかく身の危険にかかわることだから、少々いかがわしい情報であっても、とりあえず信じた方が安全、という発想が働く。9サルの理解の仕方は、柔軟性(じゅうなんせい)に欠けるのだ。
 「柔軟性(じゅうなんせい)を欠く」と書くと、融通(ゆうずう)がきかず頭が悪いみたいに聞こえるかも知れない。しかしシグナルの記号としての意味作用に忠実であるという意味では、人間より抽象(ちゅうしょう)度の高い認識を行っていると言い換える(い か  )こともできなくはないのではないだろうか。0
 人間は、過去の経験にもとづいて、ことばの意味理解を変えていく。反対にこのことは、発話を行う側も、常に相手に聞き入れてもらえるよう配慮(はいりょ)して話をすることを意味している。そして、聞き手は相手がこちらを意識して話をしていることに気づいている以上、その意図を把握(はあく)しつつ、発話内容を吟味(ぎんみ)する。
 考えてもみよう。「君は、よく勉強するね」といわれたにせよ、それが字面通りの誉め(ほ )ことばなのか、「勉強しない」ことへの皮肉なのかは、文字の配列から判断することは不可能に近い。相手の顔色を読み、状況(じょうきょう)を斟酌(しんしゃく)し、あるいは話し手の普段(ふだん)の言行を参照しなくてはならない。
 つまり言語理解というのは、意外なほど記号的でなくて、反対に相手の心を読む(発話を手がかりに心理を推測する)過程であることがわかる。むしろサルの方がよっぽど厳密に記号類別に依拠(いきょ)して情報伝達を行っているのだ。
 ところが、最近の日本人を観察してみると、そのコミュニケーションはこの言語進化の進んできた方向を逆行しているように思えてならない。つまり、ことばのメッセージを常に記号として把握(はあく)する傾向(けいこう)が高まっている。そして、そういう認識の仕方をサルが実行している以上、サル的な方向へとコミュニケーションのスタイルを変えてきたという結論にたどりつくのだ。(中略)
 こうみてくると、昨今の日本人のコミュニケーションの特徴(とくちょう)である「サル化」とは、すなわち語用論能力の衰退(すいたい)と表現することができる。そして、その傾向(けいこう)の背景としては、社会のIT化、人間同士の情報伝達がケータイのような代物への依存(いぞん)度を大きく増したことが考えられるのだ。
 (正高信男『考えないヒト』)
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