a 長文 4.1週 ma
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
 白いラブラドール・レトリバーが横断歩道のところで、おとなしくおすわりをしていた。信号が青になると、すっと立ち上がり、急ぐでもなく遅れるおく  でもなく、横にいる人と同じペースで静かに歩き出した。若い盲導犬もうどうけんの訓練風景を見たとき、こういう犬がいることによって外出が可能になる人も多いのだろうと感心した。盲導犬もうどうけんの訓練は、人間に忠実な犬の性格があるからこそできる。その証拠しょうこに、ペットとしてねこを飼っている人は多いが、盲導もうどうねこというのは聞いたことがない。獰猛どうもうねこならたまにいるが。頼れるたよ  動物という点では、犬の右に出るものはいない。私たちは、この「頼るたよ 」ということをもっと生活に生かしていく必要がある。
 その理由は第一に、頼るたよ ことで自分の本当にしたいことの能率が上がるからだ。コンピュータ・プログラミングの世界では、「車輪を作るな」ということが言われる。人類の歴史で最初に車輪を発明した人は、最初に文字を発明した人と同じように、その後の人類の歴史に大きな貢献こうけんをした。車輪は、現在の交通手段のほとんどに欠かせないものだ。しかし、荷車を作る人が、自分のオリジナルなものを作りたいからといって車輪を作ることから始めたら、人間の歴史は進歩しなかっただろう。先人が既にすで 発明した車輪を前提にして、その土台の上に仕事をすることが能率のよい発展につながったのだ。
 頼るたよ ことを生かすという第二の理由は、頼りたよ たがらないときの心理が往々にして、消極的な気持ちから来ているからだ。自信のない人ほど人に聞くのを恥ずかしは   がるということがある。よくわからないことは素直に聞くということが自分の向上にもつながる。アウト・ソーシングという手法は、自分の苦手なことは他人に任せるという考えに基づいている。サッカーのようなチーム・プレーでも、自分ひとりでゴールをねらうのではなくチーム全体として勝つという発想が必要だ。
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 確かに、自分の力でやりぬくという気迫きはくも人生には必要だ。小さい子供は、失敗を恐れおそ ずに何でも自分の手でやりたがる。しかし、それは、自分の手でやることが本人の成長に結びついているから必要なのだ。私たちは、自分の手でやりとげるためにこそ、他人の手を生かすという考え方をする必要がある。盲導犬もうどうけんが必要な人も確かにいる。しかし、それは、その人が自分の目的を達成するために頼るたよ 方法なのであって、決してラブラドールが主人なのではない。最後の一歩を自分の足で歩くために、途中とちゅうの行程はさまざまな手段に頼るたよ ということなのである。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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長文 4.1週 maのつづき
 脳の研究をしていてしばしば尋ねたず られることの一つが、頭の良さは遺伝で決まるのか、それとも環境かんきょうで決まるのか、といういわゆる「氏か育ちか」の問題である。
 一卵性双生児いちらんせいそうせいじを対象とした研究などによれば、知能指数といった指標で測られる知性に与えるあた  遺伝子の影響えいきょうは大体半分くらいらしい。しばしば、保守的な人は遺伝子の、リベラルな人は環境かんきょう影響えいきょうを重視する傾向けいこうがあるが、そう簡単に政治的立場だけで決めつけられる問題でもない。遺伝子の影響えいきょうが全くないはずはないし、育てられ方で変わらないはずもない。天才科学者の子どもが必ず天才になるわけではないし、親が勉強嫌いぎら でも、子どもは向学心に燃える、ということはある。氏と育ちは、半々くらい、というのは、私たちの常識的なセンスに照らしてみても、妥当だとうな線である。別の言い方をすれば、今の科学の水準では、そのような「常識的なセンス」を越えるこ  ような結論は得られないということになる。
 それにしても、「頭の良さは、遺伝か、それとも育てられ方か?」と質問されて、「氏と育ちは半々である」と答えるだけでは、あまりにも芸がない。何よりも、学問としての深みがない。何かもっとうまい答え方はないものか、と折に触れふ て考えていた。
 先日、漫画まんが家の萩尾はぎお望都さんと対談した時のことである。打ち合わせの時に、萩尾はぎおさんが、「今日は茂木もぎさんに、遺伝子と環境かんきょう、どっちが重要なのか、お尋ね たず したいと思っています」と言われた。さて、これは困った、と思った。何時ものように、「半々なのですよ」と答えるのでは、あまりにも芸がない。萩尾はぎおさんのようなカリスマ漫画まんが家には、もう少し気の利いたことを言いたい。何とかしなければ、と思いながら廊下ろうかを歩いているうちに思いついた。人間、追いつめられると何とかなるものである。
 人間の知性の本質は、その「終末開放性」(open ended ness)にある。そのことが、「氏か育ちか」ということを考える上で、本質的な意味を持つと直覚した。このアイデア一つの向こうに、様々な問題群が広がっていることもすぐにわかり、私
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はほっとすると同時に嬉しかっうれ   た。「半ばは遺伝で、半ばは環境かんきょうである」といった回りくどく「政治的に正しい」言い方の不自由さにはない、学問的広がりがそこにあるように感じたからである。
 人間の脳は、心臓と同じで、休むことがない。それに伴っともな て、脳内の回路は一生学習をし続ける。大人になっても、脳の組織が完成して固定化してしまうことなどなく、神経細胞さいぼうのシナプス結合のパターンは生涯しょうがいの間変化する。ここまで回路ができあがったら、それで完成ということはないのである。
 従って、人間の脳の回路が、遺伝子によって決まっていたとしても、その「完成形」は原理的に存在しないことになる。たとえその最終的な「落ち着きどころ」(物理的に言えば、「熱力学的準安定状態」)が存在したとしても、せいぜい百年の寿命じゅみょうしかない人間の生涯しょうがいでは、そのような最終形を取るには至らない。人間の才能が、仮に遺伝子によって完全に決定づけられていたとしても、私たちはその最終的帰結を見ないままに、死んでいってしまう。内なるポテンシャルを十全に発揮しないうちに人生が終わってしまう無念は、アインシュタインやモーツァルトのような天才も、凡夫ぼんぷも変わることがないのである。
 人間の知性は、いつまで経っても完成形を迎えるむか  ことのない「終末開放性」をその特徴とくちょうとしています。だから、たとえ、遺伝子によってかなりの部分が決まっていたとしても、実際的な意味では決まっていないのと同じなのです。遺伝子によって決まっているという運命論など気にすることなく、前向きに生きれば良いのです。
 対談中、そのように萩尾はぎおさんに申し上げたら、「ああそうですか」とおっしゃる。それから、「じゃあ、茂木もぎさんのクローンを百代続けて作れば、遺伝子に書き込まか こ れていた帰結が見えるのかしら」と畳みかけるたた    。それはそうかもしれないが、単純にクローンを作成するだけでは、脳回路はリセットされてしまうから、最初からやり直さなければならない。本格的にやろうとすれば、クローンをつくる時に百さいの私の脳回路を「コピー」しなければならないが、そんな技術はもちろん存在しません。そう申し上げて、対談を切り抜けき ぬ た。
 (茂木もぎ健一郎けんいちろう『欲望する脳』)
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