1ふだん私たちは、コインを丸いものと見なしている。そして、百円玉、十円玉などと言う。もちろん、「丸い」とか「玉」と言っても、それは決してビー玉のような球形ではなく、つまり、正確には円盤形のことだと、誰でも承知している。2コインをテーブルなどの上に置いたとき、あるいは床や地面に落としたとき、見おろすと丸く見えるということだ。コインが自然に安定しやすい姿勢で置かれているとき、人間の視線の自然な角度から見ると、丸い。そこで、私たちは、「コインは円形だ。」という文を承認する。
3けれども、もちろんコインは、年じゅう円形に見えるわけではない。水平方向から眺めれば、あきらかに、薄い長方形に見えるはずだ。短い棒状に見えるはずだ。そして私たちには、そんなことはわかりきっているように思われる。4しかし、ものはためしに「コインは長方形だ。」という文を口に出して言ってみると、なぜか、まことに異様な発言をしているような気がする。
私たちは日常において、いつもある視点からある光景を見る。5視点だけではなく、人間の認識一般は、ある立場からの有限のアプローチである。その有限性は、たいてい、言語表現に反映してあらわれる。ある位置にあぐらをかいたまま、腕を組んで眺めているだけでは、ものの真相はよく見えない。6自分の認識が――したがって自分のことばが――有限で一面的だと、いつも承知している人は、やがて、実験的に自分の視点を変え、多様なアプローチをこころみることになる。
文学作品などにおいても、おなじひとつの事実を、きわめてことなることばで言いあらわすことがある。7視点がちがう。そのちがいは、おなじひとつのコインに対して「円形である」および「長方形である」という、まるで別の見かたが成立した事情と似ている。そして、そういった表現は、ヨーロッパに古くから伝えられた、たくみに表現する技術体系であるレトリックと深い関係にある。
8レトリックは、私たちの認識と言語表現の避けがたい一面性を自覚し、それゆえに、もっと別の視点に立てばもっと別の展望がありうるのではないか……と探求する努力のことでもある。創造力と想像力のいとなみである。
9たとえば、枝からはなれた果実が地面へ落ちるという事態を目撃したとき、たんに「りんごが地面へ落ちた」と考えるだけでは満足しないことである。0ことによると、「りんごに向かって地面が突進してきた」とも考えられはしないか、あるいは「りんごと地
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