a 長文 4.2週 ma
 ふだん私たちは、コインを丸いものと見なしている。そして、百円玉、十円玉などと言う。もちろん、「丸い」とか「玉」と言っても、それは決してビー玉のような球形ではなく、つまり、正確には円盤えんばん形のことだと、だれでも承知している。コインをテーブルなどの上に置いたとき、あるいはゆかや地面に落としたとき、見おろすと丸く見えるということだ。コインが自然に安定しやすい姿勢で置かれているとき、人間の視線の自然な角度から見ると、丸い。そこで、私たちは、「コインは円形だ。」という文を承認する。
 けれども、もちろんコインは、年じゅう円形に見えるわけではない。水平方向から眺めれなが  ば、あきらかに、薄いうす 長方形に見えるはずだ。短い棒状に見えるはずだ。そして私たちには、そんなことはわかりきっているように思われる。しかし、ものはためしに「コインは長方形だ。」という文を口に出して言ってみると、なぜか、まことに異様な発言をしているような気がする。
 私たちは日常において、いつもある視点からある光景を見る。視点だけではなく、人間の認識一般いっぱんは、ある立場からの有限のアプローチである。その有限性は、たいてい、言語表現に反映してあらわれる。ある位置にあぐらをかいたまま、うでを組んで眺めなが ているだけでは、ものの真相はよく見えない。自分の認識が――したがって自分のことばが――有限で一面的だと、いつも承知している人は、やがて、実験的に自分の視点を変え、多様なアプローチをこころみることになる。
 文学作品などにおいても、おなじひとつの事実を、きわめてことなることばで言いあらわすことがある。視点がちがう。そのちがいは、おなじひとつのコインに対して「円形である」および「長方形である」という、まるで別の見かたが成立した事情と似ている。そして、そういった表現は、ヨーロッパに古くから伝えられた、たくみに表現する技術体系であるレトリックと深い関係にある。
 レトリックは、私たちの認識と言語表現の避けさ がたい一面性を自覚し、それゆえに、もっと別の視点に立てばもっと別の展望がありうるのではないか……と探求する努力のことでもある。創造力と想像力のいとなみである。
 たとえば、枝からはなれた果実が地面へ落ちるという事態を目撃もくげきしたとき、たんに「りんごが地面へ落ちた」と考えるだけでは満足しないことである。ことによると、「りんごに向かって地面が突進とっしんしてきた」とも考えられはしないか、あるいは「りんごと地
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

面はたがいに引きつけ合った」と考えるべきではないか……と、さまざまな想像力を働かせることであろう。レトリックとはそのように多角的に考え、かつ多角的なことばによって表現してみることである。レトリックは発見的な認識への努力に近い。
 こんにち、価値の多様化ということがしばしば問題になる。それは、ものの見かたの多様性という問題でもある。ひとつの事実を眺めなが 、表現するにあたって、すべての人が、まるで統制を受けたかのように、おなじ視点からおなじことばで語る、という時代ではあるまい。人と人とが理解し合うことも、容易ではない。自分の視点と自分のことばづかいだけが正しいと信じきっている人は、想像力ないし創造力を欠いているために、自分とはことなる立場から見える景色を思いえがくことができない。肝心かんじんなのは、相手の立場、別の視点に立ってみればどんなぐあいにものが見えるか、ということを思いえがいてみる能力である。
 このように考えてみると、レトリック感覚は、発見的な認識には欠くことができない上に、人をできるだけよく理解するためにこそ必要なのだ、ということになる。新しい視野を獲得かくとくするためにも、また、相互そうご理解のためにも、こんにちほどレトリック感覚の必要とされるときは、かつてなかったように思う。

佐藤さとう信夫「レトリックの記号論」による。)
(注)アプローチ=接近すること。
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534