a 長文 6.2週 ma
 見テ 知リソ
 知リテ ナ見ソ
 見てから知るべきである、知ったのちに見ようとしないほうがいい、という意味でしょうが、じつはもっと深い意味があるような気がする。つまり、われわれは「知る」ということをとても大事なこととして考えています。しかし、ものごとを判断したり、それを味わったりするときには、その予備知識や固定観念がかえって邪魔じゃまになることがある。だから、まず見ること、それに触れるふ  こと、体験すること、そしてそこから得る直感を大事にすること、それが大切なのだ、と言っているのではないでしょうか。
 ひとつの美術作品にむかいあうときに、その作家の経歴や、その作品の意図するものや、そして世間でその作品がどのように評価されているか、また有名な評論家たちがどんなふうにその作品を批評しているか、などという知識が頭の中にたくさんあればあるほど、一点の美術品をすなおに、自分の心のおもむくままに、見ることが困難になってくる。それが人間というものなのです。
 実際にものを見たり接したりするときには、これまでの知識をいったん横へ置いておき、そしてはだかの心で自然にまた無心にそのものと接し、そこからうけた直感を大切にし、そのあとであらためて、横においていた知識をふたたび引きもどして、それと照らしあわせる、こんなことができれば素晴らしいことです。そうできれば、私たちのうる感動というものは、知識の光をうけてより深く、より遠近感を持った、豊かなものになることはまちがいありません。しかし、実はこれはなかなかできないことです。
 では、われわれは知る必要がないのか、勉強する必要もなく、知識をうる必要もないのか、というふうに問われそうですが、これもまたちがいます。そのへんが非常に微妙びみょうなのですが、やなぎ宗悦むねよし戒めいまし ているのは、知識にがんじがらめにされてしまって自由で柔軟じゅうなんな感覚を失うな、ということでしょう。おのれの直感を信じて感動しよう、というのです。どんなに偉いえら 人が、どんなに有名な評論家が、自分とまったく正反対の意見をのべていたり解説をしていたとしても、その言葉に惑わさまど  れるなということです。
 作品と対するのは、この世界でただひとりの自分です。自分には自分流の感じかたがあり、見かたがあります。たとえ、百万人の人が正反対のことを言っていたとしても、自分が感じたことは絶対なのです。しかし、また、その絶対に安易によりかかってしまう
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と人間は単なる独断と偏見へんけんにおちいってしまう。
 自分の感性を信じつつ、なお一般いっぱん的な知識や、他の人びとの声に耳をかたむける余裕よゆう、このきわどいバランスの上に私たちの感受性というものは成り立たねばなりません。それは難しいことですが、少なくともやなぎ宗悦むねよしの言葉は、私たちに「知」の危険性というものを教えてくれます。

(五木寛之ひろゆき「生きるヒント」)
(注)見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ…やなぎ宗悦むねよしの言葉。
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