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 科学は記述から始まる。現象をコトバで記述する。ある現象とあるコトバが厳密に一対一に対応しているならば、だれが現象を記述しても同じ記述になるはずだ。
 ところが、どっこい、そうはうまくゆかない。そのことは、記述から現象を再現してみればわかる。
 「白馬にまたがってやってきたのは、素敵な王子様だった」
 この記述から現象を再現してみることはできるけれども、人によって少しずつ異なった情景を再現するに違いちが ない。それでもまだ、白馬とか王子様とかの自然言語には、ある程度の共通了解りょうかいがあるので、キリンにチンパンジーがまたがっているような情景を思い浮かべるおも う   人はいない。
(中略)
 コトバの共通了解りょうかいについて、深く考えたのは、スイスの言語学者のソシュール(一八五七〜一九一三)である。
 ソシュールはまず、コトバの表記はいい加減であると言う。イヌのことをイヌと呼ぶのは適当に決まったのであって、別にさしたる理由があるわけではない。別の表記、たとえば、イコでもイポでもよかったのだ。それが証拠しょうこに英語ではdogという。これをコトバの(表記に関する)恣意しい性と言う。この話はだれにでもよくわかる。
 しかし、コトバの本当の恣意しい性はもっと深いところにある、とソシュールは言う。
 世界は連続的に変化する。我々はそれを適当に切り取って、コトバで言い当てようとする。コトバによる世界の切り取り方には根拠こんきょがない。これがソシュールの主張である。
 これはちょっとわかりづらいかも知れない。多くの人は、世界にあらかじめ何らかの実体があって、それに名前をつけていると思っているからである。
 それに対して、ソシュールは次のような主張をしたのだ。たとえば、イヌとかネコとかの実体が、あらかじめ世界にあって、それに対してイヌとかネコとかの名前をつけているのではなく、イヌとかネコとかの名前がつけられて、初めて、イヌとかネコとかの実体があるかのように見えるのだ。
 やっぱりわからない? それではこういう例はどうだろう。日本ではにじは七色である。色は可視光線の波長によって、徐々にじょじょ 変化する。それを七つに分断する根拠こんきょはない。しかし、七色あると言われて見れば、七色に分かれて見える。
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だから、にじの色が二色であるという言語があれば、その言語を使っている人にはにじは二色に見えるのである。実際にリベリアのバッサ語では、にじの色は二色であるという。(中略)
 コトバが世界にあらかじめある実体に、名前をつけただけのものでないことは、次のようなことからも理解できるかも知れない。
 我々が人にコトバを教えるのに何をするかと言えば、実物を指さして、コトバを言うのである。たとえば幼児に教える時に、犬を指さしてワンワンと言う。何度か繰り返しく かえ て教えると、幼児は見知らぬ犬を見ても、ちゃんとワンワンと言うようになる。もっともワンワンというコトバしか知らないと、ねこを見てもタヌキを見てもワンワンと言うかも知れない。
 幼児は、犬のはん例をいくつか見て、ワンワンというパターンを作り上げる。最初はねこもワンワンのパターンの中に入っているが、大人にそれはニャンニャンだよ、と言われて、ワンワンのパターンを修正する。だからワンワンというパターンは、現物を見ながら他人とのコミュニケーションを通して、構成されるのだ。
 個々の犬は確かに世界に実在するだろう。しかし、ワンワンというパターンは、幼児と無関係に世界に実在するわけではない。科学は記述なしには成立しない。だから科学はパターンが人によって異なるのはあまりありがたくない。そこでパターンを固定しようと努力することになる。我々の日常の世界では、コミュニケーションが成立すれば、イヌとは何か、ということが定義できなくとも、別に問題はない。しかし科学は、できることならばコトバを厳密に定義できるものにしたいのだ。しかし、今話したように、イヌというパターンが世界の中に実体として実在しているかどうかは非常に疑わしい。それは多分、人間の心の中に何らかのパターンとしてあるに違いちが ないのである。

 (池田清彦きよひこ『科学はどこまでいくのか』より)
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