a 長文 3.1週 me2
 晩秋の山あい、美しい落ち葉で彩らいろど れた岩清水の冷たさに、秋の旅立ちが近いことを感じます。明日の朝、しもがおりていたら、新しい冬の訪れが、もう間近です。
 ついさきごろ、小さいお子さんが書いた手作りの詩集を見せていただく機会にめぐまれました。一人は福島市在住の中学二年生、もう一人は横浜よこはま市在住の小学三年生、手書きの文字からにおいたつ、きらりとした描写びょうしゃは、日本が生んだ天才童謡どうよう詩人、金子みすゞ手書きの試作ノートにはじめてであったときのような新鮮しんせんさに満ちていました。
 近年、コミュニケーションの主役が、従来の手紙から電話や電子メールに移ってきているのは、何事もより速くということがいいことであるという現代の風潮を反映してのことでしょうが、この傾向けいこうは心の「輪郭りんかく」を不鮮明ふせんめいにするだけではなく、「考える」ということさえも日常生活から奪っうば てしまったかのように思われてなりません。面と向かって話せばわかることが、メールのやりとりでは、議論が空転し、あげくのはてに思考停止の状態になることすらあります。海外とのやりとりなどでは、たしかにメールほど効率のよいコミュニケーション手段はないと思いますが、一方では、隣り合わせとな あ  の机にすわっている人同士が、メールで事務連絡れんらくをとりあっている風景も普通ふつうになっていて複雑な気持ちです。
 私自身も、学生からの意見やレポートもメール、施設しせつ使用の申し込みもう こ から、成績評価など、すべてがメールというメール漬けづ の毎日で、精神的にも実質以上の多忙たぼう感にあおられています。パソコンの進化もめざましく、新しい機種に変更へんこうされるたびに、戸惑いとまど 操作を間違えるまちが  と画面上には、パソコンからのきついお叱りしか の言葉が飛び交い、あわてて、あちこちキー操作をしているうちに、突如とつじょ、かたまってしまって、にっちもさっちもいかなくなるという事態も日常茶飯事で、不器用な私は、神経質なパソコンに怒らおこ れてばかりの毎日です。
 それにひきかえ、昔のワープロは寛大かんだいでした。「おんがく」と打ち込めう こ ば、「音我苦」などと変換へんかんする余裕よゆうとユーモアに満ち、こ
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ちらが慣れるのを根気よく待ってくれていました。手書きからワープロヘ、そしてパソコンヘと転身する現代は、心が見えにくくなっていて、それだけに、手書きの詩集には新鮮しんせんな感動がありました。
 ところで、物理学といえば、ものごとのすべてを論理的にきちんと説明してくれる堅いかた 学問だと思っていらっしゃる方も少なくないでしょう。しかし、ほんとうは、かなり寛容かんような精神に満ちた学問だと思います。光の本性だって、粒子りゅうしであるとも波動であるとも、見る人の立場によって、いかようにでも見えることを許してくれますし、極端きょくたんな言い方をすれば、「月を見る心がないとき、月は存在するといえるのか」という議論まで、物理学の問題として考えることを許していてくれているのですから。となると、原子から宇宙までを論理の言葉で語ろうとする物理学は、もっともスケールの大きな現代の神話なのかもしれません。

(「夢見る科学」佐治さじ晴夫 より)
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