a 長文 7.1週 mi2
 1研究者をめざす多くの人は、「何を研究するか」(what)が一番大切だと思うかもしれないが、その前に「どのように研究するか」(how)という問題意識の方がより重要だと私は考える。
 2科学的な発想や思考、問題を見つけるセンスから始まって、理論的な手法や実験的な手技に見られる基本的な勘所(かんどころ)は、すべての分野に共通している。3その意味で、「どのように研究するか」という考え方や方法論をしっかり身につけておけば、どんな分野の研究でもできることになる。
 4逆に、「何を研究するか」のみを重視すると、ある分野の知識を蓄え(たくわ )たあとで研究分野を変えた時に、一からやり直しになるかのような気がしてしまいがちである。5その結果、同じ分野に安住することになり、新しい発想や異分野からの知見を取り入れることに、二の足を踏む(ふ )ことになりかねない。だから、まず「どのように研究するか」を十分に体得した上で、「何を研究するか」を考えた方が良い。
 6大学や大学院で始めた研究が、将来のライフワークとなる研究分野と一致(いっち)したとしたら、それはとても幸運なことだが、そうでなくともがっかりすることはない。7その過程で、「どのように研究するか」をまなぶことができたとしたら、それは研究者の卵として最大の財産になるに違い(ちが )ない。
 8「どのように研究するか」は、言い換えれ(い か  )ば模倣(もほう)の段階である。そして、「何を研究するか」は、創造の段階に対応する。すでに述べたように、この順番が大切だ。「一に模倣(もほう)、二に創造」である。
 9幅広く(はばひろ )科学の知識を吸収し、研究の仕方や考え方を確実に模倣(もほう)した上で、専門的な分野で創造的な研究に進むことが望ましい。ただし、模倣(もほう)するにしても、受身になって情報に触れる(ふ  )だけでは身につかない。0自分で吸収しやすいようにかみ砕く(くだ )必要がある。そのためには、やはり自分なりに考えなくてはならない。
 大学で講義の内容を一方的に説明するのでは学生を受身にさせているだけなので、私はできるだけ学生に質問を投げかけて、講義中に考えてもらうようにしている。ところが、学生に質問すると、オウム返しに同じ質問が返ってくることがしばしばある。
 たとえば、「フェヒナーの法則といって、感覚として感じる大きさは刺激(しげき)の強さの対数(注・累乗(るいじょう)の逆算法のひとつ。例えば一〇
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の二乗=一〇〇なら二)に比例することが知られていますが、これはどんなことに役立っていますか?」と質問すると、「それって、フェヒナーの法則がどんなことに役立つかってことですか?」と逆に切り返される。ほとんど反射的に質問の主導権を奪っ(うば )ておいて、それでいて考えようとしているようには見えないのがとても不思議である。質問を確認して質問者にボールを投げ返したら、あとはただ相手の出方を待つだけだ。実際、「そう質問したのですよ」と言うと、判で押し(お )たように黙りこくっ(だま    )てしまう。答えを述べる時でも、「○○じゃないんですか?」と質問調で返ってくることがあまりに多い。ずいぶんと不作法なやりとりに聞こえるだろうが、これは今時の風潮である。
 いつも受身で待っているだけの模倣(もほう)では、その内容を良く吸収できない。オウムが内容をわからずに同じフレーズ(句)をくり返すようなものである。反射的なオウム返しはやめて、知恵(ちえ)をはたらかせるべきだ。
 「光の強さや音の大きさに感覚の大きさが比例するのでは、すぐに飽和(ほうわ)してしまって環境(かんきょう)にある広い範囲(はんい)の刺激(しげき)に対して対応できません。対数に比例することで、動物が環境(かんきょう)に適応するのに役立っていると考えます」というように、自分の考えとしてはっきり述べるようにしたい。そうすれば、新しい知識が確実に自分のものになる。

(酒井邦嘉()『科学者という仕事』による)
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a 長文 7.2週 mi2
 1人間が他の動物と異なるところは、みずから築いた日常生活が、ときおり、なんともやりきれなくなり、無刺激(しげき)、無抵抗(むていこう)に耐え(た )られなくなる、という点にある。2それが、あるときは「不安」を呼びさまし、あるときは「反省」をもたらし、また、あるときは「おどろき」に染められる。こんなことでいいのだろうか、何の目的で自分は生きているのか、どうしてこのような毎日に安住しているのだろう、という目覚めである。
 3そして、そこから、その人の哲学(てつがく)が始まる。哲学(てつがく)とは、あたりまえのことが、あたりまえでなくなる瞬間(しゅんかん)に誕生するのである。
 などと言えば、「とんでもない」と反論する人がいるだろう。われわれの日常生活は、けっして安穏(あんのん)な砦(とりで)などではない。4生計をたてるために精いっぱい働かなければならず、職場での気苦労、家庭にあっても子供の教育、家族間の摩擦(まさつ)、健康上の不安、老後の設計、近親者の死、思いがけない事故……無刺激(しげき)どころか、こうしたストレスと戦うのが毎日の生活ではないか、と。
 5たしかに、それが生活というものであろう。だが、それだからこそ、人間はそのような日常性に取り込ま(と こ )れ、そこに浸り(ひた )きって、それを「あたりまえ」として受け取ってしまうのだ。「雑事にとりまぎれて、つい御無沙汰(ごぶさた)いたしております」と、よく手紙に書くように。6そして、「これが人生さ」と達観することになる。なぜなら、どんな苦しみも、愉(たの)しみも、おしなべて人生というパターンに取り込ん(と こ )でしまうのが、ほかならぬ日常性だからである。苦しければ苦しいなりに。愉しけれ(たの   )ば愉しい(たの  )なりに。
 7だが、慣れきった生活は、しだいに生きているという実感を喪失(そうしつ)させてしまう。すべてが習慣化してしまえば、人間はただきまったレールの上を滑っ(すべ )ていくだけである。8そこには何の抵抗(ていこう)もないが、まさにその無抵抗(むていこう)が倦怠(けんたい)をもたらし、倦怠(けんたい)はやがて名状しがたい不安へと、ぼくらを導いていく。そのすえにふと、あるときフランスの作家カミュの言葉を借りれば、日常性という「舞台(ぶたい)装置が崩壊(ほうかい)」する。彼(かれ)はこう書いている。
 9「とりたててこともない人生の来る日も来る日も、時間がぼく
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らをいつも同じようにささえている。だが、ぼくらのほうで時間をささえなければならぬときが、いつかかならずやってくる。」
 0人びとは、ふだん何も深く考えることもなく、時の流れるままに日常生活を繰り返し(く かえ )ている。いうなら、時間がぼくらをささえ、ぼくらはすべてを時間にゆだねている。けれど、いつか、確実に死に向かっている自分の生を考える瞬間(しゅんかん)が到来(とうらい)する。カミュは、それを「実存の目覚め」という。そして、ひとたび目覚めるや、ぼくらはこんどは自分で時間をささえねばならぬようになる、というのだ。哲学(てつがく)はここに始まる、と言ってもよい。

(森本哲郎(てつろう)『ぼくの哲学(てつがく)日記』による)
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a 長文 7.3週 mi2
1「消費は美徳」という時代が戦後長く続いてきた。しかし、「すべては消耗(しょうもう)品」「そろそろ買い換え(か か )の時期」と喧伝(けんでん)する声は、現在では、もはやうつろに響く(ひび )だけだ。
 2高度経済成長のスピードにのって、便利、快適、新しい、あなただけの、といった甘い(あま )言葉がささやかれてきたが、もはやこの速度に対応できないというのが私たちの正直な感想ではないだろうか。
 3私たちは便利で快適なたくさんのものに囲まれている。私たちはこれらの恩恵(おんけい)なしには生活できないことを知っている。なぜなら生活が便利になったおかげで、自由で創造的な時間をたっぷり手に入れることができたから。4では、その時間を有効に使っているかといえば、そのほとんどを、私たちは生活をさらにいっそう便利で快適にする新しいものをつくるために、あるいは求めるために費やしているのだ。
 5ますます便利なものが生み出される現代では昨日まで便利だったものが、今日すでに不便になっているといった状況(じょうきょう)が起きている。しかし、便利を追い求めなければ不便が生まれることはない。6電話がなかった時代の人が電話ができて使えるようになれば大変便利だと思うだろうが、そのとき携帯(けいたい)電話がないからといって不便を感じることはないだろう。7あってあたりまえの便利にあきたりなくなると人は不便を感じるわけで、便利がひとつ増えれば、さらにいっそうの便利さを追い求めるようになる。
 8ところで、日本人は古来旅好きといわれる。その証拠(しょうこ)にすばらしい紀行文を私たちは古典文学の中に数多く見つけることができる。現在の私たちは彼ら(かれ )に比べれば想像もできないほど便利で快適な旅を約束されている。9しかし、その実態はといえば、快適で便利な乗物に乗りながら、かえって旅の豊かな実感は消え失せてしまったというのが本当のところではないだろうか。確かに移動時間は短縮された。0しかしそのぶん余裕(よゆう)が生まれたかといえば、私たちは以前にもまして時間に追われた忙しい(いそが  )旅を強いられている。もはや自分の足でじっくり歩いていくことも、ゆったりと車窓の景色を眺める(なが  )ことさえなかなかしようとしない。こういうところから古典を超える(こ  )紀行文が生まれるだろうか。
 人間の生活を便利に快適にするために生まれたものが、必ずしも
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自由で創造的なものを生み出すことになってはいない、これはいい例だ。
 科学技術の発達は、生活ばかりでなく、私たちの視野を大幅(おおはば)に拡大した。極大の世界から極小の世界まで、私たちに見えないものは何もないかのようだ。
 しかし、科学の目がよく見えるようになったことで、逆に私たちは肝心(かんじん)なものが見えなくなってはいないだろうか。科学者が生命体をバラバラに分解していくとき、かえって生命の本質を見失うということが起きていないだろうか。
 人はだれしも健康でありたいと願うものだ。人間の身体が遺伝子レベルで明らかになるにつれ、たいがいのことは血液検査でわかるようになってきたが、目に見える検査値が正常値の範囲(はんい)内ならその人は果たして健康といいきれるだろうか。人の心のケアはどうだろう。
 逆に目に見えないことで、かえってものごとの本質が見えてくるということがある。人工衛星や天体望遠鏡が発明されていなかったころ、宇宙に関する知識は今よりずっと乏しかっ(とぼ   )た。それなのに小さな庭の設えに宇宙の深淵(しんえん)を見ることができたのはどうしてだろうか。
 もとより、人は視覚だけに頼っ(たよ )てものを見ているわけではない。住み慣れた街であっても、歩き方しだいで旅にもできるのは、人が視覚だけではなく想像力を使って自らの視点を拡大したり縮小したりできるからである。
 そろそろ私たちは、すっかり萎え(な )てしまった想像力をもう一度鍛え(きた )なおす必要がありそうだ。目に見える便利さや快適さの陰(かげ)に隠れ(かく )て見えなくなってしまって、心の目でしか見ることのできない真に価値あるものに光をあててみようと思う。

(『目で見るものと心で見るもの』による)
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a 長文 7.4週 mi2
 1日本語にはとってもいい言葉があります。そのとってもいい言葉の一つだと思うのが、「器量」という言葉です。「器量好し」というふうに言う。その「器量」の「器」は容器のことです。「量」はおおきさです。2つまり器と、その器に容れられるおおきさです。「器量好し」というのは、ですから姿を言うのではありません。器ですから、人間というものの器、すなわち心という、心の器のおおきさを表すものです。
 3日本語のなかに生まれ育ってきた人たちは、人を見定めるのに器量ということをもって、目盛りにしてきました。しかしもうすでに、そうではなくなっています。器量でないもので人を計ろうとしていて、人が狭量(きょうりょう)になってきています。4器量という物差しがあまり使われなくなっているとすれば、世の中はおもしろくなくなってきます。
 器量は人の心のおおきさを表します。「器量好し」というのは、心のおおきい人のことです。5そういった心のおおきさを、あるいは心の容積というのをおおきくしてゆけるような言葉を、どれだけ自分のなかにたくわえているだろうかということが、これからの時代の物差しになってゆかないと、わたしたちの時代の言葉は、どんどんと乏しく(とぼ  )なっていってしまうでしょう。6言葉に器量をとりもどすということが、これからはもっとずっと大切になってくる。わたしはそう考えています。
 7二一世紀という時代の変わり目にあるということは、すなわち二〇世紀という一つの世紀がつくりあげた、みなおなじという文化もまたその変わり目にあるということです。わたしたちが手にしてきたのは、みなおなじである世のあり方でした。8けれども、これから質(ただ)されるのは、みなおなじという等質な社会のあり方のなかから、自分のものでしかない価値、自分という独自性を見つけられるかは、どんな言葉をどのように使って、自分で自分を自分にしてゆくことができるか、あるいは自分というものがその言葉によって、どのように表されてゆくだろうかということに、深く懸かっ(か  )ているでしょう。
 9見つめるものは、何であってもかまわない。ただ何を見つめようと、まずそこにある言葉に心をむける。そこから言葉のありように対する感受性を研いでゆくようにすることを怠け(なま )なければ、目の前にある状況(じょうきょう)というのは、きっとまったく違っ(ちが )て見えてきます。0そうした経験の重なりから、言葉との付きあい方、係わりあいを通して、人間の器量というのはゆっくりとかたちづくられてゆくの
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だろうと思うのです。
 言葉は意味がすべてではなく、怒っ(おこ )たときは怒っ(おこ )たように話す。悲しいときは悲しいしかたで話す。そのとき言葉が伝えるのは、言葉が表す意味でなく、言外の意味です。意味というのは言葉によって指し示される、心の方向のことです。言葉というのは、自分の使う言葉がどんな自分を表しているか、ということです。
 たとえ、みながみなおなじマフラーをもっていても、自分が自分であることを示すのは、自分はそのマフラーをどう結ぶかです。重要なのは、どういうマフラーをもっているかではありません。そのマフラーをどう結ぶかです。
 言葉もそうです。みながみなおなじにもつ言葉をかけがえのない自分の言葉にできるものは、一つだけ。自分は自分の言葉というものをどう結んでゆくかという言葉にむきあう態度、一つだけです。

(長田 弘(ひろし)『読書からはじまる』より)
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a 長文 8.1週 mi2
 1現代の社会に生きることはその前の時代に比べて容易なのであろうか、あるいは難しいのであろうか。その答えはイエスでもあり、ノーでもあると思われる。
 2つまり、ある部分では確かに楽になっている。例えば私たちは機械文明の中に生きており、ボタン一つであらゆることができる。世界の出来事すら、ボタン一つでテレビを通じて知ることができる。3物が欲しいとき、真夜中でも自動販売(はんばい)機にお金を入れて手に入れることができる。かつて夜は文字どおり眠る(ねむ )ための夜であったが、現代の夜は昼とあまり差がなく祝祭的ですらある。4また、インスタント食品と電気器具によって、私たちは手を汚さ(よご )ずに食べ物を口にすることができる。つまり、今ほど便利な時代はないのである。
 そしてまた、現代ほど第三次産業の発展した時代はない。
5第三次産業の中でもサービス業の急速な展開は、ただ座っているだけで、あらゆるものが私たちの手に入るという、サービス過剰(かじょう)な社会を作った。したがって、この面では極めて暮らしやすい時代である。6私たちは生産主体から消費主体に移りつつある。現代青年は正真正銘(しょうしんしょうめい)の消費人間になっている。作るより消費する方がはるかに得意なのである。
 7では、このような暮らしやすいサービスの時代は、はたして良い時代なのであろうか。苦労もしなくて、すべてが手に入る社会は、はたして良い社会なのであろうか。8文明というものは多かれ少なかれプラスの裏に必ずマイナスが付き物であるが、現代の消費社会のプラス面が便利さであるとするならば、マイナス面は心が短絡(たんらく)的、衝動(しょうどう)的な人間を多く生み出す可能性であるといえよう。9現代の青年は、生まれた時から豊富なモノとテレビなどの便利な電気製品に囲まれて育った。したがって、彼ら(かれ )の望みはまたたく間にかなえられたのである。0しかし、彼ら(かれ )は、小さい時からそれを喜ぶわけでもなく、当然のものとして生きていた。彼ら(かれ )、消費主体の青年たちはかつての生産主体の青年たちに比し、待ち、工夫し、努力し、作り、その末に何かを手に入れるということが苦手である。
 人間がよかれとして作り上げている社会が逆に未熟で衝動(しょうどう)的で、待てなくても暮らせるような人間を作り出す。言い換えれ(い か  )ば、消費社会は消費人間を作り出し、消費人間はまた消費社会を支え
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る。社会と人間の性格には、このような相関関係がある。したがって、このような社会を暮らしやすいとするか、暮らしにくいとするかと問われれば、確かに表面的には暮らしやすい社会になっているが、成熟しなくてもよいという社会は、ある意味では危うい社会であり、最終的には暮らしにくい社会に逆戻り(ぎゃくもど )する可能性をもつ、と答えざるを得ないだろう。

(「成熟できない若者たち」(町沢()静夫)より)
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a 長文 8.2週 mi2
 1考える、とは、まず具体的なものごとを抽象(ちゅうしょう)化することである。げんに考えることを考えようとするなら、「考える」作用を、「考え」という概念(がいねん)に抽象(ちゅうしょう)して、対象化、客観化しなければならない。具体から抽象(ちゅうしょう)へというのが思考の第一条件なのだ。2そこで、思考の道具ともいうべき言語は、具体的な記述的表現から、抽象(ちゅうしょう)による概念(がいねん)の創出へ、という発展過程をとる。日本語(やまとことば)も、それを巧み(たく )にやってのけた。
 3たとえば「動く」から「動き」へ、「教える」から「教え」へ、「眠る(ねむ )」から「眠り(ねむ )」へ、「喜ぶ」から「喜び」へ……というふうにである。こうした例は、挙げていけばきりがない。さらに、日本人は「さ」とか「み」という接尾(せつび)語で、さまざまな事象を(心の状態もふくめて)みごとに抽象(ちゅうしょう)化していった。4「美しい」という形容詞を「美しさ」という名詞=一般(いっぱん)概念(がいねん)に。「さびしい」を「さびしさ」、「速い」を「速さ」、「寒い」を「寒さ」、「弱い」を「弱さ」というぐあいに。
 5また、「み」を加えることで、性状を一般(いっぱん)化することにも意を用いた。「恨む(うら )」を「恨み(うら )」、「重い」を「重み」、「悩む(なや )」を「悩み(なや )」、「取り組む」から「取り組み」というふうに。
 6こうした造語は、じつに見事な第一歩であった。なぜなら、さまざまな現象を、そのもの自体として考えるためには、それを概念(がいねん)、あるいは観念として意識のなかで客観化し、定着させねばならず、このようにして出来上がっていく概念(がいねん)を、さまざまに操作することにより、初めて思考は成立するからである。7別言すれば、人間は、言葉をつくりだす過程で、考えを深化させていくのだ。だから「思う」から「思い」、あるいは「うれしい」から「うれしさ」、また「話す」から「話し」への第一歩こそ、思索(しさく)の出発点にほかならないのである。
 8ところが、日本人がそのようにして思索(しさく)を展開していく途上(とじょう)で、すでに日本より高度に文化を発達させていた異国から、抽象(ちゅうしょう)的な概念(がいねん)や観念が、つぎつぎに流入してきた。9それによって、日
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本語の造語力はいつの間にか失われ、日本人の抽象(ちゅうしょう)能力は、すっかり弱められてしまった。それらの外来語を、そっくり代用することで。
 日本人が抽象(ちゅうしょう)的な思索(しさく)を苦手とするのはそのゆえである。
 0そんなわけで、日本では哲学(てつがく)が育たなかった。哲学(てつがく)とは人生の意味を求める学問である。生きるとは何か、自分とは何者か、という根源的な疑問に対する挑戦(ちょうせん)と言ってもいい。そのような大切な探求であるにもかかわらず、哲学(てつがく)は難解な「抽象(ちゅうしょう)論」とみなされ、敬遠されることになった。そして、そのかわりをつとめたのが文学だった。文学は具体的な現象を、暗示的に、象徴(しょうちょう)的に描き出す(えが だ )ものだからである。
 繰り返し(く かえ )ていうが、哲学(てつがく)が難解の代名詞のように思われるようになったのは、本来は具体的なものから到達(とうたつ)すべきだった抽象(ちゅうしょう)語が、すべて「舶来(はくらい)品」であったこと、しかも、外国語(ヨーロッパ語)の翻訳(ほんやく)に外来語(漢語)を以てしたことに最大の原因がある、とぼくは思う。
 そこで、ぼくは、あらためて言葉の問題に頭をかかえる。哲学(てつがく)はだれにでもわかる人生の知恵(ちえ)でなければならない。だが、考えようとすれば、ぼくらはいやおうなく抽象(ちゅうしょう)語を用いなければならぬ。その言葉が難解で意味がはっきりつかめなければ、「下手な考え、休むに似たり」、あるいは「わかったつもり」に終るのが関の山であろう。この意味で、新たな思索(しさく)を始めようとするなら、日本人は、もう一度、言葉そのものを反省する必要があるのではなかろうか。

(森本哲郎(てつろう)「ぼくの哲学(てつがく)日記」による。)
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a 長文 8.3週 mi2
 1日ごろ見慣れている景色──たとえば、自分の家の玄関(げんかん)の造りや庭の佇(たたずま)い、など──が、ある時、ふと、まるで初めて見る時のように新しく、珍しく(めずら  )感じられるという経験をしたことはないでしょうか。2そのような時、私たちは日常、眼でものを見ているつもりで、それでいて実は何も見ていなかったのだということを感じます。
 言葉についても、同じことです。3日ごろ使い慣れている言葉ですから、私たちは自分の使う言葉については何でも分かっているつもりですが、ふとした機会に、実はそれが勝手な思い込み(おも こ )であったことに気づいて、はっとすることがあります。子どもたちは、そのような機会をしばしば与え(あた )てくれます。4──「ネコはどうしてネコと言うの。」、「ハンバーグとハンドバッグは〔ものは〕似ていないのに、どうして名前が似ているの。」、「校歌を歌ってあげるね。『緑ノ風ガ吹()イーテイル……。』あれ、変だね。『緑の風』なんてないよね。」などといった具合です。5そして、日本語を習っている外国人もそうです。──「山田サンと富士サン。なるほど日本人はフジヤマ好きなのね。」、「『お目にかかる』と言うけど変ね。眼にぶら下がられたら、重くて困るでしょう。」
 6言葉を知っているといっても、私たちは毎日きまった道を通って通勤するのと同じように、日ごろは言葉の世界でもきまった道しか行き来していないのです。7しかし、この世界には思いがけないところに別の道があったり、それがまた他の新しい道と交わったり、そうかと思うと、まわりまわって気がつくと結局もとの道に戻っ(もど )てしまっていたりします。8詩人はそのような新しい道を見出したり、自分で作り出したりもする特別の才能を備えた人たちです。しかし、そうでなくとも、私たちは誰(だれ)でもその気になれば、言葉というものの持っている隠れ(かく )た量り知れない意味する力に気づくことができるはずです。
 9まったく同じ顔つきでまったく同じ性格の人がいないのと同じように、一つ一つの語も、その気になって観察してみると、それぞれ実に個性のあるものです。0「頑固(がんこ)」というのは聞いた感じも見た感じもいかにも頑固(がんこ)そうですし、「前向き」のように何とでもこちらの言いなりになってくれそうな語もいます。「破廉恥(はれんち)」のよう
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なけしからぬものも「ハレンチ」と装いを改めるとずいぶん違っ(ちが )た印象を与え(あた )ます。「なまじっか」のように長らくつき合ってきたのに、いざ紹介(しょうかい)してくれと言われると、どのように紹介(しょうかい)してよいのか分からなくて困る語もあります。一人一人の子どもをそれぞれ個性ある人間として見るのと同じ眼で語も眺め(なが )てみたら、これほど愛着を感じさせるものはないのではないでしょうか。
 それぞれの語にそのような個性があるのは、その語が長い年月にわたって一つの文化の中で培わ(つちか )れてきたからです。私たちは、長い間生活を共にしてきて、そのすべてを知りつくしている語は、他のどのような語でもっても置きかえることのできない、かけがえのない何かがあると感じます。そのような語には私たちは特別の愛着を感じますし、また、その語について他の人に語って聞かせることほど楽しいことはないはずです。たとえば、自分が身につけている方言がそうでしょう。だから、もしそのような言葉を粗末(そまつ)に扱う(あつか )ような人がいたとしたら、その人は、外国語の単語を日本語の単語に一対一で置きかえれば事がすむと思い込ん(おも こ )でしまった人たちと同じように、言葉を使っているつもりで、実は言葉に使われている人たちなのでしょう。

(池上嘉彦(よしひこ)『ことばの詩学』による。)
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a 長文 8.4週 mi2
 1昭和三〇年代半ばからのとどまることをしらない経済拡大による自然破壊(はかい)のせいで、かなり怪しく(あや  )なってきたとはいえ、日本は、本来、自然が豊か、すなわち生物多様性も高いのです。2この、急速に絶滅(ぜつめつ)危惧(きぐ)種も多くなっている日本の自然を保全、ないしは回復するにはどうすればいいのでしょうか。身近な問題として考えてみましょう。
 3そのためには、自然に手を加えず、放っておくのが上策という考え方もあります。これは、まったくのまちがいというわけではありませんが、いろいろ問題があります。
 4一時期、森林で「木を伐る(き )」ことが自然保護の目の敵にされたことがありました。七〇年代に入って環境(かんきょう)が問題視されはじめた時代です。自然環境(かんきょう)を守るためには、自然に手を加えてはならない、木を伐る(き )こと即(そく)、自然破壊(はかい)という短絡(たんらく)的な理解です。5いまも都市生活者の間では、まだそうした考え方が色濃く(いろこ )残っています。
 放っておけば、自然は守られ、生物多様性や生態系の健全性も保全されるのでしょうか。
 6もちろん、自然や生態系にまったく圧力を加えず、そのままにできれば、自然保全としてそれに越し(こ )たことはないかもしれません。7しかし、それは私たちの生存を否定することになります。人間が生活していくうえでは、居住や生産に利用するために森や湿地(しっち)を壊し(こわ )たり、その生産物を生活資材に横取りしたりと、自然や生態系に圧力を加えることは避け(さ )られません。8この日本列島から人間が消えたほうが、ほかの生物たちにとってはうれしいかもしれませんが、私たちヒトも生物の一員として生きていかなければなりません。9私たちが日本列島で生きていく以上、自然や生態系に対しては、利用しながら保全していくというむずかしい対応が不可避(ふかひ)なのです。
 人間も生きていくうえで利用しなければならないという前提で、元来豊かだった日本の自然を守るポイントはどこにあるでしょうか。0先述のように、これまでの日本では都市生活者を中心に、自然や生態系の保護といえば「まったく手をつけることなく、放置すること」との認識が一般(いっぱん)的でした。しかしそれは、次のような背景から、とりわけ日本の自然についてはあてはまらないようです。
 その理由の一つは、日本の自然は、すでに人の手が入った自然が
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多いという点にあります。そのことによって逆に生物多様性が高まってきたという事情もあるのです。「人手の入った豊かな自然生態系」とは自己矛盾(むじゅん)のようですが、そんな自然もあるのです。(中略)
 それがいわゆる里山環境(かんきょう)です。何千年にもわたるそうした人為(じんい)を通じた環境(かんきょう)維持(いじ)は、もう一つの生態系を形づくってきました。
 そこには、森林、あぜ地、ため池、水路、水田といった複合生態系がまさにモザイク状にセットされた「景観の多様性」が形成され、特有の豊かな生物種が棲ん(す )でいます。たとえば、もっともわかりやすい例としては、先に触れ(ふ )たように、両生類については、イギリス七種に対して日本六一種というように圧倒的(あっとうてき)です。そのほか、トンボ、タガメなどの昆虫(こんちゅう)、メダカ、タニシ、シジミなどの魚貝類、トンビ、タカなどの猛禽(もうきん)類なども豊かです。トンボ類も約二〇〇種と、イギリスの三〇種あまりにくらべるとケタちがいです。
 また植物についても、「手を入れつづける」ことによって維持(いじ)されてきた種も多くあります。一〇〜二〇年間隔(かんかく)で定期的に上木が伐採(ばっさい)される薪炭(しんたん)林環境(かんきょう)に適応した、「春の妖精(ようせい)(スプリング・エフェメラル)」と呼ばれるカタクリ、フクジュソウ、ニリンソウなどがそれにあたりますが、彼女(かのじょ)たちには、下草が刈ら(か )れ、落ち葉が掻か(か )れ、上層の落葉樹の葉が茂る(しげ )前の春先に地表面によく陽光が射しこむ雑木林が必要なのです。あぜ地などが草刈り(くさか )されることに適応したキキョウやフジバカマなどもそうした部類ですが、その多くも、いまではほとんど人手が加えられなくなった結果、環境(かんきょう)変化のために絶滅(ぜつめつ)危惧(きぐ)種となっています。

(豊島 襄()・著『ビジネスマンのためのエコロジー基礎(きそ)講座森林入門』八坂書房(しょぼう) による)
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 1私の好きな言葉に、「内心にひそむ確信を語れば、それは普遍(ふへん)に通ずる」という名言がある。アメリカの哲学(てつがく)者エマソンが『自己信頼(しんらい)』というエッセイで述べたもので、ものを考えたり書いたりする際、いつも私の脳裏にあるのはこのエマソンの言葉である。2自分自身の考えを信じ、自分にとって真理であることはすべての人にとっても真理であると信じること、それが天才というものであって、人間にとってもっとも肝心(かんじん)なことは、自分自身を信じることである、とエマソンは言う。
 3なにかすばらしいアイデアが浮かぶ(う  )ことがある。一瞬(いっしゅん)、こんなすばらしいアイデアを思いついた自分は天才かもしれないと思ったりする。しかし同時に、いやいや、これは錯覚(さっかく)にすぎない、それに、こんなことなどだれでも考えつくことだと思いなおす。4こうして、われわれは、すばらしい考えを捨て去るが、一方、天才と言われる人間は、自分のアイデアに自信を持ち、これを心のなかでじっくりと育て、すばらしいものを生み出す――エマソンはこんなふうに考える。
 5たしかに、天才うんぬんは別にして、だれでも、時にはすばらしいアイデアを思いつくことはある。問題は、それが本当にすばらしいアイデアなのかどうか自分では容易にきめかねることである。6私自身も、哲学(てつがく)者や芸術家の思想や生涯(しょうがい)を研究しながら、ときには、いままでだれも思いつかなかったのではないかと思えるようなすばらしい見方や分析(ぶんせき)を発見したと感じることがある。7そこには、誇張(こちょう)して言えば、大発見にともなう感動と陶酔(とうすい)がある。そういう感動と陶酔(とうすい)こそ、ものを考え、それを文章に書きあらわすうえでもっとも強い動力となることを私は実感する。8ただし、そういうとき、いつも頭をよぎるのは、私にはすばらしいと思えるこのアイデアが、はたして他の人びとにはわかってもらえるだろうか。あるいは、これはまるで見当はずれの考えなのではあるまいか……という懸念(けねん)である。9自分の考えの正しさを確信することはなかなか容易なことではないのだ。天才に通ずる道だとエマソンが言う自己確信は、うぬぼれや誇大妄想(こだいもうそう)へと到る(いた )危険もはらんでいる。
 0たしかに、なにごとかを確信して、自分の考えと呼べるようなものを獲得(かくとく)するのはたいへんむずかしいことではある。しかし、私
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自身の体験から、本当に自分で確信したことは、必ず他の人びとにわかってもらえ、少なからざる感動あるいは共感を得られる、と保証することができる。ただし、その際、いちばん肝心(かんじん)なことは、自分ひとりで徹底的(てっていてき)に考え抜く(かんが ぬ )ということである。本当にこれは私自身の考えだ、と言うことができれば、それはエマソンの言うように、普遍(ふへん)に通ずるはずである。自分自身も驚く(おどろ )ようなすばらしい自分の考えのみが、他の人びとをも驚か(おどろ )せ、納得させることができる。他の人がびっくりする前に、自分自身がびっくりするような自分の考えこそ、内心の確信に通ずるものである。

(「孤独(こどく)の研究」(木原武一)による。)
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 1ことばは伝達の手段である。それはそのとおりであるが、他人に伝えたいことがないときに、使ってならないということではない。とくにいうことはないのだが、知ったもの同士の出会った確認として、あいさつをするのもことばの機能のひとつである。2それによって人間と人間の間にできるかもしれない摩擦(まさつ)が解消する。
 朝会って「おはよう」、別れるときの「さようなら」といった、いわゆるあいさつのほかにも、ことばはいろいろと社交的機能において使われている。
 3別に用はないが、久しぶりに友人をたずねて雑談をするというのも拡張されたあいさつであるといってよい。たいていのむだ話や世間話は、それ自体に価値があるのではなくて、そういう一見無意味と思われることばをかわすことによって、人間関係を円滑(えんかつ)にする効果があるのである。4たんなるおしゃべりが思いがけない役に立っていることがすくなくない。
 どこの国の言語にも、実用的伝達の目的はもっていないが、人間関係を円滑(えんかつ)にする社交語、あいさつ語というものがあることはこれがいかに重要なものであるかを物語っている。5安定した社会においては、あいさつ語の機能がとくに問題になることもないかもしれないが、変化がはげしくて、個人と個人の関係が無機的なものになってくると、これが再認識されなくてはならないようになる。
 6近年のわが国の社会では、新しい人間関係が確立しかけていて、なお、いまだ、安定には達していない。人と人との関係はどうしてもぎこちないものになり、摩擦(まさつ)を生じやすい。
 7新しい言語表現が浸透(しんとう)しつつあるけれども、まだ、それが美しいことばになるほどの洗練には至っていない。お互い( たが )に傷つけるつもりもなくて、ことばで他人の心を傷つけている。小さなトラブルがデパートでも喫茶店(きっさてん)でも街頭でも起こっている。
 8こういう摩擦(まさつ)やトラブルをなくするには、潤滑油(じゅんかつゆ)としての言語がもっとも有効である。あいさつ語、社交語は、要するに潤滑油(じゅんかつゆ)である。新しい社会的緊張(きんちょう)に対処するには新しい社交語、あいさつ語が必要であろう。
 9その意味において、「対話」などは潤滑油(じゅんかつゆ)の役割を果たしうるようにできるかもしれない。共通のことばをもたずにおこなわれる
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対話はかえって断絶を深めるけれども、対立の摩擦(まさつ)を緩和(かんわ)する潤滑油(じゅんかつゆ)としての自覚があれば、論理的には無益であっても、心理的には効果のある対話が存在しうることになる。
 0潤滑油(じゅんかつゆ)としてのことばの機能にもっと注目することは社会としてもきわめて重要なことのように思われる。

(外山(とやま)滋比古(しげひこ)「新編 ことばの作法」より)
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 1自然のなかにはいりこみ、自然の精密さとか、自然の大きないのちとかにふれ、自然と心を通い合わせたり、自然から学んだりしたとき、人間は自分がいかに微小(びしょう)であったかに気づく。2微小(びしょう)であるのに努力もしないで不遜(ふそん)になっていたことに気づき、恥ずかしく(は    )なったり、つつましくなったりする。
 3そればかりではない。自然の持っている、生まれいずるいのちにふれることによって、平凡(へいぼん)なくりかえしだけをしていた日常の生活からときはなたれ、力を与え(あた )られたり、充足(じゅうそく)したゆたかな気持ちになったりするのである。4仕事に疲れはて(つか   )たり、気持ちがあらあらしくなったり、自信をなくしてしまったりした人も、自然からいのちを与え(あた )られて、いのちをよみがえらせ、自信をとりもどしたり、暖かい気持ちになったりすることもできるのである。
  5よくみればなづな花咲く(さ )垣根(かきね)かな
 これは芭蕉(ばしょう)の俳句だが、いままで何もないと思った垣根(かきね)の下になずなの花が白々とつつましく咲い(さ )ているのを発見して驚い(おどろ )ている。6ほんとうによく見れば、どこにでも真実なものはあり、美しいものはある。こういう発見をし、驚き(おどろ )をつぎつぎとしていくことによって、人間は、たえず自分をあたらしくし、新鮮(しんせん)にしていくことができるのである。
 7そうして、そういう人間は人間をみる場合も、形式的にみたり、常識的にみたり、一般(いっぱん)的にみたりしなくなる。いままで何もないと思った人のなかに美しいものをみたり、暖かいものをみつけ出したりするようになる。8そしてそういうところから、ほかの人間をたいせつにしたり、ほかの人間と、しみじみと心を通い合わせたりすることもできるようになっていく。9そういうことからまた、自分自身をゆたかに成長させることができるようになっていく。
 だから自然のなかにはいりこみ、自然と心を通い合わせ、自然から学ぶということは、人間性を回復するということでもある。0

(斎藤(さいとう)喜博『君の可能性』による)
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 1本というのは最も古い情報伝達システムではあるけれども、それだけに限界もある。読み手が、印刷された黒点を活字化された言葉として受けとる、言いかえるとその内包するものを頭の中に生きた記号、あるいは映像として再生させる能力がなければ、それは何一つ訴える(うった  )力がないということである。2映画やテレビならば、こちらが何をしないでも映像を与え(あた )てくれるし、音楽は音を聞かせてくれる。つまり人が完全な受動的状態にいても働きかけてくるが、書物だけはそうはいかない。3こちらが能動的状態になって能力を働かせないと、向うからは何も訴え(うった )てこない。そこが映画やテレビや音楽と違う(ちが )ところで、読書という行為(こうい)は人間の能動的能力を要求する、つまり高等なメディアなのだ。
 4と、小難しい理窟(りくつ)はそれくらいにして、とにかく自分自身の過去における本との付き合いを思い起こしても、とにかくたのしいとか得をするとかがなければ本を読まなかったのはたしかだ。5そしてたのしい読書というときぼくがまず思いつくのは漱石(そうせき)の『坊っちゃん(ぼ    )』である。
 6ぼくがこの本を最初に読んだのが何歳()のとしだったか覚えていないけれども、たぶんそれは昔の小学校の高等科(小学六年を終了(しゅうりょう)後入って二年間ソロバンや何かを学ぶコース)に入ったころだろうと思う。すなわち十三か十四のとしだ。7そのころぼくはもう、山中峯太郎(みねたろう)の『敵中横断三百里』だの、当時の少年たちの血を湧か(わ )せた『亜細亜(あじあ)の曙(あけぼの)』『大東の鉄人』だの、南洋一郎(よういちろう)の『吼える(ほ  )密林』だのといった少年向け冒険(ぼうけん)小説にそろそろ倦()きてきて、もう少し大人っぽいものが欲しくなりだしていた。8そしてその一番初めの試みとして読んだのが岩波文庫の『坊っちゃん(ぼ    )』だった。
 岩波文庫という、高校生や大学生が読む文庫を買うというそのこと自体が、どんなに少年の心をときめかせたことか。9当時は文庫といえば岩波文庫で、これは高級な知的世界そのものであった。せかせかと、しかし一足跳び(と )にその世界に足を踏み入れる(ふ い  )ことは、だから身の慄()えるような興奮を与える(あた  )それは出来事だった。
 0初めて大人の読み物を読むという緊張(きんちょう)があったに違い(ちが )ない
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が、ルビ(振り(ふ )仮名)も振っ(ふ )てあるし、これは読んですぐわかった。しかも実に面白かった。ぼくは今でも漱石(そうせき)が好きだが、それはこの最初の出会いが幸福な彩り(いろど )につつまれていたせいではないかと思う。最初の印象は、人間どうしの付き合いでもそうだが、しばしば決定的な作用をする。『坊っちゃん(ぼ    )』の面白さ、それは何よりもまずその語り口の面白さであった。率直で、気取りも飾り(かざ )っ気もなくて、自分の手の裡(うら)をすっかりさらけ出しながらテンポよく語る。それは、荘重(そうちょう)ぶった、誇張(こちょう)と気取りの多い、大袈裟(おおげさ)な語り方をする少年冒険(ぼうけん)小説しか知らなかった少年には、目の覚めるような新鮮(しんせん)な体験であった。(中略)
 それはまったく自分のまるで知らなかった語り口、明らかにまるでレベルの違う(ちが )、高尚(こうしょう)で率直で正直な語り口であった。しかもこの率直で、ありのままに自己を見ることのできる主人公の性格のなんと魅力(みりょく)的なことだったろう。少年冒険(ぼうけん)小説の主人公はみな英雄(えいゆう)で、荘重(そうちょう)で、重々しく、めったに心のうちをのぞかせないが、この『坊っちゃん(ぼ    )』は自分の弱み、欠点を正直にあかし、負けじ魂(ま  だましい)だけでつっぱっていて、結局は狡(ずる)賢い(かしこ )連中に負けて退散する。にもかかわらず、読後、勝ったのは真正直なこの坊っちゃん(ぼ    )と山嵐(やまあらし)との方であるような感じを与え(あた )、人間には外観の勝敗とは違う(ちが )レベルの勝敗があることを知らせるのだ。そして清やが言う「坊っちゃん(ぼ    )は正直なお方だ」という言葉の意味が、われわれにもストンと腹に落ちてくるのである。
 なるほど本当の小説とはこういうものか、とぼくは思った。小説はわれわれのものの見方を変える。違う(ちが )価値がこの世にはあることを教え、そういう世界に向って目を開く。こうして『坊っちゃん(ぼ    )』は読んで愉快(ゆかい)なだけでなく、いわば精神の世界とでもいうべきものにぼくの目を開いてくれた最初の小説になったのだった。

(『生きることと読むことと「自己発見」の読書案内』中野孝次)
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