a 長文 8.1週 mi2
 現代の社会に生きることはその前の時代に比べて容易なのであろうか、あるいは難しいのであろうか。その答えはイエスでもあり、ノーでもあると思われる。
 つまり、ある部分では確かに楽になっている。例えば私たちは機械文明の中に生きており、ボタン一つであらゆることができる。世界の出来事すら、ボタン一つでテレビを通じて知ることができる。物が欲しいとき、真夜中でも自動販売はんばい機にお金を入れて手に入れることができる。かつて夜は文字どおり眠るねむ ための夜であったが、現代の夜は昼とあまり差がなく祝祭的ですらある。また、インスタント食品と電気器具によって、私たちは手を汚さよご ずに食べ物を口にすることができる。つまり、今ほど便利な時代はないのである。
 そしてまた、現代ほど第三次産業の発展した時代はない。
第三次産業の中でもサービス業の急速な展開は、ただ座っているだけで、あらゆるものが私たちの手に入るという、サービス過剰かじょうな社会を作った。したがって、この面では極めて暮らしやすい時代である。私たちは生産主体から消費主体に移りつつある。現代青年は正真正銘しょうしんしょうめいの消費人間になっている。作るより消費する方がはるかに得意なのである。
 では、このような暮らしやすいサービスの時代は、はたして良い時代なのであろうか。苦労もしなくて、すべてが手に入る社会は、はたして良い社会なのであろうか。文明というものは多かれ少なかれプラスの裏に必ずマイナスが付き物であるが、現代の消費社会のプラス面が便利さであるとするならば、マイナス面は心が短絡たんらく的、衝動しょうどう的な人間を多く生み出す可能性であるといえよう。現代の青年は、生まれた時から豊富なモノとテレビなどの便利な電気製品に囲まれて育った。したがって、彼らかれ の望みはまたたく間にかなえられたのである。しかし、彼らかれ は、小さい時からそれを喜ぶわけでもなく、当然のものとして生きていた。彼らかれ 、消費主体の青年たちはかつての生産主体の青年たちに比し、待ち、工夫し、努力し、作り、その末に何かを手に入れるということが苦手である。
 人間がよかれとして作り上げている社会が逆に未熟で衝動しょうどう的で、待てなくても暮らせるような人間を作り出す。言い換えれい か  ば、消費社会は消費人間を作り出し、消費人間はまた消費社会を支え
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

る。社会と人間の性格には、このような相関関係がある。したがって、このような社会を暮らしやすいとするか、暮らしにくいとするかと問われれば、確かに表面的には暮らしやすい社会になっているが、成熟しなくてもよいという社会は、ある意味では危うい社会であり、最終的には暮らしにくい社会に逆戻りぎゃくもど する可能性をもつ、と答えざるを得ないだろう。

(「成熟できない若者たち」(町沢静夫)より)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534