人間が自由で平等だというようなことが、原則として認められている社会、これが、近代だといってよいでしょう。
それでは、そういうものが果たして我々日本人に固有のものか、我々自身の生活の中から出てきたものかというと、これはそうではないということが、すぐお分かりになると思います。近代的なものは、生活の観念にしろ、社会生活の形にしろ、みな西洋から来ています。西洋人にとって近代は、つまり自分の中から出たものです。自分たちのものの考え方、あるいは感じ方の必然の結果です。ところが、我々にとっては、それはよそから受け入れたものだ。そこのところが、同じ近代でも甚だ違うのです。(中略)
森鴎外は、晩年に徳川時代の漢方医で明治時代にはほとんど忘れられてしまって、そしてもし鴎外が書き残さなかったら、我々は全然知らないだろうと思うような人たちの伝記を非常な熱情をこめて書いています。(中略)
恐らく、日本人は西洋の影響を受けてから悪くなった、今の文明のあり方を見ると、日本人に将来救いがあるかどうか分からない。ただ、そういう西洋の影響を受けない前の日本人のある人々の生き方に、自分は非常な尊敬を感じて、そういう人たちの生き方に及ばずながら自分も従ってゆこうという気持ちに、やっと自分の救いを見いだすというのが鴎外の考えであったようです。鴎外のように、西洋もよく知っており、自然科学の知識もあり、最も日本の近代化ということを評価してもいいような人が、非常に否定的であった、これは我々が記憶しておいてよいことだと思います。
同じようなことが漱石についても言えます。漱石は、鴎外よりよほどおしゃべりですから、自分の思想をはっきり述べているのですが、その中で有名なのは、この人が和歌山県でやった「現代日本の開化」という講演でしょう。これは、漱石の思想の核心に触れている講演です。読んでもなかなかおもしろい。洒脱で、ユーモアにも富んでいて、時々、聴衆をうまく笑わせたりしています。しかし、内容は近代日本の文明について非常に悲観的な見方をしています。漱石は、そこでまず文明というものあるいは文化(開化という言葉を使っていますが)は、内発的な開化と、外発的な開化と二つある。外発的というのは内部から出るものでなくて、外からの刺激によって文化が大きく変わるということです。内発的とは、
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