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 方言で「つるべ」のことをツブレ、「ちゃがま」のことをチャマガ、「つごもり」をツモゴリと言う所がある。このような現象は幼児の言語に見られるもので、恐らくおそ  起こりは幼児時代の言語に始まったものであろうが、ある地方でこのような誤りが定着したのも、本来「釣るつ 」「茶釜ちゃがま」「月隠つごもり」であるという言語意識が薄れうす てしまったからであろう。語源がわからなくなると、もとの語の発音や意味に変化を来すことがある。漢語の場合には、それに使われた漢字が忘れられると、意味用法の転ずることが少なくない。ことに話し言葉では漢字でどう書くかを問題にしないから、意味を支持するものがないためにとかく変化しがちである。
 たとえば「馳走ちそう」「遠慮えんりょ」「結構」「世話」等の漢語は話し言葉で日常語として使われているうちに、原義とかなり違っちが た意味用法になっていった。
 「馳走ちそう」は、もとの漢字から言えば、はしるの意だが、今ではおいしい料理を意味する。おいしい料理はいろいろ手数や労力がかかるから、「御馳走ごちそう」と相手に礼を言ったところから、現在のような意味に転じたのである。「遠慮えんりょ」は、今はひかえ目にする、さしひかえる意に使う。しかし、もとの意は、「遠きおもんぱかり」である。遠きおもんぱかりによって、積極的には行動しないことが起こる。そのことから、現在のような意味に転じたものであろう。
 「結構」は、もと建物や文章の配置構成を意味する語だが、「立派な結構」「見事な結構」というようなほめ言葉から転じて、立派だ、見事だという意になったのである。「好天」のことを「天気」と言うのも、「よい天気」と使っているうちに「よい」が省かれて「天気」だけでも好天を意味するようになったのと似ている。
 「もう結構です」の「結構」は、立派だ、見事だの意からさらに転じたものであろうが、このように次々と意味が転じて行くのは、話し言葉では「結構」という漢字の字面が思い起こされることがないからであろう。
 「世話」も、世間話、世のうわさの意から、今の「世話になる」「世話をかける」「世話する」の用法が生まれた。
 「週刊朝日」に、電車の「つり皮」は現在は皮ではなくてビニールを使っているから、これを「つり皮」と称するしょう  のは不当で、「つりビニール」と言うべきであろう、「枕木まくらぎ」は、近年は木ではなく
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てコンクリートを材料としているから、「まくらコンクリート」と言うべきではないかという考えが掲載けいさいされていた。
 このような考え方をすると、言葉にはいくらでもおかしなものが出て来る。「駅」や「駐車ちゅうしゃ」も、馬偏うまへんがついているのはおかしい。昔のように馬や馬車が走っているのでなく、「駅」は鉄道のステーションであり、「駐車ちゅうしゃ禁止」などの「駐車ちゅうしゃ」は自動車をとめておくことだからである。「赤い白墨はくぼく」「黄色い白墨はくぼく」もおかしな表現と言えるであろう。
 言葉の正しさを論ずる時にとかく語源が引き合いに出されるが、語源の通りでは社会状勢の変化のために合わなくなるものが多い。社会は複雑になり、人の心理も単純ではなくなるから、語源の通りであることが正しいということになると、今の現実の社会には合わないことになる。
 そうかと言って、一々言葉を言いかえるのも大変なことだろう。「つり皮」が当たらないからと言って「つりビニール」にしたところで、もし今後ビニールが他の材料に変われば、また名称めいしょうを変えなければならないだろう。
 「枕木まくらぎ」にしても同様である。現在、まだ木のものもあるから、「枕木まくらぎ」と「まくらコンクリート」との二つを保存しなければならないし、将来材料が変われば、また「まくら○○」という語を使わなければなるまい。ただ、こういう心理から、在来語を捨てて、外来語を使ったり、新しい漢語を作って使ったりすることも事実である。「洗濯せんたく」は本来水を使うことである。近年のように揮発油を使ったりして清浄せいじょうにするのを、「洗濯せんたく」で表現したのでは適当でないということで、「クリーニング」が行われて来た。「床屋とこや」も「理髪りはつ店」になった。
 結局、言葉は各人の言語意識によって動いて行くようである。そして、その言語意識を作り上げるのは、主としてその人の経験、教養、学校で受けた教育である。言葉の正しさの規範きはん意識もそこから生まれ出るようだ。 (岩淵いわぶち悦太郎えつたろうの文による)
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