1文明人は時計によって時間を測る。それによって、一日は二十四時間に正確に区切られ、共通の時間が設定される。これは多くの人間が社会をつくっていくためには、非常に大切なことである。2これによって、われわれは友人と待ち合わせもできるし、学校も会社も、同一時刻に一斉に始めることもできる。時計の発明によって、人類はどれほど時間が節約できるようになったかわからない、本当に便利なことだ。
3ところで幼児たちは、大人のもつ時計によって区切られた時間とは異なる時間を生きているようだ。「きのう」とか「あした」とかの意味も、はっきりとしていない子もある。4「また、あしたにしようね」などと言っている子も、それは厳密にあしたということをさすのではなく、「近い将来」を意味していることも多い。
5あるいは、何かに熱中していたが、何かで中断しなければならなくなったとき、「また、あしたにしよう」と言うのは、このことを言うことによって、中断することを自らに納得させようとする意味あいで言っている子もある。6この場合の「あした」は、二十四時間の経過後に存在する時期などではなく、断念しなければならないという気持ちと、何か希望を残しておきたいような気持ちの交錯した現在の状況をのべている表現なのである。
7道くさをしたために叱られる幼児たちが、悪かったという気持ちをあらわしながら、何とも納得のいきかねる表情をしていることがよくある。彼らも叱られながら、「おくれてしまった」「おそくなって悪かった」ということはよくわかっているのである。8しかし、なぜおそくなったのだろう。「ぼくは何もしてなかったのに」、「ちょっとだけ、おたまじゃくしを見てただけなのに」と思っているのである。たしかに子どもたちは「ちょっとだけ」何かをしていたのである。9しかし、残念なことに、それは大人のもっている時計では、「一時間」も道くさを食っていたことになるのだ。
おたまじゃくしを見ていた子どもが、一時間を「ちょっとの間」と思ったように、われわれ大人でも、同じ一時間を、長く感じたり短く感じたりする。0時計の上では一時間であっても、経験するものにとっては、その一時間の厚みが異なるように感じられるのである。もちろん、時間そのものには厚みなどあるはずがないから、あくまで、それを経験するものの主観として、厚みが生じてくるのだ。
何かひとつのことに熱中していると、時間が早くたっていくことは誰もが知っていることである。といっても、何かひとつのことを
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