a 長文 10.3週 mu2
 激しい雨が降りつづくなかで、乗っていた特急が停まった。これで三度目だなと私は思った。豪雨ごうう地帯だということもあるけれど、この紀伊半島きいはんとうを走る紀勢線と私とは、不思議に相性が悪いらしい。過去にも二度ほど不通になった経験があった。
 この日も見知らぬ駅に特急は臨時停車したままで、車内には土砂崩れどしゃくず のために停車しているという車内放送が何度か流れた。そのうち乗客たちに牛乳と菓子パンかし  が配られ、そしてさらに何時間かが過ぎ、復旧のみこみがないので臨時バスで輸送することが告げられた。
 そういえば、山が崩れるくず  ほどの豪雨ごううは、私の畑のある群馬県の上野村でも、何度か経験したことがある、と私は思いだしていた。道路が全く通行できなくなって、路上でどうすることもできなくなった日もあった。ところが、同じような豪雨ごううによる土砂崩れどしゃくず でも、上野村で遭遇そうぐうしたときと、この紀勢線の場合とでは、私の受け取り方が面白いように違っちが ていた。
 汽車が豪雨ごううで停まったときは、そのことに対して私は不便を感じているのに、上野村での私は、雨が上がったあとの畑仕事の段取りなどを考えて、それはそれで結構楽しんでさえいたのである。豪雨ごううは一方では私の行動を阻害そがいする困ったものになり、他方では村にいるときは、私は豪雨ごううもまた自然の営みと受け入れていて、この雨によって生まれた自分の仕事をも、当然の村の生活だと感じていた。
 この違いちが は、どこから生じているのだろうか。そんなことを考えているうちに、「場所」という言葉が生まれてきた。
 村にいるときは、私は村という「場所」のなかで、ものごとを考えている。そして村という「場所」は、村人の暮らすところであるとともに、自然が暮らす「場所」でもある。だから自然とともに「場所」を共有する人間が、自然の営みを受け入れ、その結果生じた仕事をこなしていくのはごく当たり前のことであって、何ら自然によって不便を強いられたことにはならないのである。
 ところが汽車のなかでは、私は営みの「場所」をもたない旅人である。この汽車のなかは、私が生活する「場所」ではない。そのような「場所」をもたない人間としての感覚が豪雨ごううという現象を、不便なもののように感じさせる。
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 とすると、人間の思考のなかには、「場所」をもつ思考と、「場所」をもたない思考とが、あることにはならないだろうか。
 ところで、そんなふうに考えていくと、私たちが学んできた近代思想は、「場所」をもたない思想だったという気がしてくるのである。近代社会は、共同体や地域とともにあった思想を否定し、「場所」をこえた共通の思想を、その意味で普遍ふへん的な思想をつくりだそうとした。「場所」ごとにさまざまな思想があったのでは、近代的な世界を成立させることはできなかったのである。こうして「場所」に影響えいきょうされることのない人権思想や、近代的個人観などが生まれてきた。それとともに、私たちも、「場所」に影響えいきょうされることのない普遍ふへん的な思想こそが、すぐれた思想だと思うようになった。
 だがそれでよかったのだろうか。私が紀勢線のなかで感じていたのは、こんな思いだった。豪雨ごううを不便なことだと感じる「場所」をもたない思考と、豪雨ごううをも村の営みのなかに包みこんでいく「場所」をもった思考。そのどちらの思考のほうが、人間や自然にとって、自由な思考なのだろうか。
 おそらく自由もまた、「場所」とともに成立する自由さと、「場所」をもたない自由さとは異なっているはずなのである、その「場所」のなかでは、人間が制御せいぎょできない自然の動きも不自由を強いるものではないのに、「場所」を失った感覚のなかでは、制御せいぎょ不能な自然の動きが不自由なものとして感じられるように。
 人間同士の関係でも同じようなことがいえる。その「場所」のなかで暮らしているときは、不自由と感じることなく受け入れている決まりでも、その「場所」がなければ、人間たちに不自由を強いるものでしかないものは、たくさんあるはずである。
 とすると、「場所」は自由にどのような影響えいきょう与えるあた  ものなのだろうか、このような視点から、私は近代的自由を検証しなおしてみようと思う。

(内山 節「自由論」より)
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