1激しい雨が降りつづくなかで、乗っていた特急が停まった。これで三度目だなと私は思った。豪雨地帯だということもあるけれど、この紀伊半島を走る紀勢線と私とは、不思議に相性が悪いらしい。過去にも二度ほど不通になった経験があった。
2この日も見知らぬ駅に特急は臨時停車したままで、車内には土砂崩れのために停車しているという車内放送が何度か流れた。そのうち乗客たちに牛乳と菓子パンが配られ、そしてさらに何時間かが過ぎ、復旧のみこみがないので臨時バスで輸送することが告げられた。
3そういえば、山が崩れるほどの豪雨は、私の畑のある群馬県の上野村でも、何度か経験したことがある、と私は思いだしていた。道路が全く通行できなくなって、路上でどうすることもできなくなった日もあった。4ところが、同じような豪雨による土砂崩れでも、上野村で遭遇したときと、この紀勢線の場合とでは、私の受け取り方が面白いように違っていた。
5汽車が豪雨で停まったときは、そのことに対して私は不便を感じているのに、上野村での私は、雨が上がったあとの畑仕事の段取りなどを考えて、それはそれで結構楽しんでさえいたのである。6豪雨は一方では私の行動を阻害する困ったものになり、他方では村にいるときは、私は豪雨もまた自然の営みと受け入れていて、この雨によって生まれた自分の仕事をも、当然の村の生活だと感じていた。
この違いは、どこから生じているのだろうか。7そんなことを考えているうちに、「場所」という言葉が生まれてきた。
村にいるときは、私は村という「場所」のなかで、ものごとを考えている。そして村という「場所」は、村人の暮らすところであるとともに、自然が暮らす「場所」でもある。8だから自然とともに「場所」を共有する人間が、自然の営みを受け入れ、その結果生じた仕事をこなしていくのはごく当たり前のことであって、何ら自然によって不便を強いられたことにはならないのである。
9ところが汽車のなかでは、私は営みの「場所」をもたない旅人である。この汽車のなかは、私が生活する「場所」ではない。そのような「場所」をもたない人間としての感覚が豪雨という現象を、不便なもののように感じさせる。
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