a 長文 11.1週 mu2
 ひとは食べずには生きていけない。そして食べるためには、食べるものを作らなければならない。狩猟しゅりょう民や採集民にしても、獲物えものや採集物を、調理もせずに食べるのはまれであろう。調理は、人間生活におけるもっとも基礎きそ的な行動であることは疑いない。火がしばしば文明の象徴しょうちょうとされるのも、おそらくそういう理由からであろう。
 が、この調理といういとなみに、奇妙きみょうなことが起こっている。独身の人たちにかぎらず、料理をしないひとが増えてきたというのは、正確な数字情報はもっていないけれども、コンビニエンス・ストアやデパートの地下の食料品売り場、あるいは夜の居酒屋などの風景を見るかぎり、どうもたしかな事実のようである。昼休みともなると、みずから調理したお弁当を開けるひとはさらに少なくなる。ほとんどのひとが社員食堂に行くか、弁当を買いに行く。パンやスナック菓子    がしですませるひとも少なくない。
 他方で、テレビをつければ、朝から晩おそくまで、料理番組やグルメ番組がずらっと並んでいる。ワイドショーがめじろ押しお の「主婦」の時間帯には、料理番組がもともと多い。が、最近は深夜十一時をまわってからの、それもたっぷり時間をとった番組が増えている。料理のレシピを伝えるというより、あきらかにゲーム感覚のショーといった感じである。それに、ふだんとても手に入らないような食材を使っている。つまり視聴しちょう者があとで作るであろうことは計算に入っていない。そしてそれで番組がなりたっているということだ。
 作らないということは、食事の調理過程を外部に委託いたくするということだ。調理を家の外に出すということ、そのことの意味は想像以上に大きいようにおもう。
 たしかに、むかしは調理も公共の場で、たとえば露地ろじの共同炊事すいじ場でおこなわれることが多かった。それは戦後の二十年くらいまではふつうの光景だった。その後料理の仕事は「マイホーム」に内部化されたのだが、現在ふたたびその過程が、わたしたちからは見えない場所に移動させられつつある。それはちょうど、かつて排泄はいせつが野外や共同便所でなされ、汲み取りく と もわたしたちの面前でなされていたのに、下水道の完備とともに排泄はいせつ物処理が見えない過程になったのと同じことである。
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 それとほぼ並行して、病人の世話が病院へと外部化された。出産や死という、人生でもっとものっぴきならない瞬間しゅんかんも家庭の外へと去った。家で母親のうめき声を聴くき ことも、赤ちゃんの噴きふ だすような泣き声も聴くき ことはなくなってしまった。いや、じぶんの身体でさえ、もはやじぶんでコントロールできず、体調がすぐれないときには、すぐに医院にかけつけるしまつだ。自己治療ちりょう相互そうご治療ちりょうの能力はほぼ枯渇こかつした、その点で、身体はもはやじぶんのものではない。
 誕生や病いや死は、人間が有限でかつ無力な存在であることを思い知らされる出来事である。同じように排泄はいせつも、じぶんがほかならぬ自然の一メンバーであることが思い知らされるいとなみである。そういう出来事、そういういとなみが、「戦後」という社会のなかで次々に外部化していった。そして家庭内にのこされたそういう種類の最後のいとなみが、調理だった。
 ひとは調理の過程で、じぶんが生きるために他のいのちを破壊はかいせざるをえないということ、そのときその生き物は身の力をふりしぼって抗うあらが ということを、身をもって学んだ。そしてじぶんもまたそういう生き物の一つでしかないということも。そういう体験の場所がいまじわりじわり消えかけている。見えない場所に隠さかく れつつある。このことがわたしたちの現実感覚にあたえる影響えいきょうは、けっして少なくないとおもう。

鷲田わしだ清一「普通ふつうをだれも教えてくれない」より)
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